彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『高野瀬氏について』

2009年10月11日 | 講演
肥田城の城主は高野瀬という一族ですが、その本貫地である高野瀬の地名を残した場所が近くにあります。
そんな高野瀬地区の公民館から、高野瀬氏の簡単なお話を頼まれた『どんつき瓦版』編集長。

元々は公民館のお祭りの一環としての〆のお話ですので、短い時間でまとめ1ヶ月後に彦根市文化財課の方がお話をされる前哨戦とも言える内容ですから、本当にさわりだけのお話でした。

そんな編集長の話を紹介します。

~~以下、本文~~

この間、肥田城水攻め450年のシンポジウムでお話させていただきました。
肥田城の城主・高野瀬氏は元々この近くの高野瀬城の出身ですが、有名になったのは肥田城なので、高野瀬地区ではあまり語られません。でも高野瀬は凄い大名です。
当時は観音寺城の佐々木六角氏が近江守護職を勤めていて、近江守護なので合戦では1万2万の兵を集める大大名でした。それに対し高野瀬氏は一つの地域でしかない訳で千人くらいしか人を集められません。
その代り佐々木六角に対し城を守ったという事で、相当強い武将だったのではないか?と考えられます。

よく調べてみると、肥田城には明銭という中国のお金が明治になって発見されました、話を聞くと高野瀬地区でも「お金が眠っている」という言い伝えがあったと聴きます。それを聞くと明銭の話も納得できます。
実は、明銭が出てくると言うのはそれだけ価値があるものです、それは、高野瀬氏は高野瀬地区から出た豪族ですが肥田に移った。
高野瀬氏は高野瀬地区を通る東山道(中山道)に関所を設けて通行料を徴収し、肥田で下街道(巡礼街道)の通行料を徴収したのも高野瀬氏だと考えられます。
高野瀬氏は帝に対して瓜を献上していました。瓜は中国から入って来た物ですので、中国から輸入して高野瀬地区で熟した瓜を帝に献上するという事は、琵琶湖の勢力図も高野瀬が握っていた(絡んでいた)かも知れない。
と言いうことは、高野瀬は相当お金を持っている。財力があるという事はそれだけ人を動かす事も出来るのです。
佐々木六角は、ひとつの豪族が浅井に付いただけでなぜ何万もの軍勢で攻めてくるのか? しかも攻めた事に対して高野瀬氏は受けて立つのか?

肥田城のシンポジウムで中井均先生が、「当時の戦いは、攻めて来れば火を付けて逃げるのが常識なのに高野瀬は城に籠った」と言われました。浅井長政が救援に来るといいますが、当時の浅井長政は16歳です、高校一年生です。
高校一年生が来るのを待つというのは、相当変な話ですので、当時の高野瀬氏は強い大名ではなかったのではないか?と思うのです。

その後の高野瀬氏は、浅井長政・織田信長と主を変え、柴田勝家と一緒に越前に行って自刃した事になっています。高野瀬氏はそこで終わったと思われていますが、桜田門外の変の時に江戸の上屋敷から彦根に対して井伊直弼の危急を報せる役目をした方の一人は高野瀬喜助という高野瀬氏なんです。もしかしたら幕末まで残った家は分家かもしれませんが地域の方がもっともっと調べてくれれば、面白い話が出て来るのではないか?と思います。

今までは彦根市は彦根市だけ、豊郷町は豊郷町だけだったかもしれませんが、彦根市が定住自立圏構想を打ち立て、先日調印がありましたが、ハードだけではなく、文化面などのソフトの交流もしていく、高野瀬の人も学ぶことが大切ですし、彦根に行けば博物館も文化財課もありますそこには古文書が読める方もたくさん居ます。そんな方々を利用して地域で眠っている歴史を掘り起こしていただければ嬉しいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする