本書は江戸幕府(徳川家康)が、大名間に巧妙な格差をつけて巧みに支配し、管理していた内容がわかりやすく書かれています。
武家諸法度により、諸大名は江戸幕府によって武力ではなく法のもとに統制されました。
参勤交代での装束でその大名の格式がわかることは有名ですが、
江戸城において正月の挨拶する時、控えさせられる部屋によって大名は明確にランク付けされています。
さらに官位によっても身なりが決められており、控えの間、身なりによってその大名の格式が一目でわかるようになっています。
松平姓であってもそこには歴然と差をつけられており、幕政に参加できる藩(老中・大老になれる)とそうでない藩とがあります。
譜代、旗本も然り。さらに御三家、御三卿間にも微妙にその差をつけています。
以外なのは、外様大名でも国持大名である十八家は別格であり、幕府が相当に気を遣っていたことがわかりやすく書かれています。
たとえば関東で馴染みがある戦国大名をあげれば、常陸国(茨城県)を収めていた佐竹氏(秋田藩佐竹家)がそれに該当します。
関ヶ原の合戦で明確な立場をとらなかったという理由で、秋田県に減封の上転封されましたが、武家諸法度による「国主、城主、1万石以上」と定義される「国持大名」となり20万石を拝領しています。
佐竹氏は武田氏と同じ源氏(源義光)の流れを汲む武家の名門であり、言い方は悪いですが徳川家康よりしっかりと征夷大将軍になれる資格を要していました。
関東に幕府を開くにあたって、自分と同じ源氏を祖とする佐竹氏をリスペクトすることが必要だったのかもしれません。
あくまで個人的解釈ですが、家康は征夷大将軍になるために自分を新田氏の末裔と必死に朝廷にアピールしたとか、しないとか。
ちなみに家紋で言えば、我が家は武田に馴染みの深い菱紋で父の母方は頼朝の笹竜胆紋なのですが、武家に関する話は聞いたことがありません(笑)。
話を戻しまして、外様大名は幕政には参加できません。石高(武力など)が多くても政治を動かす力は与えられませんでした。
石高で全てが決まるわけではなく、逆に石高が少なくても幕府の中枢の老中、大老などの役職に就くことができました。
まあ、日本全国の諸大名を武家のプライドをくすぐりながらランク付けをし、巧みに操った幕府のしたたかさを知ることが出来ました。
格差の内容は以下の通り(笑)です。
第一章 石高でみる格差
第二章 将軍との関係でみる格差
第三章 江戸城でみる格差
第四章 江戸藩邸でみる格差
第五章 参勤交代でみる格差
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