私には生涯の‘師’と呼べる方がいる。
その人の名は山本利雄師。
元天理よろず相談所病院・憩の家院長にして、天理教本部准員、江戸分教会長もされていた宗教家である。
師は大正13年の生まれで、デモクラシーと浪漫派が華やかなり風情の中で青春時代を過ごされた。
元来、文学と哲学を愛する青年だったが、旧制高等学校では理科2類を専攻し医学者の道を目指した。
そこで生涯の師となる岡田 甫教授と出会い、道元の仏教哲学を学び宗教的見識を深めた。
日本が敗戦を迎える、昭和20年に京都帝国大学(京都大学)医学部に入学。
4年後の昭和24年、京都大学医学部を首席で卒業し翌年医師国家試験に合格。
京都大学病院では当時では‘不治の病’として恐れられた結核の研究をするため
同院結核研究所外科療法部に入局され、わずか6年後の昭和30年に医学博士号を取得されている。
さらに2年後には異例のスピードで胸部外科助教授となり、三重大学に胸部外科学教室を
創設する基礎つくりに奔走された。
また、昭和36年国際胸部疾患会議の座長を務めるなど、白熱の研究心に裏打ちされた能力で、
日本医学界の進歩に尽くすなど、まさに順風満帆の学究生活をすごされていた。
しかし、師の凄いところは、こんな出世話や肩書きにあるのでない。
昭和39年、師は自らの内なる求道心、耐え難く、助教授の職を辞して故郷の奈良県天理市へ帰り
子供の頃から夢であった信仰に基づく大陸医療奉仕活動を目指すべく、天理教修養科へ入り、
信仰者としての修行に入られたのだ。
あのまま大学病院に残っていれば、日本医学界で名声を得たであろう栄光の未来を捨てて、
一宗教者として本格的な天理の修行の道に入られ、生涯を天理教者として生き抜かれた。
昭和41年、天理に東洋一の内容を誇る「天理よろず相談所病院憩の家」が設立されると
師は胸部外科部長となり、院内に海外医療科を新設して、アフリカ・コンゴブラザビルやラオス、
カンボジアなどの無医村での治療やベトナム戦争による難民キャンプなどで自らが現場の先頭に立ち
命がけの医療奉仕活動に情熱を捧げるなど、人生の一時期、現場の医師として医療の道へ戻られている。
その活動記録を書した著書「メコンの渇き」(講談社昭和46年発刊)は日本ジャーナリズム大賞を取った。
48歳の時に天理よろず相談所病院・憩の家の院長になり、入院患者に信仰に基づく精神面までをケアーできる
日本有数の最先端高度医療施設にまで育てあげた。憩の家は名実ともに最先端高度医療施設として
日本医学界に燦然と輝く独特の地位を確立する。師は、病院を名実共に不動のものにした後、院長の職を簡単に捨て、
元来、人生の目標であった一宗教者に戻るべく東京布教へ旅立ち、天理教江戸分教会を再興させた。
師はよく、人生を豊かにする‘三つの大事なこと’について話されていた。
一、師を持つこと。
二、友を持つこと。
三、ロマンを持つこと。
「この三つがなかったら、幾ら富と名声に囲まれていても、逝く最後の時は寂しい人生だと感じるものだ」とよく仰っていた。
内戦渦巻く途上国の難民キャンプで救済医療に青春の全てを賭け、地獄を思わせる惨状の中で、
また終末医療の現場で、数え切れない多くの命の死に立ち会われた先生の言葉には説得力がある。
そして、この三つの教えは、今も人生の座右の銘として、片時も私の心から離れない。
師には人としての‘生き様’を学んだと思っている。
師は、私たち夫婦が出産時の選択に悩んでいるとき、親身になって相談にのって下さった。
この時の信仰信念に基づいた助言は、私たち夫婦の絆を強め、覚悟を決めることができた。
また、仕事のことなど日常生活に横たわる問題についても、いつも助言して下さった。
いつも頼りにして、ご意見を伺いに天理まで車を走らせた。
もちろんよく叱られもした。中途半端で覚悟のない思考をしがちな私を厳しく叱咤し指導して下さった。
様々な師との思い出が懐かしく感じる。
その‘師’が亡くなられて早、8年の歳月が流れた。
本当に月日の経つ早さを感じずにはいられない。
今、私は師の教えにかなう生き方をしてるだろうか? いつも、自問自答しながら生きている。
ただ、一つだけいえることがあるとすれば師の三つの教えのうち
「師を持つこと」だけは掴むことができたということだろう。
‘人は生きて何を残すか?’
