角倉了以とその子素庵により保津川が開削され舟が通行できるようになったのが
今から406年前の慶長11年(1606)の8月でした。
了以たちの事業にとって海外貿易は一回の渡航で巨額の富が手に入るという点では
魅力的な事業ではあったのですが、リスクの高いものでした。
了以が他の豪商たちと違う点は、その半博打的な事業で満足するのではなく、
子々孫々まで収入が入る商売の仕組みを考えていたとこでしょう。
利益は薄くても長期的に安定した収益があがる事業として目を付けたのが
生まれ育った京都の嵯峨を流れる大堰川(保津川)でした。
大堰川…統一した名称は桂川といい、嵐山から上流の保津峡の間を保津川と呼ぶ。
この保津川では延暦3年(784)から始められた長岡京遷都の造営時に
さらに奥地の京北黒田(現在の京都市右京区京北)から山国庄(南丹市日吉)
保津(現在の亀岡市保津)などを経由して嵐山まで筏に組まれた材木が
流されたと記録されています。この筏探しは、延暦13年(794)平安京の造営時
には、数が増やされ都建築の用材として‘京都’の形成に寄与していました。
嵯峨に住まいをしていた了以は、ひっきりなしに上流から流れてくる筏を
見て知っていたことは想像に易く、おそらく彼のビジネスセンスなら、この川を
使用した物資輸送の重要性を熟知しており、以前から目を付けていたと思われます。
その了以の思いが事業化のイメージとして現れたのは、朱印船の港を視察した
帰りに寄った岡山県北部(美作国)を流れる和気川(現吉井川の支流)を行き来する
高瀬舟を見たことによるといわれています。
嵐山の中腹に建つ角倉了以のゆかりの大悲閣・千光寺にある林羅山(蘭学者)
が書いた「吉田(角倉の本姓)了以碑銘に「凡そ百川、皆以て舟を通すべし」と
保津川へ舟を通す決意が詳しく記録されています。
丹波地域の豊富な木材や薪炭、米や野菜などの物産を、効率よく運ぶには
丹波から京都へ向かって流れている保津川に舟を流すのが最適であり、
そうすれば京都と丹波の双方の利益となるという発想を思い立ったという訳です。
思い立つと行動するのも早いのが、いつの時代もできるビジネスマンに共通するところ。
了以は早速、川の実施調査をして事業化の確信を深め、
息子素庵を徳川家康がいる江戸に派遣して、幕府より
「古より未だ船を通せざるところ、今開通せんと欲す。これ二国(山城・丹波)の幸いなり」
という開削許可を得たのです。
保津川の開削は慶長11年(1606)の春とされ、8月までの約5ヶ月で
完成させるという当時では最も早い工程で仕上げたのです。
とはいえ、保津川が流れる保津峡という渓谷は、巨岩が奇岩がむき出しと
なる狭くて流れが渦巻く複雑な河川形状で、筏流しでも‘自然の要害’と
いわれた場所で、舟を通すのは容易ではないところ。
先の碑文によれば「大石あるところは轆轤(ろくろ)索を以て之を牽(ひ)き、石の水面に
出づるときは則ち烈火にて焼砕す。瀑(たき)の有る所は其上をうがって準平にす」と
記してあり、大石を大勢の人で引き動かし、水面に出て航行の邪魔になる石は焼き砕く
などの難工事を施したのです。
そんな複雑で難しい河川開削工事を繰り返しながら、僅か5ヶ月で丹波から嵐山までの
舟の航路を開き、物資輸送の舟運を整備した技術は、当時の土木技術では最先端のもの
であり、日本土木史に燦然と輝く画期的な工事だったことは間違いありません。
この自然の要害・保津川の開削工事の成功は幕府をも驚かせ、角倉一族の施行技術の
高さを見込み、その後、駿河の富士川や岐阜の天竜川の開削工事を依頼したほどです。
富士川は規模の流れも保津川よりあり、難工事だったが慶長13年(1608)に
完成させ舟運を開いています。この成功には家康自らが現地に視察いくほどの事業でした。
また、慶長16年(1611)了以は京都の洛中に鴨川の水を引いた人工運河として
高瀬川の開削工事に着手し、3年後の慶長19年(1614)に京都二条から伏見の港
まで工事を完成させます。高瀬川開削と舟運開通により、京都二条から伏見、そして
淀川を経由して大坂までの舟運ルートを成立させたのです!
これがどれだけ画期的なことであったか!強調しても強調し過ぎることはないでしょう。
丹波から生活基盤の物資が京の都へと運ばれ、都市機能整備の需要材の調達と
景気、物価の安定を支え、天下の台所・経済の中心地大坂をつなぐことで
最先端技術や異国文化の導入により発展させる、丹波―京都―大坂を結ぶ舟運による
物資流通ルートを整備したことを意味します。
その恩恵を受けることで、政治の中心が江戸に移り、地盤沈下が杞憂された
当時の京都も衰退することなく、文化都市として発展していった、その礎を
角倉家が築いたといっても言い過ぎではないと思います。
多くの京都人がこの了以たちの事業価値をあまりご存じないのは残念なことですが・・・
という京都人だった私も、保津川下りに関わるまでは了以のことを知らなかったのです・・・
角倉了以とその子素庵は朱印船貿易の大商人であり、国内では河川開削の技術集団を
組織し、舟運を開き利益を得るという手法を編み出した初の事業家で、日本産業経済史
の流れからみても極めて重要な人物であることは間違いないと思います。
海外貿易と河川開削による舟運事業という先見性、事業の合理性と計画性の高さ、
そして何より冒険心と志に裏付けられた意志の高さと強さ、スケールの大きさは
現在の企業家たちにも多くのヒントを与えてくれるのではないかと思います。
現在社会でいえば大手商社と大手ゼネコンを兼ね備える財閥や総合企業グループ
の総帥と呼べるのが角倉了以・素庵親子なのです。
角倉家は、3代将軍・家光の鎖国政策により朱印船貿易が禁止された後も
保津川を通行する舟からの通行料を徴収することで、明治時代まで継続性
のある経済的利潤を確保することに成功し、水利長者として栄えました。
この稀代の人物に創設され、現在も当時の姿を変えることなく現存している保津川下り。
この川には世界文化遺産に匹敵する要素が詰まっていると私自身は確信しています。
今から406年前の慶長11年(1606)の8月でした。
了以たちの事業にとって海外貿易は一回の渡航で巨額の富が手に入るという点では
魅力的な事業ではあったのですが、リスクの高いものでした。
了以が他の豪商たちと違う点は、その半博打的な事業で満足するのではなく、
子々孫々まで収入が入る商売の仕組みを考えていたとこでしょう。
利益は薄くても長期的に安定した収益があがる事業として目を付けたのが
生まれ育った京都の嵯峨を流れる大堰川(保津川)でした。
大堰川…統一した名称は桂川といい、嵐山から上流の保津峡の間を保津川と呼ぶ。
この保津川では延暦3年(784)から始められた長岡京遷都の造営時に
さらに奥地の京北黒田(現在の京都市右京区京北)から山国庄(南丹市日吉)
保津(現在の亀岡市保津)などを経由して嵐山まで筏に組まれた材木が
流されたと記録されています。この筏探しは、延暦13年(794)平安京の造営時
には、数が増やされ都建築の用材として‘京都’の形成に寄与していました。
嵯峨に住まいをしていた了以は、ひっきりなしに上流から流れてくる筏を
見て知っていたことは想像に易く、おそらく彼のビジネスセンスなら、この川を
使用した物資輸送の重要性を熟知しており、以前から目を付けていたと思われます。
その了以の思いが事業化のイメージとして現れたのは、朱印船の港を視察した
帰りに寄った岡山県北部(美作国)を流れる和気川(現吉井川の支流)を行き来する
高瀬舟を見たことによるといわれています。
嵐山の中腹に建つ角倉了以のゆかりの大悲閣・千光寺にある林羅山(蘭学者)
が書いた「吉田(角倉の本姓)了以碑銘に「凡そ百川、皆以て舟を通すべし」と
保津川へ舟を通す決意が詳しく記録されています。
丹波地域の豊富な木材や薪炭、米や野菜などの物産を、効率よく運ぶには
丹波から京都へ向かって流れている保津川に舟を流すのが最適であり、
そうすれば京都と丹波の双方の利益となるという発想を思い立ったという訳です。
思い立つと行動するのも早いのが、いつの時代もできるビジネスマンに共通するところ。
了以は早速、川の実施調査をして事業化の確信を深め、
息子素庵を徳川家康がいる江戸に派遣して、幕府より
「古より未だ船を通せざるところ、今開通せんと欲す。これ二国(山城・丹波)の幸いなり」
という開削許可を得たのです。
保津川の開削は慶長11年(1606)の春とされ、8月までの約5ヶ月で
完成させるという当時では最も早い工程で仕上げたのです。
とはいえ、保津川が流れる保津峡という渓谷は、巨岩が奇岩がむき出しと
なる狭くて流れが渦巻く複雑な河川形状で、筏流しでも‘自然の要害’と
いわれた場所で、舟を通すのは容易ではないところ。
先の碑文によれば「大石あるところは轆轤(ろくろ)索を以て之を牽(ひ)き、石の水面に
出づるときは則ち烈火にて焼砕す。瀑(たき)の有る所は其上をうがって準平にす」と
記してあり、大石を大勢の人で引き動かし、水面に出て航行の邪魔になる石は焼き砕く
などの難工事を施したのです。
そんな複雑で難しい河川開削工事を繰り返しながら、僅か5ヶ月で丹波から嵐山までの
舟の航路を開き、物資輸送の舟運を整備した技術は、当時の土木技術では最先端のもの
であり、日本土木史に燦然と輝く画期的な工事だったことは間違いありません。
この自然の要害・保津川の開削工事の成功は幕府をも驚かせ、角倉一族の施行技術の
高さを見込み、その後、駿河の富士川や岐阜の天竜川の開削工事を依頼したほどです。
富士川は規模の流れも保津川よりあり、難工事だったが慶長13年(1608)に
完成させ舟運を開いています。この成功には家康自らが現地に視察いくほどの事業でした。
また、慶長16年(1611)了以は京都の洛中に鴨川の水を引いた人工運河として
高瀬川の開削工事に着手し、3年後の慶長19年(1614)に京都二条から伏見の港
まで工事を完成させます。高瀬川開削と舟運開通により、京都二条から伏見、そして
淀川を経由して大坂までの舟運ルートを成立させたのです!
これがどれだけ画期的なことであったか!強調しても強調し過ぎることはないでしょう。
丹波から生活基盤の物資が京の都へと運ばれ、都市機能整備の需要材の調達と
景気、物価の安定を支え、天下の台所・経済の中心地大坂をつなぐことで
最先端技術や異国文化の導入により発展させる、丹波―京都―大坂を結ぶ舟運による
物資流通ルートを整備したことを意味します。
その恩恵を受けることで、政治の中心が江戸に移り、地盤沈下が杞憂された
当時の京都も衰退することなく、文化都市として発展していった、その礎を
角倉家が築いたといっても言い過ぎではないと思います。
多くの京都人がこの了以たちの事業価値をあまりご存じないのは残念なことですが・・・
という京都人だった私も、保津川下りに関わるまでは了以のことを知らなかったのです・・・
角倉了以とその子素庵は朱印船貿易の大商人であり、国内では河川開削の技術集団を
組織し、舟運を開き利益を得るという手法を編み出した初の事業家で、日本産業経済史
の流れからみても極めて重要な人物であることは間違いないと思います。
海外貿易と河川開削による舟運事業という先見性、事業の合理性と計画性の高さ、
そして何より冒険心と志に裏付けられた意志の高さと強さ、スケールの大きさは
現在の企業家たちにも多くのヒントを与えてくれるのではないかと思います。
現在社会でいえば大手商社と大手ゼネコンを兼ね備える財閥や総合企業グループ
の総帥と呼べるのが角倉了以・素庵親子なのです。
角倉家は、3代将軍・家光の鎖国政策により朱印船貿易が禁止された後も
保津川を通行する舟からの通行料を徴収することで、明治時代まで継続性
のある経済的利潤を確保することに成功し、水利長者として栄えました。
この稀代の人物に創設され、現在も当時の姿を変えることなく現存している保津川下り。
この川には世界文化遺産に匹敵する要素が詰まっていると私自身は確信しています。
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