保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

近世の京都繁栄を支えた`伏見港’

2017-08-21 12:21:29 | シリーズ・京都を歩く
角倉了以・素庵親子ゆかりの地・伏見港に立ち寄りました。

宇治川の派流が合流し本流へ注ぐ河口に位置する伏見港は、
豊臣秀吉が伏見城を築城する際の建築資材を運ぶために整備した内陸の河川港です。

江戸時代に入ると、三十石船が伏見から大阪までの間を淀川を使い行き来し、
旅客や酒・米などを運び込みました。
また、京都洛中からは高瀬舟が往来するなど、京阪間を結ぶ物流の要衝として大いに栄えた舟運の港です。

江戸初期には了以親子による高瀬川工事、
また幕末には坂本龍馬や桂小五郎なども度々利用した
歴史ロマンを感じさせるこの港は、昭和38年にその役目を終え、
市民憩いの公園としてその姿を今に残しています。

京都のお精霊さん・「六道まいり」

2011-08-09 22:45:23 | シリーズ・京都を歩く
いよいよ‘お盆’が近づいてきました。

京都では16日の「五山の送り火」までお盆行事が目白押しです。

冥界から現世へお帰り下さる「ご先祖さま」にも‘おもてなし’の
心で接する京都の人の伝統的な宗教行事の始まりは「六道まいり」
で有名な「六道珍皇寺」の 盂蘭盆会 から。

平安時代、弘法大師の師匠にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)が開いた古刹・珍皇寺。

門前の「六道の辻」と呼ばれる四つ辻が現世と冥界との境目に当る場所とされ
京都では珍皇寺のことを「六道さん」と呼んで親しんでいる寺。

ここを入口から東山へ登った所が、吉田兼好の「徒然草」に出て来る鳥辺野の葬祭墓地
で、遠い昔は死人の殆どがこの地に運ばれ捨てられていたので「六道の辻」
と呼ばれたそうです。

「六道」とは「地獄・餓鬼・鬼畜・修羅・人間・天上」
という6種類の冥界の階級を指す言葉。

お盆に帰ってくる霊を「せめて、六道の辻までお迎えにいこう」
ということで始まった行事といわれています。


珍皇寺の境内にあるのが「鐘楼」は、鐘の音は冥土まで届き、死者の霊が
この世に呼び寄せられるという。
毎年盂蘭盆(うらぼん)の7~10日には精霊が宿るといわれる霊木・高野槙の穂枝を
参道で買い、本堂で故人の戒名を水塔姿に書いてもらって先祖の魂を呼び寄せる
「迎え鐘」を参拝者自身で突いて精霊を呼び寄せるのです。
精霊が宿るといわれる霊木・高野槙の穂枝を参道で買い、本堂で故人の戒名を
水塔姿に書いてもらい

鐘はお堂の中に封印され外からは見ることができませんが、お堂から垂れ出ている
撞木に繋いだ綱を引くことで鐘を鳴らします。
他の寺の様に‘叩く’というのではなく、綱を引くことで
鐘がなるという、まるで神社の鈴のようなつくりが面白いです。

鐘の音が冥土まで届くという珍皇寺には、冥土への入口がある
と信じられており、実際、ここから冥土と現世を往復していたと
いわれる人物が、参議を務めていた「小野篁(たかむら)」です。

篁は奇才と呼ばれる特殊な優秀さがあった人で、昼は朝廷の仕事
をして夜は冥界でえん魔大王の片腕官吏として働いたといわれる
「京都魔界列伝」には必ず登場する謎深い人物でもあります。

篁は夜になると境内にある井戸から冥界へ入っていたといわれ、
今もその伝説の井戸は残っています。

ちなみに出口は嵯峨の釈迦堂横の嵯峨薬師寺にあります。

珍皇寺境内にある「篁堂」という小堂には篁の像の隣にえん魔さまの像も安置してあります。

六道珍皇寺の鐘を鳴らし、ご先祖さまをお迎えする
行事で始まった京都伝統のお盆は、16日のお見送り
行事である五山の送り火まで続きます。

☆六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
 京都市東山区東大路通松原西入ル小松町595
 「六道まいり」盂蘭盆会 7日(日)~10(水)
 期間中は重文本尊の薬師如来像の特別開帳や寺宝の地獄絵も
 公開されます。参道には露店も並び「幽霊飴」も売られます。

