<~ものがたり~保津川を下った人たち。英国国王ジョージ5世>
保津川下りに最初に乗船した外国人はイギリス皇孫のアルバート・ヴィクターとジョージ(後のジョージ5世国王)兄弟だ。
明治14年(1881)11月5日から9日までの5日間、兄弟で京都旅行を楽しんでいる。
保津川下りに乗船したのは11月7日で、随行した皇太子達の秘書ジョン・ドルトンはその著書『軍艦バッカンテの巡航』で
その時の様子を克明に記録に残している。
王子たちは、午前9時に京都七条大宮から保津川の急流に向けて出発。
人力車の長い列を連ね、山陰街道から老ノ坂峠を越え、亀岡の山本浜(今のトロッコ列車亀岡駅付近)から
保津川下りに乗船した。
12時30分に山本浜に到着し、待機していた⒒艘の船に、人力車と車夫も一緒に乗り込んでいる。
その著書には、保津川下りの乗船体験も記録されている。
一文を抜粋する。
「その急流は、高い木で覆われた渓谷の間を曲がりくねって走っており、いっぱい日光の中、
紅葉と光のコントラストが溢れていた。岩の周りには水が渦巻き、流れが突出しており、
何度も前方に障害物が現れた。しかし、船首に一人の男たちが上手に竿を使いながら船を操って、
障害物をこえて行った。ある場所では、大きな水しぶきが船壁を超えて入ってきた。
その場所は2つの岩の間が非常に狭く、船の船幅より少し大きいくらいだった。
急流や一風変わった水の流れなど、とてもうきうきする場所がいくつかあった。」
保津川下りは王子たちの日本観光において、強烈な印象を残した思い出となったことが伺える。
また、この時の保津川下りの費用も記録されている。
予約は13艘だったが、実際は11艘が下った。
1艘が4円で、キャンセル料1艘80銭とある。
当時の首長の給料がだいたい1ヶ月6円ぐらいだから、当時、保津川下りは
今では考えられない程のかなり高価な乗り物だったようだ。
ちなみに、この時、京都で接待をつとめたのは、琵琶湖疎水計画を立案実行した北垣国道京都府知事だった。
北垣は当時、嵯峨の角倉了以邸跡を別邸としていたのも何かの因縁だろか。
英国王子兄弟の保津川下り乗船は、母国英国はもちろんヨーロッパ各国に知られ、
「日本に保津川という急流を下る川舟がある!」ことが知られる。
このとき弟だったジョージは兄アルバートが若くして急死したことから、王位継承者となり
のちのジョージ5世として、第一次世界大戦やロシア革命という時代の荒波を
乗り越え、名君の誉れ高き国王となった。
英国王室と保津川下りの関係は、王子たちが保津川下りを体験以降、和45年のマーガレット王女ご乗船まで続き
「英国王室に愛された舟下り」として英国内に知られることとなる。
保津川下りに最初に乗船した外国人はイギリス皇孫のアルバート・ヴィクターとジョージ(後のジョージ5世国王)兄弟だ。
明治14年(1881)11月5日から9日までの5日間、兄弟で京都旅行を楽しんでいる。
保津川下りに乗船したのは11月7日で、随行した皇太子達の秘書ジョン・ドルトンはその著書『軍艦バッカンテの巡航』で
その時の様子を克明に記録に残している。
王子たちは、午前9時に京都七条大宮から保津川の急流に向けて出発。
人力車の長い列を連ね、山陰街道から老ノ坂峠を越え、亀岡の山本浜(今のトロッコ列車亀岡駅付近)から
保津川下りに乗船した。
12時30分に山本浜に到着し、待機していた⒒艘の船に、人力車と車夫も一緒に乗り込んでいる。
その著書には、保津川下りの乗船体験も記録されている。
一文を抜粋する。
「その急流は、高い木で覆われた渓谷の間を曲がりくねって走っており、いっぱい日光の中、
紅葉と光のコントラストが溢れていた。岩の周りには水が渦巻き、流れが突出しており、
何度も前方に障害物が現れた。しかし、船首に一人の男たちが上手に竿を使いながら船を操って、
障害物をこえて行った。ある場所では、大きな水しぶきが船壁を超えて入ってきた。
その場所は2つの岩の間が非常に狭く、船の船幅より少し大きいくらいだった。
急流や一風変わった水の流れなど、とてもうきうきする場所がいくつかあった。」
保津川下りは王子たちの日本観光において、強烈な印象を残した思い出となったことが伺える。
また、この時の保津川下りの費用も記録されている。
予約は13艘だったが、実際は11艘が下った。
1艘が4円で、キャンセル料1艘80銭とある。
当時の首長の給料がだいたい1ヶ月6円ぐらいだから、当時、保津川下りは
今では考えられない程のかなり高価な乗り物だったようだ。
ちなみに、この時、京都で接待をつとめたのは、琵琶湖疎水計画を立案実行した北垣国道京都府知事だった。
北垣は当時、嵯峨の角倉了以邸跡を別邸としていたのも何かの因縁だろか。
英国王子兄弟の保津川下り乗船は、母国英国はもちろんヨーロッパ各国に知られ、
「日本に保津川という急流を下る川舟がある!」ことが知られる。
このとき弟だったジョージは兄アルバートが若くして急死したことから、王位継承者となり
のちのジョージ5世として、第一次世界大戦やロシア革命という時代の荒波を
乗り越え、名君の誉れ高き国王となった。
英国王室と保津川下りの関係は、王子たちが保津川下りを体験以降、和45年のマーガレット王女ご乗船まで続き
「英国王室に愛された舟下り」として英国内に知られることとなる。