彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月10日、大仏殿炎上

2010年10月10日 | 何の日?
永禄10年(1567)10月10日、松永久秀が東大寺を焼きました。
そして10年後の天正5年(1577)10月10日、信貴山城の戦いで爆死します。


松永久秀は、戦国を代表する梟雄の一人として戦国史に名前を残しています。

戦国の三梟雄と言えば、斎藤道三・宇喜多直家・松永久秀を指します。この内、斎藤道三と宇喜多直家は、謀略を用いて主君を倒し、一国を己の力でもぎ取った下剋上の代表のような人物ですが、他にも北条早雲や毛利元就もそれに近い事をしていますし、強いて言えば織田信長や羽柴秀吉はもっと大きな規模で下剋上を成し遂げたとも言えるので、戦国時代では当たり前の事だったとも言えます。


松永久秀が、これらの大名たちと違うところを挙げるなら、織田信長が徳川家康に久秀を紹介した時の言葉に要約されると思います。

「この男(久秀)は、常人ならばやらないであろう三つの悪行を行った。主君である三好長慶を殺したこと、将軍足利義輝を殺したこと、そして東大寺の大仏を焼いたことである」
主君を殺すぐらいは上記の人物のほとんどが行っていますが、将軍を殺したのは数えるほどしかいませんし、東大寺大仏殿はまだ2度目の炎上でしかありませんでした。そのうちの一度は6月にご紹介している平重衡斬首を参照してください。

信長の紹介を、久秀から言わせれば、「お前(信長)だって、尾張守護を追って、将軍足利義昭を追放し、延暦寺を焼いたじゃないか」と言いたかったところでしょうね。



そんな久秀三悪行の一つである永禄10年の東大寺大仏殿の炎上は、久秀のみを責めるのは疑問視があります。

この時期、三好家の宿老だった久秀は、同じく三好家家臣の三好三人衆との間に権力争いが生じ、また久秀の居城である多聞山城があった大和国の覇権を巡って筒井順慶とも戦が絶えませんでした。

こうして、永禄10年に三好三人衆と筒井順慶が東大寺に布陣して多聞山城での戦いとなります。

多聞山城から東大寺を見ると、目と鼻の先です。

久秀が焼いた大仏殿の模型


久秀自身は、東大寺を戦場とする事にためらいはあった様子ですが、戦に使われた以上は仕方がない部分もあり、10月10日深夜に三好軍に夜襲を強行します。

この時に松永軍の不手際なのか、三好軍が行ったのかは不明ですが、大仏殿を始めとする建物に火が付き、丑刻には大仏殿が消失しました。
この結果、大仏殿の頭部が落ちてしまうのです。現在の奈良の大仏はその後頭部が再び造られた物ですので、しっかり見ると首の部分で違っているのがわかります。

以前は久秀の故意による大仏殿炎上と思われていましたが、最近では失火との説が取られるようになり、久秀の三悪行の一つは名誉挽回されつつあります。


しかし、当時の人々はこの事件にショックを受けました。
この10年後、信貴山城で古天明平蜘蛛という茶釜に火薬を詰めて久秀が爆死した時、その日が10月10日であったことから後々まで因縁を語られるようになるのです。

実は、管理人としては、この最後の瞬間をもって久秀を良い評価で見ていません。

この世の中には権力者で文化遺産を収集した人物は多くいます。そのほとんどは不意な攻撃による死でない限り芸術品の保存に勤め、場合によっては攻撃側にそれらの品を引き渡した後に亡くなりました。
ヒトラーですら洞窟に隠しはしたものの、芸術品に危害が及ぶのを極力避けています。しかし久秀は信長に渡したくない一心で平蜘蛛に火薬をいれたのです。

茶人としても名高い久秀ですが、文化人としての評価については考え直す必要があると思います。

ただ、この話にも色々な伝説が付いてきます。
一つには、久秀は事前に平蜘蛛を交流の深かった柳生石舟斎に密かに預け、柳生家はそれを隠し持ち続けたが明治維新後に紛失した。
もう一つは、信貴山城落城後に城跡から掘り出され信長が愛用した。
と…
ちなみに掘り出されたという伝説がある茶釜は浜名湖館山美術博物館にあるそうです。


さて、このように悪名と壮絶な最期で戦国史に名前を残した松永久秀。その人生において、近江が関わった出来事があります。
信長の越前朝倉氏攻めで、小谷城の浅井長政が信長の元を離れて朝倉義景に味方した時、報せを受けた信長は、金ヶ崎から湖西を抜けて京へ戻る道を選びます。この時に信長の先駆けとして退却ルートに居る豪族を説得したのが久秀でした。
特に朽木越えの時に、浅井方に属していた朽木元綱がどのような対応をとるのかが信長の生死に関わる重大事だったのです。この時、元綱を説得したのが久秀でした。
朽木元綱が信長を招き入れ、京までの先導をしたことで、北近江の歴史が大きく変わってしまい、浅井家の滅亡となるのです。

ちなみに、朽木元綱は慶長5年には関ヶ原の戦いで小早川秀秋に呼応する形で西軍を裏切ります。戦国最大の梟雄がどのような説得を行ったのかはわかりませんが、元綱にとって30年経っても裏切りが正当化されるような言葉を含んでいたのではないか?と思うと興味深い瞬間です。
そう考えるなら、久秀の行動が、おのれ自身の悪行だけではなく、織田信長の命や関ヶ原の戦いの運命にも繋がってたと考えると面白いのかもしれませんね。
コメント
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