彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月15日、彦根城城郭保存決定

2007年10月15日 | 何の日?
高宮宿 円照寺の止鑾松(しらんのまつ)


明治11(1878)年10月15日、彦根城保存の内達書を滋賀県令宛に送られ彦根城保存が決定しました。

同年10月10日、明治天皇は北陸巡幸を終えた帰途に福田寺に一泊しました。
この時に福田寺の正室で明治天皇の皇后の従姉妹でもあった福田寺かね子が彦根城保存の嘆願を行ったのです。

かね子の婚礼の時に仲人を行ったのが井伊直弼だった事を含め、井伊家と福田寺が密な関係にあった事がこの嘆願の始まりだったようです。


翌日、高宮宿円照寺に泊まった明治天皇は12日に平田の県営製糸工場を見学しさらに彦根城にも立ち寄ったのです。
彦根城は明治9年の彦根城博覧会の後に取壊しが決定していて、この時には既に天守が800円で売却される事が決まっていて解体用の足場も組まれていたのです。

明治天皇に随行していた大隈重信は、この彦根城を見て無くなるのを惜しみ天皇に彦根城保存を奏上しました。
これを認めた明治天皇が内大臣・岩倉具視に城郭保存を伝えたのです。


15日、宮内卿から滋賀県令・籠手田安定へ内達書が送られ彦根城は解体の途中で急遽保存となったのです。


明治天皇の北陸巡幸に随行した高崎正風は

“いでまして
   めぐみの露の かからずは
  ひこねのふる城
     くちやはてまし”

と詠み、巡幸がもたらした彦根城の幸運を後世に伝えています。



ちなみに写真の止鑾松は明治天皇が泊まった円照寺に残っています。
明治天皇が円照寺に宿泊することとなったので、玄関に天皇の乗り物をつけるのに「松の木が邪魔であるので切れ」と役人が命じたのです。
でも、円照寺の住職はこれに抵抗を示します。
役人が明治天皇にご意向を伺うと、天皇は「歩くことなど言うまでもない」と松の木の前に乗り物を止めて御座所まで歩かれました。
その後、住職はこの松が天皇の乗り物の鈴“鑾(らん)”を止めたので“止鑾松(しらんのまつ)”と名付けて明治天皇の慈悲と共に後世に伝えているのです。
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