語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】東日本巨大地震、専門家は・・・・

2011年03月13日 | 震災・原発事故
 阪神淡路大震災のとき、災害発生を知ったのは午前6時をすぎてまもない頃だった。パソコン通信のメールをチェックしていると、兵庫区に住む友人からメールが入っていた。「大きな揺れがきた。銭湯のあたりから煙が立ちのぼっている。街の様子をみて、また連絡する」
 連絡は、その日には入らなかった。
 1月17日、職場では神戸のことはほとんど話題にならなかった。日常の業務をこなすことに追われた。昼休憩も何かゴソゴソやっていたはずだ。夜、テレビのニュースを見て愕然とした。その日から、毎夜、友人・知己に安否を問い合わせた。交際のあった人で、明石から大阪までの間に居住する人々の安否がつかめたのは、ようやく4日目になってからのことだ。全員、死亡も負傷もしていなかった。ただし、少なからずが物質的な被害をこうむっていた。把握した状況は、東京にいる共通の友人にも知らせた。
 あの4日間、日々、拡大していく被害情報に接して暗然とした。そして、5日目からそれまでとは違った行動をとることになる。
 神戸は復興した。東日本巨大地震/東北関東大震災の被災地も復興できるはずだ・・・・と信じたい。亡くなった人の命は帰らないにしても。

2011年3月12日付け朝日新聞「巨大地震、専門家は」
●河田恵昭(人と防災未來センター長)
 2万2千人が死亡した明治三陸地震津波(1896年)はM8.5だった。3千人が死亡した昭和三陸地震津波(1933年)はM8.1だった。それを上まわる規模の地震が起きたことは驚きだし、震源位置も過去の地震からかなりずれている。
 今回の震源地は、明治以降大規模地震の震源となっていない海域であり、その分、長年エネルギーが蓄積されていたとも考えられる。
 今後余震が続く可能性が高い。被災地では広範囲に停電している。警報をいかに住民に迅速に伝え、スムーズな非難を促すかが喫緊の課題だ。

●梅田康弘(地震学、京都大学名誉教授)
 三陸沖南部海溝寄りで起きたプレート境界型の地震だろう。長さ600キロメートル、幅150キロメートルにわたって断層が割れたのではないか。
 半年間は余震に注意が必要だ。最大余震の規模は、M7.6~8.0とかなり大きい恐れがある。今回の地震で壊れた断層の南北で起きやすい。
 これまで起きると予想されていた宮城県沖地震(M7.4)の断層も割れたはずだ。しかし今後、同じ場所で同程度の余震が起きる可能性は残っている。
 今回、大きな断層の破壊によって、3,000メートルの海底から海水が持ち上げられて陸に押し寄せた。広範囲に大規模な津波が襲ったのは、このためだ。
 今回の地震が懸念されている東海、東南海、南海地震の引き金となるとは考えにくい。しかし、この三つの想定地震が一度に起きると、今回と同程度の地震になる。

2011年3月13日付け朝日新聞「東日本大震災 専門家に聞く」
●河田恵昭、梅田康弘および桜井誠一(神戸市代表監査委員)による鼎談
(1)どう受けとめるか
 あの海域であんな大きな地震が起きるわけがない、と言われてきたが、想定を超えた。人智には限界がある。【河田】
 想定は、M7.4からM8前後だった。【梅田】

(2)余震
 余震は最大M8に達する恐れがある。今回、南北400~500キロ、幅150キロにわたって断層が壊れた。その南北のどちらかの端で起こるだろう。南側で起きた場合は首都圏を襲う可能性がある。半年以上は最大余震を警戒しなければならない。【梅田】
 安政の南海地震(1854年)では1年間も余震が続いた。【河田】

