保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?大河内山荘

2018-11-14 13:47:52 | シリーズ・京都を歩く
「丹下左膳」で一世を風靡した時代劇俳優・大河内傳次郎。
彼が生涯をかけて造営したといわれる別荘が「大河内山荘」です。

竹林の径の抜けると山荘の門が見えてきます。
小倉百人一首の舞台となった京都嵯峨の小倉山の山頂6千坪の広大な土地に創られた庭園は、
正面に嵐山を望み、眼下に保津川遠くに比叡の山麓という京都一望を借景にした回遊式の庭で
紅葉など四季折々の美しさを際立たす名庭園です。

古い映像は朽ち果てても、永遠に消えることのない‘美’を求めて
30年の歳月とその間の映画出演料全てをつぎ込んでこつこつと創りあげたこの山荘は、
ただの別荘ではなく傳次郎の生涯を凝縮した自己表現の世界を感じられます。

寝殿造や書院造、数寄屋造を取り入れ大乗閣や離れの「持仏堂」では仏教書をひもとき
「南無阿弥陀仏」を唱え瞑想にふけったといわれています。

山頂部一帯を使い、人工の庭園を造営したという壮大な庭は間違いなく京都の名庭園のひとつです。

傅次郎の美のロマンが創り上げた理想郷・大河内山荘。日常を離れ、自らの心と対話する、そんな思いで訪れてみたい山荘です。

秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?滝口寺

2018-11-13 09:58:19 | シリーズ・京都を歩く
祇王寺の南隣に滝口寺があります。
このお寺にも平安時代の悲恋物語があります。

平重盛の家来・斎藤時頼は清盛の娘建礼門院の侍女・横笛と恋に落ちましたが、
身分の違いを咎められ、失意の中、時頼は出家してしまいます。

滝川入道と号して修行していることを知った横笛は、入道のいる往生院まで逢いにいきます。

しかし、仏に使える身であると逢おうとせず、追い返されます。

悲しみのあまり、横笛は大堰川に身を投げたとも伝えられています。

この往生院の子院跡に滝口寺があり、本堂には滝口入道と横笛の木造が安置されています。

また、門入口には新田義貞の首塚もあり、足利尊氏との戦いに敗れ、三条河原で晒しものにされた首を、
妻がこの地に連れ出し埋葬し供養しながら生涯をこの寺に捧げといいます。

時代ゆえの叶わぬ恋、離別しなければならい悲しみを大切しながら、このお寺は静寂に包まれています。

京都嵯峨野は、人を素直な感情に誘ってくれます。人を好きになる心は自分の最良の感情を引き出してくれます。

それが秋の嵯峨野の魅力だと思うのです。

秋の京都、奥嵯峨を歩いてみませんか?祇王寺

2018-11-12 14:48:42 | シリーズ・京都を歩く
紅葉の便りが聞こえ出すと京都・嵯峨嵐山には、大勢の観光客で賑わいます。
渡月橋や竹林の径も大賑わい。

でも、少し離れて奥へ足を延ばしてみませんか?

さっきまでの喧噪が嘘のような佇まいがあります。

紅葉の時におススメしたい場所の一つが「祇王寺」です。

平安の時代、平清盛の寵愛を一身に受けた白拍子・祇王。妹と母ともに清盛に邸宅に招かれ、
貧しい暮らしは一転し幸せな日々を過ごしていました。

しかし、その夢の様な時間は清盛の心かわりにより儚く破れます。
清盛の気持ちが年若い白拍子仏御前へと移り、祇王への思いは離れていきます。
祇王は母、妹を連れて嵯峨の寂しい山里の庵で暮らしました。その庵跡が祇王寺です。
人里離れてひっそり暮らしていた祇王に、再び清盛の手が伸び、呼び寄せられます。

しかし、それは以前の寵愛を受けたものではなく、下座での扱いでした。
でも、老いた母親、妹の暮らしの為、涙をこらえ清盛に従ったのです。

~仏は昔は凡夫なり 我等もつひには仏なり いづれも仏性具せる身を隔つるのみこそ悲しけれ~
とその心情を歌いました。
自ら命を絶つことも思った祇王ですが、母や妹の存在が思いとどまらせ、のちに揃って出家しました。
男の身勝手さと淋しくもあわれな女の物語。この寺を訪れると様々な思いが交差し、
詫び寂びを漂わす京都の秋の「真髄」を味わえます。

祇王が舞う白拍子の姿は、毎年、嵐山大堰川で開かれる「もみじ祭」や「三船祭」で
今様詩舞楽会の舞船で再現され見る事ができます。

京都の紅葉スポット・保津川下りの船頭ゆかりの嵯峨・常寂光寺

2018-11-02 16:56:32 | シリーズ・京都を歩く
京都はこれから紅葉の季節。保津川下りの終着地・嵯峨嵐山にも紅葉の名所が数多くあります。

その中で、私のお気に入りの紅葉スポットといえば「常寂光寺」です。
小倉山を背に清らかで静寂の佇まいの中、ひっそりと建つこの山寺は、
仏教の理想郷永遠・絶対の浄土である常寂光土に遊ぶ風情があるところから
「常寂光寺」と名付けられたと云われています。

