彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月18日、小早川秀秋死去

2010年10月18日 | 何の日?
慶長7年(1602)10月18日、備前岡山藩主小早川秀秋が亡くなりました。享年21歳

小早川秀秋といえば、関ヶ原の戦いで西軍を裏切って東軍に味方し、東軍を勝利に導いた人物として、昨今の判官贔屓的な歴史ブームの中では特に嫌われた人物として描かれています。


しかし、数年前の9月15日、関ヶ原の戦いの記事にも書いた通り、小早川秀秋は石田三成からも徳川家康からも「動かないでほしい」との依頼を受けていただけで、軍を動かしたのは秀秋の英断であり、決して裏切りではありませんでした。

ましてや、秀秋が松尾山に陣を築くのも、三成の命ではなく秀秋が家老の稲葉正成と相談し、勝手に松尾山に向かい、大垣城主の伊藤盛正(稲葉家の記録では“伊藤長門守某”)が石田三成の命で古城を改修した物をそのまま奪い立て籠もったのです。


これが関ヶ原の戦いの前日の9月14日の出来事でしたから、この時点で石田三成と小早川秀秋は同じ命令系統の元にある軍勢ではありませんでした。

その為に、大谷吉継は松尾山の麓に赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治の軍を置いて小早川勢に備える構えを見せたのです(結局この四将は秀秋と行動を共にする事になりますが…)


ですから、関ヶ原の戦いの後で小早川秀秋が裏切り者として他の大名からの交流も断られ、肩身の狭い想いをして、そのストレスから酒乱となり家臣や腰元・領民などを斬って半狂乱の末に亡くなったとか、大谷吉継が秀秋が居る方を見ながら「三年のうちに祟りをなさん」と言いながら腹を切ったなどの話が残っていますが、お芝居やドラマ・小説などの話としては因縁話も含めて面白いですが、本気で歴史を語る上ではあり得ない話としか言わざるを得ません。

大谷吉継は、最近では“義”の武将なんて騒がれている人物です。この人物が事前に小早川秀秋に備えて四人の武将を配置しているのですから、攻めてくるための準備はあり、もし祟りをなすなら秀秋に便乗して裏切った四将に対してです。

しかも、これらの四将は
・赤座直保は、朝倉義景から織田信長に
・小川祐忠は、浅井長政から織田信長に
・朽木元綱は、浅井長政から織田信長に
・脇坂安治は、東軍にいる加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人
と、寝返りを既に経験したり東軍に強いパイプがある武将ばかりで、裏切らないと思うのが変なくらいでした。

吉継の祟り説は、とくに吉継を義の人として評価している方が、「吉継にそこまで言わせるくらい秀秋は大変な事をした」と主張する為に使われますが、これは暗に「大谷吉継は、策略もろくに立てられない勘違いした策士だったから、自分の失敗を秀秋になすりつけた」と主張しているのと同じなのです。

秀秋だけでなく、吉継の名誉回復のためにも、正しい目でこの状況を分析して欲しいと、いつも切に願っています。



そして、小早川秀秋は岡山城下では善政を敷いたと言われています。

秀秋が関ヶ原での行為に負い目を感じて、半狂乱の上に亡くなる可能性は極めて低いとしか言いようがなく、何らかの策略か、秀秋自身に病があったとしか考えられません。
とにかく、慶長7年10月18日に秀秋は亡くなり、小早川家は徳川政権下初の改易大名となったのです。

秀秋の家老だった稲葉正成の妻・春日局は徳川家光の乳母となり、稲葉家は老中や若年寄を輩出する大名になります。また家臣である堀田正吉の子孫も譜代大名となり大老・堀田正俊を輩出する大老四家の一家になります。もしかしたらこの辺りに秀秋の死との関わりがあるのかもしれませんね。


小早川秀秋の死と。御家断絶により、後の記録では死人に口なしと言わんばかりに秀秋を関ヶ原の裏切り者であり、弱い人物として過剰に描かれてきた感があります。
そろそろ、新しい評価が広がっても良い頃かもしれません。


ちなみに関ヶ原の戦いののちに秀秋は“秀詮”と改名しているので、本来ならばこの名前で書かねばいけませんが、便宜上改名前の名前を使っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする