安政6年(1859)10月7日、橋本左内が斬首となります享年26歳。
150年後の今日、彦根から井伊家当主をはじめとする人々が左内の出身地である福井市に訪問して、左内の墓参りをされました。
【福井市の墓所近くにある橋本左内の像】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/b9/1657a9c4f4876d7b7cb08f03c76ee799.jpg)
左内の主君である松平慶永の記録を元にその人生を紐解くと、
橋本左内は天保5年(1834)3月11日に福井城下に生まれ、父親は医術をもって福井藩に仕えた人物だそうです。
左内は幼い頃から学問を好んで成長してからは大志を抱くようになったのだとか。性格は温和で純粋・謙虚、人と争った事も無かったそうです。
16歳で大坂に出て緒方洪庵に学び3年後に父の死で家督を相続して福井藩医に加えられ、22歳で藩医を免ぜられ御書番院となり、福井藩校の教育改革も行ったそうです。
24歳で主君近くに仕える内用掛となり、慶永は重要な任務に参画させました。
この事から、当時の幕府内の勢力争いでもあった将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた慶永の代わりにあちらこちらで政治活動を行うようになり、安政5年10月23日に江戸町奉行所に呼び出され福井藩邸で禁固となり、翌年10月2日に小伝馬町牢屋敷に入れられて7日に斬首となったのです。享年26歳。
吉田松陰は死の直前に残した『留魂録』の中で橋本左内について述べた一章を残しています(第十四章)。全文を紹介しますと、
《一、越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する五六日のみ。勝保(勝野保三郎)同居せり。後、勝保西奥に来り予(松陰)と同居す。予、勝保の談を聞きて益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中、資治通鑑を読み、註を作り漢紀を終える。又獄中数学工作等の事を論ぜし由、勝保予が為めに是を語る。獄の論大いに吾が意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。嗟夫(ああ)》
左内が5.6日牢に居ただけで処刑され、その間に左内と同室だった勝野保三郎が松陰と同室になり、左内が数日間で勝野に語った事を聴いただけでもその有能さが伺え、一度も面識がないままに左内がこの世から居なくなったことを松陰が嘆いています。
その中で左内が幽閉中に『資治通鑑』を読んで注釈を付けた事や『漢紀』全30巻を読破した事にも感動をしています。
賢者は賢者を知ると言う事でしょうか。そんな吉田松陰も20日後(10月27日)に30歳で斬首となるのです。
明治に入り松平慶永は「慶喜を推したのは誤りであった」と述べていますが、そうなると左内は誤りの中で一生懸命に働き命を落とした事になります。
しかしその原因はやはり安政の大獄にある事も間違いではありません。安政の大獄は「当時としては当り前の判決であった」との意見もあります。それが正しいのか否かを述べるのは今回のテーマではありませんが、惜しい人材を失った事は間違いないようです。
ただし、ちょっとだけ井伊直弼(というか長野主膳でしょうか?)の肩を持つならば、橋本左内は吉田松陰や他の刑死者とは違って、福井藩の保護要請があれば幕府もそれを認めざるを得ない立場でもありました。歴史にもしはありませんが松平慶永が藩の威信にかけて左内の助命運動をしていたならば、明治政府は有能な人材をもう一人確保していたかもしれないのです。
150年後の今日、彦根から井伊家当主をはじめとする人々が左内の出身地である福井市に訪問して、左内の墓参りをされました。
【福井市の墓所近くにある橋本左内の像】
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左内の主君である松平慶永の記録を元にその人生を紐解くと、
橋本左内は天保5年(1834)3月11日に福井城下に生まれ、父親は医術をもって福井藩に仕えた人物だそうです。
左内は幼い頃から学問を好んで成長してからは大志を抱くようになったのだとか。性格は温和で純粋・謙虚、人と争った事も無かったそうです。
16歳で大坂に出て緒方洪庵に学び3年後に父の死で家督を相続して福井藩医に加えられ、22歳で藩医を免ぜられ御書番院となり、福井藩校の教育改革も行ったそうです。
24歳で主君近くに仕える内用掛となり、慶永は重要な任務に参画させました。
この事から、当時の幕府内の勢力争いでもあった将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた慶永の代わりにあちらこちらで政治活動を行うようになり、安政5年10月23日に江戸町奉行所に呼び出され福井藩邸で禁固となり、翌年10月2日に小伝馬町牢屋敷に入れられて7日に斬首となったのです。享年26歳。
吉田松陰は死の直前に残した『留魂録』の中で橋本左内について述べた一章を残しています(第十四章)。全文を紹介しますと、
《一、越前の橋本左内、二十六歳にして誅せらる、実に十月七日なり。左内東奥に坐する五六日のみ。勝保(勝野保三郎)同居せり。後、勝保西奥に来り予(松陰)と同居す。予、勝保の談を聞きて益々左内と半面なきを嘆ず。左内幽囚邸居中、資治通鑑を読み、註を作り漢紀を終える。又獄中数学工作等の事を論ぜし由、勝保予が為めに是を語る。獄の論大いに吾が意を得たり。予益々左内を起して一議を発せんことを思う。嗟夫(ああ)》
左内が5.6日牢に居ただけで処刑され、その間に左内と同室だった勝野保三郎が松陰と同室になり、左内が数日間で勝野に語った事を聴いただけでもその有能さが伺え、一度も面識がないままに左内がこの世から居なくなったことを松陰が嘆いています。
その中で左内が幽閉中に『資治通鑑』を読んで注釈を付けた事や『漢紀』全30巻を読破した事にも感動をしています。
賢者は賢者を知ると言う事でしょうか。そんな吉田松陰も20日後(10月27日)に30歳で斬首となるのです。
明治に入り松平慶永は「慶喜を推したのは誤りであった」と述べていますが、そうなると左内は誤りの中で一生懸命に働き命を落とした事になります。
しかしその原因はやはり安政の大獄にある事も間違いではありません。安政の大獄は「当時としては当り前の判決であった」との意見もあります。それが正しいのか否かを述べるのは今回のテーマではありませんが、惜しい人材を失った事は間違いないようです。
ただし、ちょっとだけ井伊直弼(というか長野主膳でしょうか?)の肩を持つならば、橋本左内は吉田松陰や他の刑死者とは違って、福井藩の保護要請があれば幕府もそれを認めざるを得ない立場でもありました。歴史にもしはありませんが松平慶永が藩の威信にかけて左内の助命運動をしていたならば、明治政府は有能な人材をもう一人確保していたかもしれないのです。