時の権力者豊臣秀吉の出仕令に従わなかったことで寺を追われ、
この小倉山の地に庵を構え隠棲していた日禎上人が建立したお寺。

この小倉山の地を寄進したのが保津川下りの生みの親・角倉了以と義父の栄可です。

保津川船頭を育てた瀬戸内から呼び寄せた船頭さんも、このお寺の檀家として嵯峨の地に永住されたました。

その縁で同寺には木造小舟と櫂、竿、舵緒などの舟運道具などが奉納されています。

また『古今和歌集』の編者としても知られる藤原定家が山荘「時雨亭」を置き
『小倉百人一首』を編集した所とも云われており、
定家の木像を祀る謌僊祠(かせんし)や時雨亭趾碑が建てられています。

これから京都の紅葉に出掛けられる時は、ぜひ、お立ち寄りください。

船頭の里・保津町に残る京都相撲の足跡。

2018-05-19 11:44:07 | シリーズ・京都を歩く
昔、京都相撲というものがあり、力士集団も存在したことを知る人は、
京都人でも少ないのではないでしょうか?

江戸時代が始まると京都や江戸、大坂で都市の開発が進み、
その資金調達のために相撲興行が盛んに開かれました。

それに伴い各地に力士を職業とする者が生まれ、江戸、京都、大坂の相撲興行を
渡り歩いていたそうです。

「船頭の村・保津」にも江戸時代の力士・嵐山仁兵衛が住んでいた跡が残っています。

江戸時代のアイドル的存在であった力士たちでしたが、維新後、天皇が江戸に遷られ、
相撲の中心は東京へ一極集中します。

それにつられ、有望力士が東京、大阪へ流出したので、
スター不在となった京都相撲は単独興行が難しくなります。

さらに興行側に侠客が入り込み出し、やがて姿を消していきました。
ちなみに明治の伝説の任侠「いろは幸太郎」なども
京都相撲で名を届かせた後に、任侠の世界に入っています。

京都相撲華やかなりし頃の力士が住んだ家の跡には、
しこ名を刻んだ石碑がひっそり立ち、保津川の流れを見守っています

古代よりの暴れ川「桂川」と先人の知恵と信念

2018-05-02 12:49:43 | シリーズ・京都を歩く
さて、明日からGW後半の4連休なのですが・・・

なんと、今日の午後以降から雨が降る模様。

予報通りだと、河川増水による運休になる事態もありです。

古代より暴れ川で名高い「桂川」一度暴れ出すと、後始末が大変です。

この川が氾濫を起こすたびに私は、古代にこの川を制する為に挑んだ秦氏の苦悩に思いを馳せます。

4世紀末から5世紀初期にかけて桂川流域の嵯峨の地に移住した秦氏は、
膨大な費用と最先端の土木技術を有し、京都で初めての大規模河川工事を手掛けました。

その工法については詳しい記録資料は乏しいのですが、その目的は明確です。

秦氏の祖先である秦の昭王の故事にならい、河川に堰を作り、
分離型の水路を掘って嵯峨の地に広大な農地を開拓したのでした。

人の英知と信念が、京都で初めての大規模な川の利水に成功し、文明を築きいたのです。

その堰は嵐山渡月橋上流にある「一の井堰」として機能を現存しています。

川を制した嵐山の風景はその後、日本を代表する景勝地の風景を保ち、
世界中から訪れる観光客の目を楽しませているのです。

さて、私たちも川と戦ってきた先人の思いを我が心として引継ぎ、ひたすら川との関わりを続けていきます。

伊勢に七たび 熊野に三たび 愛宕さんには月まいり。奥嵯峨・保津峡ツアー

2018-04-18 07:37:44 | シリーズ・京都を歩く
「お伊勢に七たび 熊野に三たび、愛宕さんには月まいり」と江戸時代の民衆にうたわれた京都・愛宕山。

その麓は「あたご道」といい、愛宕詣りへ向かう人で賑わう街道でした。

あたご道沿いには行き交う旅人をもてなす宿や茶店が軒を連ねていたと伝わります。

その400年の風情を残す地域が奥嵯峨・鳥居本と清滝です。

鳥居本には「鮎茶店・平野屋」さんと「鮎の宿・つたや」さん、トンネルを抜けた清滝には「清遊の宿・ますや」さんが
今も当時と変わらぬ佇まいで、観光客のおもてなしをされています。

先日、保津川下り運休の代替えツアーとして、お客さまをご案内した奥嵯峨ツアー。

思いのほか皆さま、大満足で「こんな嵯峨野は知らなかった!」と絶賛でした。

愛宕山山系が刻んだ保津峡とその山麓を流れる保津川。そして、愛宕信仰が生んだ奥嵯峨の風情と営み。
ここには雄大な自然と人間の関わりが今も息づき、しっかりと表現されています。