比叡山山頂から参詣の道を歩く。

2011-06-25 14:58:19 | シリーズ・京都を歩く
京都・八瀬方面からケーブルカー&ロープウェイを乗り継いで比叡山山頂まで。

目指すは伝教大師・最澄が開山した天台宗の総本山「比叡山延暦寺」

山頂から比叡山延暦寺まではバスでも行けるのですが、標高848mに吹く
涼やかで心地いい風に誘われて山道の参道を徒歩で向かうことにしました。

延暦寺は山頂より低い位置に建っているので、杉やヒノキといった木々に
覆われた山道を下っていきます。


昔の高名なお坊さん方も、幾度となくこの道を歩いたのだと思うと、妙に感慨深い気分に浸れます。
道中にはつづら折の急な坂もありますが、不思議と疲れを感じることなく歩けました。


途中、薄暗い木々の道が開けたと思うと、たくさんのつつじが咲く丘にたどり着きました。
眼下には大原の里や洛北の街並み、北山の山並みが広がり、その景色はまさに圧巻!
ここは徒歩で登山される人たちの休憩場にもなっているようです。

この丘の奥に以前、「比叡山人工スキー場」があったのを覚えています。

そういえば山頂には遊園地があり、その中に関西一怖いという噂の「おばけ屋敷」もあったな~

つつじの丘を後にし、再び、木々深い参道を歩き出すと、杉の巨木が建つ「弁慶の水」
という湧水が表れました。平安時代後期、叡山一の暴れん坊だった「弁慶」が
西塔で修行していたとき、一千日夜仏様にお供えする水を汲んだといわれている湧水だそうです。

変わらぬものと変わるもの、幾重の歴史を積み重ね、比叡山は今も京都の街を
見続けているのですね。

さて、いよいよ、延暦寺が見えてきました。



京の霊峰・比叡山を歩く その弐 叡山ケーブル&ロープウェイ。

2011-06-06 20:47:12 | シリーズ・京都を歩く
比叡山・延暦寺の旅を書き始めた翌日、一日中降り続いた大雨により、
保津川の水位が以上上昇し、あわや、堤防決壊による社屋冠水の危機が
襲いかかり、一週間という長期の運休を余儀なくされたことで、更新が
滞ってしまいました。

なんとか今日から再開し、続きを書きたいと思います。

さて、比叡山。

今はドライブウェーも整備され、簡単に車で山頂まで登れる比叡山ですが、
延暦寺へ参る精神的な旅としては、少しは自分の足を使い登りたいとの
欲求に導かれ、京都山麓の洛北・八瀬からケーブルカーとロープウェイを
乗り継ぎ、その後は山道を歩き、延暦寺を目指すコースにしました。


八瀬から運行しているケーブルカーは京福電気鉄道の経営で、大正14年に整備されました。
路線距離は1.3㎞とけして長くないのですが、急こう配の斜地形を高低差561mも登る
日本最大級のケーブルカーとして知られています。

平日だったので車内は空いていたので最前列に座り、山を見上げながらカーブル比叡山駅を
目指します。乗車9分間の途中から京都の北山地区や大原の里が一望できます。


山頂まではロープウェイを経由します。
距離は約500mと短く所要時間3分ほどですが、ここからの眺めも圧巻です!
気持ちのいい空中散歩を楽しめるのも比叡山登山の楽しみの一つですね。


ロープウェイを下車して延暦寺までは徒歩で山道を歩くことに。
山頂へ向かう道を100mほど進んだ後、左の小道への分岐点があります。
新緑から深みを増しつつある木々の中を進む山の参道。

気持ちのいい山の風を受けながら約20分ほどのハイキング。
この時期の森林浴は山から沸き立つエネルギーを体に浴びる感覚があり、
心身ともにリフレッシュできます。

視界が開けたと思ったとき、車のエンジン音が。

少し現実感が戻ります。

すると目の前に朱色の建物が。

日本仏教の殿堂・延暦寺に到着したようです。


つづく。



京の霊峰・比叡山を歩く。その壱 山麓の里・八瀬

2011-05-28 11:04:56 | シリーズ・京都を歩く

三方を山に囲まれるまち・京都。
数々の名山が連なる京都の山の中でも、歴史と知名度で他を圧倒するのが比叡山です。
名実ともに風雅漂う京都を象徴する山といえるでしょう。
京の東に緩やかに連なる峰・東山三十六峰の頂点に君臨し、
他の山を従える堂々とした気品に満ちています。
山頂には、日本仏教の布教拡大に多大な影響を与えた延暦寺が建立されているのは
あまりにも有名で、大勢の参拝者や観光客で賑わっています。

若葉がまぶしい季節、京の都つくりに大きな影響を持ち続けた比叡山に登り、
延暦寺参拝の旅を紹介したいと思います。少し長編になる予定ですが、
お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

第一回目となる今回は比叡山の登山口のひとつ山麓の里・八瀬。

現在、比叡山へは京都方面と滋賀県方面の二つのルートがあり、山裾からケーブルカーや車で登ることができます。
今回は京都方面・洛北の里・八瀬からケーブル&ロープウェー登ることにしました。
比叡山山麓の集落・八瀬は福井県小浜と京都を結ぶR367古道若狭街道(鯖街道でも有名)沿いに点在し、
眼下に清流・高野川が流れる静かな里です。

古来、里人達は天皇さんの乗り物である鳳輦(ほうれん)を担ぐ
、駕興丁(かごちょう)という役目を与えられていた皇室ゆかりの地です。
八瀬という地名の由来は里を流れる高野川がこの辺りで流れの早い瀬を
多くつくる所であるためという説が有力ですが、弘文天皇(672年)の壬申の乱の際に、
大海人皇子が背中に矢を受け、この地に窯(かま)風呂を作り、傷を癒したことから
「矢瀬」にかけて「癒背」と呼び、転じて「八瀬」と呼ばれるようになったという伝承もあります。

里人達は「八瀬童子」と呼ばれ、比叡山諸寺の雑役を生業としていたが、
1336年の足利尊氏の西上の際に、比叡山に難を逃れて逃げる後醍醐天皇を、
弓矢をとって守ったことで、皇室の深い繋がりが生まれ、以来、平生寝るときも、
常に枕下にわらじと提灯を置き、都に急変があれば、
すぐに禁裏に馳せ参じる準備をしていたと伝えられています。

結髪もせず、長い髪を垂らした風貌で、草履をはいた
子供のような姿であったため童子と呼ばれました。
平成元年の昭和天皇の葬送の際、その棺を運ぶ皇宮警察官が
八瀬童子の古式装束を纏い従事していたのをご覧になられた方も多いと思います。

かま風呂とは、伝承をとって中世、お公家さんがこの地に風呂を作ったといわれ、
むしろの上でじわじわ体を温める日本古式型のサウナで、新陳代謝を促進し、
肌感もよく美容と健康に効果があるといわれています。

釜風呂の詳しい情報は、現在も八瀬かま風呂を現存され

営業されている「ふるさと」さんのHPを参照下さい。
http://www.kamaburo.co.jp/
比叡山へは、R367から西塔橋という大正12年施工のアーチ型の橋を渡り、
ケーブル八瀬比叡山口駅からケーブルカーで向かいました。


次回へつづく。


運休を活かし、千年の都・京都を歩く。

2011-05-25 16:41:05 | シリーズ・京都を歩く
五月晴れと呼ぶにふさわしい爽やかな天気が続いておりますが、
保津川下りは、な、なんと「川止め」つまり「運休」の日々が続いております。

