保津川下りの船頭さん

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京都再発見の旅 古代京都の遺跡・嵯峨嵐山編

2020-06-30 13:41:09 | シリーズ・京都を歩く
京都らしさを最も感じれる場所と聞かれたら、私は迷うことなく「嵯峨嵐山」と答えます。
これは私の仕事場に嵐山が入っているから・・・ではありません。
この地こそ、京都を京都たらしめた場所だと思っているからです!

この地に都・平安京が築かれるずっと前。当時の首都・奈良から見てこの地は
山々の裏「山背(やましろ)」と呼ばれた原野でした。(諸説あり)

5世紀末にこの地に移住していた古代豪族「秦氏」は、氾濫を繰り返す暴れ川「葛野川(桂川)」を
当時最先端の土木工法を駆使して治めます。そして今の渡月橋のやや上流部に堰堤を築きました。

これが「葛野大堰」で、今も嵐山の水風景を形成している「一ノ井堰」です。

さらに、この大堰の下流部に「中島」を築き、川の流れを本流と用水に分流させ、
川の水位を高めて多量の水を灌漑用水としてを原野に注ぎ込み、
嵯峨や松尾、桂など流域地域に豊かな農耕地帯を生み出しました。

この事業は中国四川省に現存する世界遺産「都江堰」と築造原理と景観がそっくりのことから、
秦氏が大陸から伝わる技術を有していた一族ということがわかります。

秦氏の技術は水田に適さない土地に水路をひき、灌漑用水として稲作を可能にして
古代京都は大いに発展していたのです。

秦氏の実力に期待した桓武天皇は、奈良平城京から長岡京、
さらに平安京造都の具体的なプランを構築することが可能となったのです!

この嵯峨嵐山の地、そして古代、この地に勢力を持っていた秦氏がなければ、
平安京はもちろん世界最寿の首都・京都は存在し得たでしょうか?

そして後年、同じくこの地に生まれ、秦氏に強烈にリスペクトしていた人物こそ、角倉了以なのです。

古代に中国大陸や朝鮮半島との技術と文化を取り込みながら、独自の文化や生活様式を築いた秦氏が
造りし地・嵯峨嵐山。ここに残る一ノ井堰、渡月橋、中島などすべての風景がそのまま今も現存する、古代京都の遺跡なのです!

だからこそ、京都にとっても文明と歴史、文化の原点を伝える貴重な場所だと確信しています。

今、嵐山には日本国内から訪れる人が徐々に増えてきています。ぜひ、この嵯峨嵐山が、古代京都の風景を今に残し、
新都造営という壮大な夢に賭けた人々の鼓動を感じながら旅をしていただきたいと願っています。