平野屋の女将さんも「愛宕さんと保津川の鮎つなぐ‘奥嵯峨の歴史と生活’は大切にしていきたい」
との思いから、かやぶきの家を守っておられます。

我が先祖の地でもある奥嵯峨。地縁や血縁関係の家も多い。

愛宕山を軸にして、山麓の奥嵯峨や高雄、水尾に越畑、そして丹波亀岡。

かなり面白いストーリー性のあるエリアになると直感します。

これら地域に関わりのある者として、今後、観光化に取り組んでいきたい感じる奥嵯峨ツアーでした。

平安京造営計画の基となった風水の「四神相応」思想とは?

2018-04-09 13:03:13 | シリーズ・京都を歩く
歴史地理学者の足利健亮先生は、京の都・平安京造営計画の基とした風水の「四神相応」思想を、
地理学上の計算により構成的一致を明らかにしました。

その図によると、比叡山と愛宕山を結ぶ点から逆三角形として交わる地点に横大路朱雀を取り、
その三角辺上に平行して存在する松尾大社と将軍塚に注目しました。

さらに愛宕山から将軍塚、比叡山から松尾大社を結ぶ点を対角線で結び、
交差する地点に平安京の中心・大内裏があることを地図測量で導きだしました。

大きな逆三角形の内に三角形を取る。そこが天皇様がおられる内裏であり、
その内裏を護る大将軍八神社が西に建てられている。

三つの地点から神仏の三合という方術が張り巡らされた平安京。

地理学出身の私にとっては、この足利先生の説に学術的ロマンを感じています。

そして、その愛宕山が望みながら峡谷を下るのが「保津川下り」です。

このような、京の山並みを眺めながら、歴史ロマンに浸ってご乗船いただくのも一興では?

桂川1200年の歴史探訪 ~丹波と都をつないだ「水の道」物語(1)

2017-11-10 16:09:11 | シリーズ・京都を歩く
桂川・・・京都市左京区広河原北部の佐々里峠を源流とし、大小の支流を集めながら、
丹波高原と北山山地の山峡や盆地を大きく蛇行しながら流れ下る。
途中、京北町、日吉町、園部町を経て八木町から亀岡市に入り、保津峡の険しい峡谷を
縫うように流れ、嵐山へと注ぐ。

終着点は宇治川、木津川と合流する京都随一の総延長110㎞を有する一級河川だ。
上流では上桂川、保津川、大堰川、桂川と名前を変える川で、
流域間に根差した馴染みのある川名で使い分けられている。

桂川が日本の歴史に登場するのは5世紀中頃で、日本に渡来した秦氏が湿潤な地域の土地改良のため桂川に大堰を造った
葛野大堰で、河川の水量を調整することにより、大規模な開拓と耕地への灌漑が可能にした。
これが現在も渡月橋上流にある「一の井堰」付近とみられており、古代日本人にとっては、秦氏の水利技術は驚異的なものだった。

秦氏は日本書紀には応神天皇14年(283)に弓月君が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したこととなっているが、
実際には、もう少し後の時代の5世紀中頃に日本に渡り、山城国葛野の太秦あたりに定住したと考えられている。

この秦氏の土木技術が、のちに「平安京」という壮大な新都プロジェクトの根底を支えることになるのだ。






君は京都相撲を知っているか?

2017-09-08 11:54:46 | シリーズ・京都を歩く
昔、京都に「京都相撲」という興行があり、力士集団が存在したことを知る人は京都人でも少ないのではないでしょうか?

その歴史は古く、平安時代の宮廷行事だった「相撲節会」をそのルーツとします。
その後、寺社仏閣の修繕の費用を集める寄進を目的とした「勧進相撲」が京都の下神神社「糺の森(ただすのもり)」で
開かれると人気となり、頻繁に開かれ始め、相撲を生業(なりわい)とする職業的な力士集団が誕生しまいした。
今の番付となる力士の序列の仕組みもこの頃に作られ、三役が決められました。

江戸時代に入ると、さらに京都や江戸、大坂で都市の開発が進み、その資金調達のための「勧進相撲」興行が
盛んに開かれ、各地に職業的力士が生まれ、江戸、京都、大坂の相撲興行を渡り歩いていたそうです。

「船頭の村・保津」にも江戸時代の力士・嵐山仁兵衛が住んでいた跡が残っています。

江戸時代のアイドル的存在であった力士たちでしたが、維新後、天皇が江戸に遷られ、相撲の中心は東京へ一極集中します。

それにつられ、有望力士が東京、大阪へ流出したので、スター不在となった京都相撲は単独興行が難しくなっていきます。

さらに興行側に侠客が入り込み、やがて姿を消していきました。


京都相撲華やかなりし頃の力士が住んだ家の跡には、しこ名を刻んだ石碑がひっそり立ち、保津川の流れを見守っています。