2日前、夜中に降った大雨のおかげで川の水位は一晩で安全規定水量を
大幅に超えたため、舟を出すことができません・・・


こんないい天気に、しかも修学旅行や法然聖人800年・親鸞聖人750年の大遠忌法要
開の影響で、日本国内中から大勢の方々が京都へお越し下さっており、予約も
いただいていたというに、こうも川止めがつづくとは・・・トホホ・・・です。

河という自然は人間の思惑通りにはいかないものですね。いまさらながら感じています。

川止めという運休の間、我々船頭も出社に及ばず、まったくのフリー、完全なるオフです。

こんないい天気が続いているのに、家の中でくすぶっているわけにはいきません。

書を持って街に出かけよう!とばかり、この雨がくれた臨時休暇を利用して、
これまで行きたいと思っていた‘京都の各名所・旧跡’をいろいろ歩いてきました。

次回からここ数日で訪れた‘初夏の京都、緑美しい京都’の
いろんな名所を紹介していきたいと思います。

京都は自分の足で歩いてこそ、その魅力の奥行、懐の深さがわかるというもの。

ガイドブックや書籍でもさまざまに紹介されている場所でも、自分の足で歩き
実際に訪れてみると、1000年の古都が織りなした歴史と人々がつくりだした文化
の息づきを感じることができます。

めぐる歴史の移り変わりを変わらぬ姿で見続けてきた山々、理想や野心を燃やし
歴史上の人物が闊歩した土地、信仰、文化、学問を思考し続けた碩学・偉人たち
など、どの場所にも歴史のドラマが息づき、リアル感をもって迫ってきます。

時間を気にせず、ゆっくり歩きながら京都の奥深さを五感で感じながら
向き合ってみるのも悪くないです。

我が生まれ故郷であり、育ちの地でありますが、まだまだ京都の魅力を
知らないなと感じます。

自らの足で京都を歩き、そこで感じたことをこのブログに書き込むことで、
少しづつでも「本当の京都の姿」に近づいていきたいと思っています。

嵐山と古代豪族・秦氏、そして京都。

2011-05-22 10:18:19 | シリーズ・京都を歩く
嵐山の語る時「秦氏」のことを話さないのは「もぐり」である、と
いわれる古代にこの地を治めていた「秦氏」

渡月橋の上流に堰止めをつくり、今の嵐山の原風景をつくった一族です。

秦氏は応神天皇(おうじん)の時代に、朝鮮の百済から秦皇帝の末裔と称して
渡来してきた一族で、功満王一族とか、百済127県の民を率いて渡来した
弓月君(ゆみづきのきみ)一族の末裔ともいわれています。

彼らは現在の右京~西京区、伏見区深草にかけて居住し、大陸から伝承したきた
養蚕や機械、醺酒、治水技術に優れ、豊かな経済力を背景に平安京遷都を
桓武天皇に提案した一族ともいわれ、嵐山の原風景にとどまらず、今の京都自体が
形成される基礎をつくった、京都の歴史にかかすことができない重要な役割を
果たした一族といえるでしょう。

嵐山の堰は、下流地域一帯の農地を発展させるための灌漑用水を川の水で
確保するため設置したもので、当時では画期的な最先端土木技術だったのです。



信仰文化の面でも大きな影響を与えており、山林開発の神を松尾山に祀り(松尾大社)、
農耕守護の神を稲荷に祀るなど、賀茂氏とならんで山城北部の開発につとめたり、
飛鳥時代には聖徳太子に仕えて仏法を興隆し、京都に広隆寺を建立した秦河勝は
一族の末裔だといわれています。

しかしながら、豊富な財力にものをいわせ、平安遷都を成し遂げた秦氏ですが、
平安時代以降はなぜかその勢力は衰退し、歴史の表舞台に登場することは
なく、勢力を誇った証として‘太秦’という地名が残っているだけです。

日本発展の先端技術を有し、国つくりに多大な影響を及ぼした秦氏。
また、南部仏教勢力との確執に苦しむ朝廷に、奈良から京都への遷都
を提案し、現実に長岡京から平安京造営に寄与したキーマン的一族・秦氏は
なぜ、自らが作り出したといっても過言ではない平安時代に入ると
その勢力を衰退させるに至ったのか?

