2009年、再建50周年を迎えた岡崎城に行ってきました。
再建50年ということは、伊勢湾台風が上陸した年に出来た事になりますね。昭和34年3月30日に設立となっていますので、たった半年で大きな試練を受けた城なのです。
【岡崎城大手門】

さて、岡崎城は徳川家康の生誕地として知られ、城内には家康の産湯に使った井戸もあります。

最近、管理人が城郭資料となっている『主図合結記』では、岡崎は江戸時代に本多家や水野家といった有力譜代大名が5万石で治めていた場所だったようで、その城郭は典型的な平山城だったそうです。
ですので、本多忠勝の像がありました。

しかし家康の像は写真の代表的な物を含め3体も見る事が出来るのです。
岡崎城が最初に築城されたのは康正元年(1455)に西郷頼嗣(青海入道)という人物だったそうで、この人物の名を残した青海堀という深い空堀も見ごたえだありますので、訪問される時は必ず見て欲しいと思います。

天守の前には、家康の人生訓とも言える「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし」で始まる『東照君遺訓碑』があります。
家康の教訓を胸に刻みながら岡崎城天守に登るといいかもしれませんね。

天守を見学した後に、上から麓の建物を見ると瓦が割れている部分があったのですが、先日の台風18号の被害なのでしょうか?

大手門近くには、東隅櫓再建工事も行われていました。完成が楽しみですね。

そして岡崎城に行ったならば、行かなければいけないのは“大樹寺”だそうです。ここには徳川将軍家代々の位牌が安置されています。
その位牌は将軍の亡くなった時の身長に合わせているそうで、増上寺の徳川将軍家菩提所の遺骨を調査した時に1cm程度の誤差しかなかったそうです。
この位牌を見ると、幼くして亡くなった7代将軍家継の身長が135cmと低かった事は解るのですが、なんと5代将軍綱吉はそれよりも低い124cmしかありませんわ…
そんな大樹寺の正面からは遠くに岡崎城が見えるようになっていますが、写真では写りませんでしたので、皆さんの目でお確かめ下さい。
再建50年ということは、伊勢湾台風が上陸した年に出来た事になりますね。昭和34年3月30日に設立となっていますので、たった半年で大きな試練を受けた城なのです。
【岡崎城大手門】

さて、岡崎城は徳川家康の生誕地として知られ、城内には家康の産湯に使った井戸もあります。

最近、管理人が城郭資料となっている『主図合結記』では、岡崎は江戸時代に本多家や水野家といった有力譜代大名が5万石で治めていた場所だったようで、その城郭は典型的な平山城だったそうです。
ですので、本多忠勝の像がありました。

しかし家康の像は写真の代表的な物を含め3体も見る事が出来るのです。

岡崎城が最初に築城されたのは康正元年(1455)に西郷頼嗣(青海入道)という人物だったそうで、この人物の名を残した青海堀という深い空堀も見ごたえだありますので、訪問される時は必ず見て欲しいと思います。

天守の前には、家康の人生訓とも言える「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる時を思いだすべし」で始まる『東照君遺訓碑』があります。
家康の教訓を胸に刻みながら岡崎城天守に登るといいかもしれませんね。

天守を見学した後に、上から麓の建物を見ると瓦が割れている部分があったのですが、先日の台風18号の被害なのでしょうか?

大手門近くには、東隅櫓再建工事も行われていました。完成が楽しみですね。

そして岡崎城に行ったならば、行かなければいけないのは“大樹寺”だそうです。ここには徳川将軍家代々の位牌が安置されています。
その位牌は将軍の亡くなった時の身長に合わせているそうで、増上寺の徳川将軍家菩提所の遺骨を調査した時に1cm程度の誤差しかなかったそうです。
この位牌を見ると、幼くして亡くなった7代将軍家継の身長が135cmと低かった事は解るのですが、なんと5代将軍綱吉はそれよりも低い124cmしかありませんわ…
そんな大樹寺の正面からは遠くに岡崎城が見えるようになっていますが、写真では写りませんでしたので、皆さんの目でお確かめ下さい。