物や財産などは移ろいやすいもの。しかし、生き方、思想だけは間違いなく後世へ受け継がれていく。
師は最後にそのことを私に教えて下さった気がする。
‘師’の思想や生き様は、今も、私の生き方に問いかけてくる。これていいのか?と。
その答えを求め、私はこれからの人生を生きていきたい。
その人の名は山本利雄師。
元天理よろず相談所病院・憩の家院長にして、天理教本部准員、江戸分教会長もされていた宗教家である。
師は大正13年の生まれで、デモクラシーと浪漫派が華やかなり風情の中で青春時代を過ごされた。
元来、文学と哲学を愛する青年だったが、旧制高等学校では理科2類を専攻し医学者の道を目指した。
そこで生涯の師となる岡田 甫教授と出会い、道元の仏教哲学を学び宗教的見識を深めた。
日本が敗戦を迎える、昭和20年に京都帝国大学(京都大学)医学部に入学。
4年後の昭和24年、京都大学医学部を首席で卒業し翌年医師国家試験に合格。
京都大学病院では当時では‘不治の病’として恐れられた結核の研究をするため
同院結核研究所外科療法部に入局され、わずか6年後の昭和30年に医学博士号を取得されている。
さらに2年後には異例のスピードで胸部外科助教授となり、三重大学に胸部外科学教室を
創設する基礎つくりに奔走された。
また、昭和36年国際胸部疾患会議の座長を務めるなど、白熱の研究心に裏打ちされた能力で、
日本医学界の進歩に尽くすなど、まさに順風満帆の学究生活をすごされていた。
しかし、師の凄いところは、こんな出世話や肩書きにあるのでない。
昭和39年、師は自らの内なる求道心、耐え難く、助教授の職を辞して故郷の奈良県天理市へ帰り
子供の頃から夢であった信仰に基づく大陸医療奉仕活動を目指すべく、天理教修養科へ入り、
信仰者としての修行に入られたのだ。
あのまま大学病院に残っていれば、日本医学界で名声を得たであろう栄光の未来を捨てて、
一宗教者として本格的な天理の修行の道に入られ、生涯を天理教者として生き抜かれた。
昭和41年、天理に東洋一の内容を誇る「天理よろず相談所病院憩の家」が設立されると
師は胸部外科部長となり、院内に海外医療科を新設して、アフリカ・コンゴブラザビルやラオス、
カンボジアなどの無医村での治療やベトナム戦争による難民キャンプなどで自らが現場の先頭に立ち
命がけの医療奉仕活動に情熱を捧げるなど、人生の一時期、現場の医師として医療の道へ戻られている。
その活動記録を書した著書「メコンの渇き」(講談社昭和46年発刊)は日本ジャーナリズム大賞を取った。
48歳の時に天理よろず相談所病院・憩の家の院長になり、入院患者に信仰に基づく精神面までをケアーできる
日本有数の最先端高度医療施設にまで育てあげた。憩の家は名実ともに最先端高度医療施設として
日本医学界に燦然と輝く独特の地位を確立する。師は、病院を名実共に不動のものにした後、院長の職を簡単に捨て、
元来、人生の目標であった一宗教者に戻るべく東京布教へ旅立ち、天理教江戸分教会を再興させた。
師はよく、人生を豊かにする‘三つの大事なこと’について話されていた。
一、師を持つこと。
二、友を持つこと。
三、ロマンを持つこと。
「この三つがなかったら、幾ら富と名声に囲まれていても、逝く最後の時は寂しい人生だと感じるものだ」とよく仰っていた。
内戦渦巻く途上国の難民キャンプで救済医療に青春の全てを賭け、地獄を思わせる惨状の中で、
また終末医療の現場で、数え切れない多くの命の死に立ち会われた先生の言葉には説得力がある。
そして、この三つの教えは、今も人生の座右の銘として、片時も私の心から離れない。
師には人としての‘生き様’を学んだと思っている。
師は、私たち夫婦が出産時の選択に悩んでいるとき、親身になって相談にのって下さった。
この時の信仰信念に基づいた助言は、私たち夫婦の絆を強め、覚悟を決めることができた。
また、仕事のことなど日常生活に横たわる問題についても、いつも助言して下さった。
いつも頼りにして、ご意見を伺いに天理まで車を走らせた。
もちろんよく叱られもした。中途半端で覚悟のない思考をしがちな私を厳しく叱咤し指導して下さった。
様々な師との思い出が懐かしく感じる。
その‘師’が亡くなられて早、8年の歳月が流れた。
本当に月日の経つ早さを感じずにはいられない。
今、私は師の教えにかなう生き方をしてるだろうか? いつも、自問自答しながら生きている。
ただ、一つだけいえることがあるとすれば師の三つの教えのうち
「師を持つこと」だけは掴むことができたということだろう。
‘人は生きて何を残すか?’
物や財産などは移ろいやすいもの。しかし、生き方、思想だけは間違いなく後世へ受け継がれていく。
師は最後にそのことを私に教えて下さった気がする。
‘師’の思想や生き様は、今も、私の生き方に問いかけてくる。これていいのか?と。
その答えを求め、私はこれからの人生を生きていきたい。