ここに歴史のロマンを感じずにはいられません。

山峡の寺、世界遺産・高山寺にて

2011-02-08 17:28:32 | シリーズ・京都を歩く
京都でも、紅葉の名所で名高い地・高雄。
そのいちばん山奥に「世界文化遺産のお寺・高山寺」はあります。

奈良時代(774年)に光仁天皇の勅願により創建された古刹で、
鎌倉時代に文覚の弟子の明恵上人により再興された山寺です。

失脚により怨霊となり都に災いをもたらしたといわれる菅原道真公の霊を
鎮めた法性房尊意僧正が11才より4年間修業した地であり、その法力を得たとされています。
いわれてみれば、確かに境内は、古い石垣で囲まれ、ヒノキやスギの巨木がそびえ立つ
自然と霊気のエネルギーが満ち満ちている感じがしました。



「世界文化遺産」には平成6年に登録を受けました。


僧の学問所であった「石水院」は国宝にも指定され、縁側から見下ろす山や渓谷の風景は自然美の極み。
眼下を流れる清滝川のせせらぎの音が心を和ませてくれます。

院内の縁側に腰かけて、目の前に広がる山、川、谷などありのままの自然を眺めると、
赤い絨毯と板の間だけの何もない簡素な石水院の空間に、冬の心地よい日光が差し込み、
心に暖かいものが伝わってきます。ほんものの贅沢さとはこういう感覚をいうのですね。


高山寺には日本最古の漫画といわれる「鳥獣人物戯画」が収められており、複製を拝観できます。

また、高山寺は、日本で初めて茶園を栽培した、茶の発祥地手としても有名です。
栄西禅師が宋から持ち帰った茶種を貰った明恵上人がこれを植え、茶園を栽培したと
もので、これを宇治に移し、京都の茶として有名な宇治茶の原型となったのです。
高山寺には今も宇治の篤志家により、茶園が維持管理されています。



本堂へ向かう山道で小さな祠があり、覗いてみると「仏さまの足跡」がありました。仏足石と呼ぶらしい。


広い山の傾斜をうまく利用した境内には、山の中そのままの巨木に覆われています。

山の自然と絶妙に調和した古刹・高山寺。

「これぞ日本の山寺」であり、世界に誇れる文化遺産、名刹であることは間違いないでしょう。


日本の歴史が動いた!光秀出陣の舞台・丹波亀山城。

2011-02-06 21:21:14 | シリーズ・京都を歩く
本日のNHK大河ドラマ「江」。

今日は戦国時代一番のターニングポイント「本能寺の変」。

明智光秀が主君・織田信長を討つべく、一万余の兵を率い出兵したのが
亀岡にある「丹波亀山城」です。
今日の放送でもお城のシーンが2~3シーンありました。


中国・備中の毛利軍に苦戦する羽柴秀吉を助ける命を受けた光秀でしたが、
その分岐地点となる「老ノ坂峠」に差し掛かった頃、突然、鞭を振り上げて
「敵は本能寺にあり!」と叫び、進路を都へ向けたのでした。

天下を目の前にして織田信長を撃たれ、時代は激変します。

さてさて、この本能寺の変が放送される番組では、信長vs光秀の関係や事件の背景を
どのように描いていくか?視聴者の楽しみの一つだと思います。
が、今回の「江」。
この二人の関係、あまりにもオーソドックスで期待はずれか・・・。
まあ、今回のドラマではこの本能寺の変もただの「前座」なので
致し方ないとは思いますが、光秀の地元民としては、もうすこし丁寧に描いてほしかったな・・・

ともあれ、日本の歴史、いや、世界の歴史(特にアジア地域)のすら大きく変えたと
いわれる「本能寺の変」の舞台の一つがこの亀岡にある「丹波亀山城」であったことは確か。

織田信長の命を受けて以来、人質として差し出した母親を失うなど、苦労をして平定した
光秀の丹波攻略。その拠点として1577年から1579年にかけて築城したのが丹波亀山城。
軍事的要塞の城ではなく、中世的な風情を残した城郭型の城で、治世を重んじる光秀らしい
平城の城として築城しました。

