彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月27日、宇津木六之丞斬首

2007年10月27日 | 何の日?
長野主膳と宇津木六之丞を慰霊する義言地蔵


文久2年(1862)10月27日、彦根藩の牢屋敷で宇津木六之丞景福が斬首となりました。享年54歳。


宇津木家は戦国時代に小田原の後北条氏に仕えていて、北条氏滅亡後に井伊直政に従い藩政時代は重臣の家となっていたのです。

景福は元々は古澤氏の生まれでしたが、母の実家である宇津木六之丞家に後継ぎが生まれなかったために宇津木六之丞家の九代目を継いだのです。
若い頃は十二代藩主・直亮の下で彦根藩の相模湾警備に参加し鉄砲頭として大砲も作っています。


直弼が藩主となると江戸家老として江戸上屋敷に詰め、常に直弼の側に従っていたのでした。この時の記録が『公用方秘録』として今に伝わり直弼研究の第一級資料となっています。


六之丞は、江戸で直弼の側に居ましたが、京を中心に活動したのが長野主膳でしたので六之丞が二人の間の連絡係りとなっていたのです。
そして桜田門外の変の時は、上屋敷で直弼が襲われた報告を受け、慌てて現場に飛び出していったのが六之丞だったと言われていてドラマなどでもそのように描かれています。

桜田門外の変の後の彦根藩に関する始末で活躍し、直弼没後も主膳と共に幕閣に影響を与え公武合体を成功させたのです。
しかし、直弼の後を継いだ老中・安藤信正が坂下門外で襲われ、そのまま逃げ出してしまったので武士の恥を晒してしまい失脚したのです。
こうして主膳や六之丞も幕府から遠のく事になったのです。


同じ頃、尊皇攘夷の志士たちが安政の大獄の恨みを晴らす為に主膳・六之丞らの命を狙った為に彦根藩での反長野派の家老・岡本半介は自藩の重臣が暗殺されると言う事件に発展する事を恐れて長野主膳を捕らえて取り調べもしないままに3日後に斬首としたのです。
文久2年8月27日の事でした。

そして江戸に居た宇津木六之丞も彦根に招聘されて首を斬られたのでした。
主膳も六之丞も武士でありながら切腹も許されなかったのです。


“月影の 更行ままに身にしみて
   氷ると見ゆる 芹の河水”

とは六之丞の句
コメント (2)
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