延暦13(794)年10月22日、平安京遷都。
京都ではこの日に時代祭が行われます。
ではなぜ都は平安京に移ったのでしょうか?
通説では仏教勢力の拡大の影響を逃れるためだと言われているが、そんな事は絶対にありえません。
平安京(京都)の寺の多さは今も昔も日本一ですし、比叡山延暦寺や東寺・西寺(現存していない)等は最初から桓武天皇の保護を受けていたのです。
では、本当の理由は何か?といえば王朝交代と怨霊なのです。
672年の壬申の乱以降には皇室には2つの系統がありました。
兄・天智天皇の系統と弟・天武天皇の系統で、壬申の乱は天武天皇が兄の子の大友皇子(弘文天皇)を討ち滅ぼして皇位に就いた事件でした。
天武天皇は元々皇位に就く資格のない人だったのでその即位式には草薙剣が祟ったという記録も残っています。
この為に壬申の乱の後も多くの血を流す事になり、770年に称徳天皇の死によってその系統は滅んでしまうのです。
そして、正統な天智天皇の末裔に皇位が戻ったのでした。
正統な皇位継承者で無い者の一族が作り上げた都から離れ本当の天皇家の都を作る事こそが桓武天皇の狙いだったのです。
桓武天皇の御世に初めて公式記録に残されるようになった日本人特有の感情が怨霊でした。
桓武天皇には安殿親王(後の平城天皇)という息子がいたのですが、父・光仁天皇の強い希望で弟の早良親王を後継ぎとしていました。
しかし、桓武天皇にすれば弟よりも息子に後を継がせたくなるのが人情と言うモノ…
でも父親の意見なので我慢していたのです。
やがて、父・光仁天皇が病没すると天武系からの完全な独立(光仁は皇后が天武系だった…)を目指して今の京都の南西・長岡で建都を始めます。
しかし長岡京着工の翌年に工事責任者・藤原種継が何者かに暗殺されてしまうのです。
これは遷都反対派の大伴継人の犯行と断定され継人は斬られ、20日ほど前に亡くなっていた継人の父・家持は官位を剥奪されました。
そして黒幕が皇太子・早良親王だと決め付けられて廃太子された上に淡路に流されたのです。
早良親王は無実を訴えて絶食し護送中に衰弱死してしまったのでした。しかし遺体は都に戻される事無く淡路島に送られた…
後年の事になるが大伴一族と早良親王の無実は証明されています。
そして、早良親王は怨霊になったのです。
早良親王の没後に桓武天皇の周りでは不幸な事が続きました。
夫人(側室)・藤原旅子から始まり母・皇后を失う。
また息子・安殿親王も病気がちになってきたのです。長岡京も二度の洪水に悩まさせられました。
ここにいたり桓武天皇は早良親王を怨霊と認めその調伏と回避に力を入れ始めたのです。
調伏の方は怨霊発覚から桓武天皇崩御までの14年間に何度も早良親王の墓に使者を送る徹底振りをしめし、回避として平安京が建都される。
平安京が風水の理論に忠実に作られていると言う説がある。
東に青竜(川)・西に白虎(街道)・南に朱雀(湖・沼)・北に玄武(山)がある地形が都を作る理想とされていて、平安京の場合は東に鴨川・西に西国街道・南に巨椋池(明治に埋め立て)・北に船岡山があり理想の地とされていました。
また、鬼門となる北東方向には比叡山があり、最澄の開いた比叡山寺がここを守る形のなったのです。
最澄はこの偶然から桓武天皇の覚えが良くなり、その子・嵯峨天皇に“延暦寺”の寺号を許される、元号がそのまま寺の名前になるのはこの時が最初であり、以後天皇の許可無しには元号を寺号にするのは禁止されているのです。
平安京の風水は幾重にも完備されている。
細かい説明は避けますが、風水でいう所の龍穴と呼ばれる気の集まる所に太極殿(天皇の住まいと政庁)は建てられていたし、そこから冬至の日の出の見える方向には都を守る将軍塚・日の入りの方向には松尾大社があり、夏至の日の出の見える方向には下賀茂神社・日の入りの方向には天皇家の血統を守った和気清麻呂の墓がある護王寺があります。
これほどまでに気を使った都はこれまで登場していません。
そして、これだけの装備をしたからこそ平安京は千年王都になったのです。
ちなみに江戸の町も同じ原理で出来ています。
東に隅田川・西に東海道・北に上野山・南に江戸湾があり鬼門に東叡山寛永寺。
平安京建都の時の方針が江戸時代まで使われていたのです。
しかし、ここまでしながらも京都はこれから先現在に到るまで数多くの怨霊・悪霊に悩む事になります。そして明治に入り都が東京に移された時に京都の南の巨椋池の干拓を許可する事で京都の風水をわざと壊し東京まで怨霊の恐怖が及ばないようにしてしまったのでした。
歴史を知る上で一番大切な事は、自分の常識を当てはめない事。
自分が怨霊を信じていなくても、たとえ科学でその存在が否定されても、それを歴史上の人物の思考に当てはめると理解が出来なくなってしまいます。
風水は平安京建都当時は最新の科学であり、怨霊も常識でした。
江戸の町も同じでしかも鬼門警護はもっと気を使ったのです。
江戸の鬼門の延長線の水戸には御三家の一家を置き、京の鬼門の延長線の彦根には譜代大名筆頭の井伊家を置いて目を光らせています。
この配置を指示した江戸幕府政治顧問の天海は「水戸から将軍が出た時に幕府は終わる」と言い残したそうですが、最後の将軍・慶喜は実際に水戸藩の出身でした。
それぞれの鬼門に位置する水戸藩と彦根藩の争いがそのまま幕府と朝廷の対立になり、鬼門出身の将軍が幕府を終焉させた事を偶然とは言い難いかも知れませんね。
風水は今でも受け継がれていて、それを扱える人(陰陽師)に脚光が浴びるのもこの歴史があってこそなのだと思いますよ。
ちなみに、こんな平安京遷都を記念して行われるようになった時代祭を提案したのは元彦根藩士・西村捨三でした。
西村は沖縄県令・大坂府知事も勤めあげた人物ですので後日その人生を紹介していきたいと思っています。
京都ではこの日に時代祭が行われます。
ではなぜ都は平安京に移ったのでしょうか?
通説では仏教勢力の拡大の影響を逃れるためだと言われているが、そんな事は絶対にありえません。
平安京(京都)の寺の多さは今も昔も日本一ですし、比叡山延暦寺や東寺・西寺(現存していない)等は最初から桓武天皇の保護を受けていたのです。
では、本当の理由は何か?といえば王朝交代と怨霊なのです。
672年の壬申の乱以降には皇室には2つの系統がありました。
兄・天智天皇の系統と弟・天武天皇の系統で、壬申の乱は天武天皇が兄の子の大友皇子(弘文天皇)を討ち滅ぼして皇位に就いた事件でした。
天武天皇は元々皇位に就く資格のない人だったのでその即位式には草薙剣が祟ったという記録も残っています。
この為に壬申の乱の後も多くの血を流す事になり、770年に称徳天皇の死によってその系統は滅んでしまうのです。
そして、正統な天智天皇の末裔に皇位が戻ったのでした。
正統な皇位継承者で無い者の一族が作り上げた都から離れ本当の天皇家の都を作る事こそが桓武天皇の狙いだったのです。
桓武天皇の御世に初めて公式記録に残されるようになった日本人特有の感情が怨霊でした。
桓武天皇には安殿親王(後の平城天皇)という息子がいたのですが、父・光仁天皇の強い希望で弟の早良親王を後継ぎとしていました。
しかし、桓武天皇にすれば弟よりも息子に後を継がせたくなるのが人情と言うモノ…
でも父親の意見なので我慢していたのです。
やがて、父・光仁天皇が病没すると天武系からの完全な独立(光仁は皇后が天武系だった…)を目指して今の京都の南西・長岡で建都を始めます。
しかし長岡京着工の翌年に工事責任者・藤原種継が何者かに暗殺されてしまうのです。
これは遷都反対派の大伴継人の犯行と断定され継人は斬られ、20日ほど前に亡くなっていた継人の父・家持は官位を剥奪されました。