明智光秀亡き後、関が原の戦いに勝利した徳川家康配下の譜代大名の城となり、
大坂城の豊臣包囲網のため、徳川家康が号令した「天下普請」により
当代一の築城の名手藤堂高虎が1610年に大改修をし、近世城郭として
白亜で五層五階、日本初の層塔型天守を築きました。

丹波亀山城は、明治維新後に廃城となり姫路城にも匹敵するといわれる建築物であった
天守など建物が解体されたことは今となっては、とても残念です。

今もこの亀山城址を歩いていると、激動する歴史のうねりを密かに感じる
ことができる史跡です。

現在は宗教法人・大本 の聖地となっています。

天守台跡には、大本さんの事務所で許可を貰い、お祓いを
受けるとどなたでも見学することができます。


京都屈指の紅葉の名所、奥嵯峨・清滝を訪ねて。

2010-11-26 21:28:01 | シリーズ・京都を歩く
京都は今、紅葉が真っ盛り!

明日以降の休日は、おそらく紅葉が美しい名刹・名所は
どこも大混雑になることでしょう。

そんな京都にあって静かに紅葉狩りが楽しめ、しかも京都屈指いや、
日本有数のモミジの名所として名高い地が嵯峨・清滝です。

保津川の支流でもある清流・清滝川が流れる静寂の里。

江戸時代に「お伊勢に七度、熊野に三度、愛宕さんには月参り」と謳われ、
庶民の間に「火ふせの神さま」として篤い信仰を集めた「霊山・愛宕山」の
登山口にあたる山峡の里・清滝は、愛宕山参詣の宿場町として開けました。



清滝川に架かる丹塗りの橋・渡猿橋は有名で、平安末期に文覚上人が愛宕山下の空也の滝(京都一の滝)
へ修業に行く途中に、橋の近くで猿が連なって木からぶら下がり、魚を捕る姿を見て
この橋の名前を付けたといわれます。
橋のすぐ下には松尾芭蕉の「清滝や波に散りこむ青松葉」の句碑が立っていることでも
わかるように、芭蕉をはじめ与謝野鉄幹・晶子夫妻、徳富藘花など多くの文豪が
この地を愛し、歌会を催したり、作品の創作を練った地でもあります。
また、旧三高等学校の学生が集った逍遙の地で、田宮虎彦、山口誓子、織田作之助、
梶井基次郎、三好達治、湯川秀樹など京都大学が生んだ文化人や財界人の多くが
青春を謳歌した、常宿・ますや旅館があるのもこの清滝。
日本古来の山岳信仰の祈りと歴史、文化の香りが漂う里でもあるのです。


清滝川は世界遺産・神護寺がある高雄上流、北山杉の産地である中川・小野郷を
源流とし、高雄から清滝までの渓谷を「錦雲峡」、清滝から保津川合流点(落合)までの
渓谷は「金鈴峡」とそれぞれ呼ばれ、川沿いに整備されている東海自然遊歩道は
この季節、ハイキング・トレッキングに歩く人も多い。



清滝の里には昔、愛宕信仰の宿場まち、また景勝地として栄えた頃に
大勢の観光客を迎えた「お茶屋」さんが、当時の面影を残しています。

そして、この清滝の里こそ、私はっちんの故郷と呼べる地なのです。


今では京都の観光地・嵯峨野でも‘忘れられた地’でもあり、秋以外では訪れる人も
少ない‘鄙びた景勝地’として、清滝の里は今も静かに佇んでいます。

京都の紅葉シーズンの混雑を避けて、自然美がつくりだす錦絵の‘アート’に
触れてみたい方は、トンネルを越え、奥嵯峨野の清滝まで足をのばしてみてはいかがでしょうか。

☆京都市右京区嵯峨清滝町
 交通:京都バス清滝バス停下車(京都駅、阪急大宮、京福嵐電嵐山駅バス停より)