ヒロシの日記

たくさんの人たちの幸福を願いつつ、常に自然な生き方を望む私の日記です。

解いておきたかった誤解

2011-02-01 23:22:44 | 絵本
病院でこん睡状態にある義母の連れ合いは、下の娘が生まれた年に亡くなっていましたので、もう22年になるでしょうか。

義父は親分肌の面倒見が良い人で、葬儀には沢山の人が参列しましたが、その人生は二度のガンとの壮絶な闘いの中で幕を閉じました。

義父母は義父の生まれ故郷である秋田と東京を行ったり来たりしていましたが、私達夫婦は結婚してから二人の子供を授かるまで千葉に住んでいました。

義父に最初のガンが見つかったのは、上の娘が一歳になった頃だと記憶しています。

秋田では十分な治療が出来ないということで、東京の大きな病院に入院しましたが、その頃妻は二人目がお腹にいて身軽ではなかったので、休みになると私が一歳の娘を背負いカゴのようなキャリヤーに入れて、義父の入院先である東京の病院に通っていました。

今のように医学が進んだ時代と違い、その当時のガンの宣告は死刑宣告にも等しいものと受け止められ、当然ながら最初の頃は義父にもそれが伝わることはなかったのですが、義父が亡くなってから何年経った後で、その当時私が病室で義父にガンの宣告、もしくはそれと思わせるようなことを言っていたのだと妻から知らされたのです。

そして私が妻の父親にそのように言ったことは、妻の母親から聞かされて知ったそうです。

多分それは墓場まで持って行く決心で、妻の心の奥底に秘めていたことなのでしょう。
何故ならば、妻がそれを知ったと思われる時に、私にそれを切り出したことがなかったからです。
それがある時何かをきっかけに私への怒りを感じた時に、心の奥に封印したそれが感情のほころびから漏れてしまったのだと思います。

妻は母親から「そのこと」を聞かされて泣いたそうです。
義母は「その事実」を知った時に私を激しく恨み、義理の息子としての思いが裏切られた悔しさを妻にぶつけたのです。
妻もそれに呼応するかのように私を憎んだことと思いますが、それは即座に封印され、その時まで私達の間では何事もない日々が続いたのです。


そしてある日突然に封印は解かれました。


しかし私にとって「その事実」は、全くの身に覚えのないことでした。

義父の人望の厚さは、妻との結婚を許してもらうための挨拶の時に直ぐ分かりました。
そのような敬うべき妻の父親に、どうして私がそのような酷い結果をもたらす一言を言えるのでしょうか?


しかし封印が解かれ、憎悪の炎に包まれた妻を前にしても、私は眉ひとつ動かすことなく平静でいられました。
何故ならば身に覚えのないことに、私が心を動かすことはなかったからです。
私はその場で一切の申し開きをしませんでした。
黙って妻の叱責の言葉をその身に受けていました。
もちろん心が冷え切っていたことは言うまでもありません。


病名も告げられないまま、平然と長い入院生活を送れる人はいないでしょう。
義父の病名を知りたいと思う気持ちと藁にもすがりたい気持ちが、私の見舞いの言葉の端々から「ガン宣告」を読み取らせてしまったのだと今は思います。


私は長い人生の中で沢山の人達に赦しを乞い、また一方で沢山の人達を赦してきました。
いや、努めて赦そうと思っていたのかも知れません。

 
今も私は、あの時の妻が私をなじり、罵る姿を時々思い出すことがあります。
しかしそれは今の日常の中でたまに起きる妻との間の感情のもつれとは関係ない時に、ふぃっと出てしまうのです。

「解いておきたかった誤解」は、いつまでも私の心の奥底に淀みのようにあり、今も時々それが浮き上がってくるのを感じるのです。 




-この記事は思いついた時に加筆しています-
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落ち着かない日々です

2011-02-01 22:34:28 | 日記
体調が戻り母親のことで覚悟も決まった妻は、笑い顔も見せるようになりました。

>私の自己満足で付き添っているようなものだし


一方で私はまだ風邪から抜け出せず、会社でも何となく冴えません。

自分のための休みより、家族のための休みを優先するつもりで出社していますが、それがいつになるのか分かりません。
 
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