そして黒幕が皇太子・早良親王だと決め付けられて廃太子された上に淡路に流されたのです。
早良親王は無実を訴えて絶食し護送中に衰弱死してしまったのでした。しかし遺体は都に戻される事無く淡路島に送られた…
後年の事になるが大伴一族と早良親王の無実は証明されています。
そして、早良親王は怨霊になったのです。
早良親王の没後に桓武天皇の周りでは不幸な事が続きました。
夫人(側室)・藤原旅子から始まり母・皇后を失う。
また息子・安殿親王も病気がちになってきたのです。長岡京も二度の洪水に悩まさせられました。
ここにいたり桓武天皇は早良親王を怨霊と認めその調伏と回避に力を入れ始めたのです。
調伏の方は怨霊発覚から桓武天皇崩御までの14年間に何度も早良親王の墓に使者を送る徹底振りをしめし、回避として平安京が建都される。
平安京が風水の理論に忠実に作られていると言う説がある。
東に青竜(川)・西に白虎(街道)・南に朱雀(湖・沼)・北に玄武(山)がある地形が都を作る理想とされていて、平安京の場合は東に鴨川・西に西国街道・南に巨椋池(明治に埋め立て)・北に船岡山があり理想の地とされていました。
また、鬼門となる北東方向には比叡山があり、最澄の開いた比叡山寺がここを守る形のなったのです。
最澄はこの偶然から桓武天皇の覚えが良くなり、その子・嵯峨天皇に“延暦寺”の寺号を許される、元号がそのまま寺の名前になるのはこの時が最初であり、以後天皇の許可無しには元号を寺号にするのは禁止されているのです。
平安京の風水は幾重にも完備されている。
細かい説明は避けますが、風水でいう所の龍穴と呼ばれる気の集まる所に太極殿(天皇の住まいと政庁)は建てられていたし、そこから冬至の日の出の見える方向には都を守る将軍塚・日の入りの方向には松尾大社があり、夏至の日の出の見える方向には下賀茂神社・日の入りの方向には天皇家の血統を守った和気清麻呂の墓がある護王寺があります。
これほどまでに気を使った都はこれまで登場していません。
そして、これだけの装備をしたからこそ平安京は千年王都になったのです。
ちなみに江戸の町も同じ原理で出来ています。
東に隅田川・西に東海道・北に上野山・南に江戸湾があり鬼門に東叡山寛永寺。
平安京建都の時の方針が江戸時代まで使われていたのです。
しかし、ここまでしながらも京都はこれから先現在に到るまで数多くの怨霊・悪霊に悩む事になります。そして明治に入り都が東京に移された時に京都の南の巨椋池の干拓を許可する事で京都の風水をわざと壊し東京まで怨霊の恐怖が及ばないようにしてしまったのでした。
歴史を知る上で一番大切な事は、自分の常識を当てはめない事。
自分が怨霊を信じていなくても、たとえ科学でその存在が否定されても、それを歴史上の人物の思考に当てはめると理解が出来なくなってしまいます。
風水は平安京建都当時は最新の科学であり、怨霊も常識でした。
江戸の町も同じでしかも鬼門警護はもっと気を使ったのです。
江戸の鬼門の延長線の水戸には御三家の一家を置き、京の鬼門の延長線の彦根には譜代大名筆頭の井伊家を置いて目を光らせています。
この配置を指示した江戸幕府政治顧問の天海は「水戸から将軍が出た時に幕府は終わる」と言い残したそうですが、最後の将軍・慶喜は実際に水戸藩の出身でした。
それぞれの鬼門に位置する水戸藩と彦根藩の争いがそのまま幕府と朝廷の対立になり、鬼門出身の将軍が幕府を終焉させた事を偶然とは言い難いかも知れませんね。
風水は今でも受け継がれていて、それを扱える人(陰陽師)に脚光が浴びるのもこの歴史があってこそなのだと思いますよ。
ちなみに、こんな平安京遷都を記念して行われるようになった時代祭を提案したのは元彦根藩士・西村捨三でした。
西村は沖縄県令・大坂府知事も勤めあげた人物ですので後日その人生を紹介していきたいと思っています。