(3)三陸は発生後4分で津波警報が出て大きな津波はその1時間後、逃げることは出来なかったのか
 今回、避難勧告にもかかわらず自宅を片づけていた人もいた。行政は啓発方法などを考えなくてはならない。【桜井】
 チリ地震津波への避難勧告・指示に応じて避難した人は3.8%だった。明治三陸、昭和三陸地震の教訓を将来に伝える仕組みがない。ひめゆりの塔や原爆資料館はあるが、災害についてはほとんどない。【河田】
 阪神大震災以降、地域防災計画を含めていろいろ変わった。震災時の初動もよくなった。行政から住民への情報伝達も具体的な計画ができている。しかし、訓練となるとだんだん形だけになっていきがちだ。【桜井】
 家も何も残っていないのが今回の地震。今回の地震を想定して訓練しても逃げ切れたかどうか。【梅田】
 避難所も100%の人が逃げてきたら、入りきれないのが現状だ。【河田】

(4)救助や救援活動で一番重要なもの
 どこでどのくらいの人が生き残っているかの情報をつかむこと。【桜井】
 情報が入手できない場合や情報に偏りがある場合もある。津波の高さに応じて救援の規模を決めるなど、客観的指標を策定するべきだ。【河田】

(5)12日未明の長野M6.7地震との関連
 長野のは内陸地震で仕組みは違うが、誘発地震の可能性がある。東北には火山があるので誘発に注意が必要だ。宮城県石巻市で70センチ沈降、東南東に4メートル動いていた。東北日本で大きな地殻変動があったことを示す。誘発地震や噴火が懸念されるのは北米プレートの中、つまり東日本だが、西日本でも警戒は緩められない。【梅田】

(6)今後重要になる問題
 家が壊れたら避難は長期間に及ぶ。ストレスなどで眠れなくなる。体調を壊し、避難所や仮設住宅で二次災害的に亡くなる人もいる。生活環境を含めた長期のケアが必要だ。今回は広域災害であることが大きな特徴だ。地域によって被災者の求めるものが違う。国は財産権限などを一部地方自治体に譲って、ある程度地域の自由裁量で対応を進められるようにしなければならない。【桜井】
 県を超えた対応が必要。国は県を支援するという形ではうまくいかない。複数都県をどうマネジメントするか、政府の力量が問われる。【河田】

(7)電話もメールも通じない状態での情報への対処法
 災害の場合、安否は伝言サービスを利用するという知識や教育を浸透させなければならない。【桜井】
 原発、停電、帰宅困難者など、われわれが初めて直面する課題であり、学ぶべきことは多い。【河田】
 帰宅困難者は、安全が確保されるなら、その場にとどまるのが原則。しかし、今回の地震では、徒歩で帰ろうとする人、レンタカーを使おうとする人が大勢いた。原則が浸透していない。企業などがもっと学ばないといけない。【桜井】
 その日のうちに帰れそうな人から帰るとか、必ず複数で帰るなど、組織ごとに決めたルールに従って行動すると、途中でトラブルにあうなどのリスクを低くできる。無秩序な混雑も避けられたはず。東海地方では「一挙に名古屋駅に来ない」というルールが企業などに浸透している。東京ではそこまで進んでいなかった。【河田】

(8)今回の地震で東海・東南海・南海地震が同時に起きるか
 今回の地震が引き金になって引き起こされるという科学的根拠はない。この三つはもともと連動して起きうる。もともと発生する確率が高い地震なので、警戒は必要だ。【梅田】

(9)今回の震災の教訓
 地域行政間の連携の重要性が浮かび上がった。日頃やっておかないことはできない、というのが阪神大震災の教訓だった。複数の都府県が同時に被害を受ける広域災害の対応では、救援物資や人員などのリソースの絶対量が足りない。それをどう割り振るのか、事前に自治体同士が取り決めておかなくてはうまくいかない。【河田】

(10)ハザーマップや地震の想定規模の見直し
 事前の見積もりどおりにはいかない、ということを今回思い知らされた。住居を高台に移すことを考えるべきだ。【梅田】
 コストの問題がある。M8.5の地震を設定すると、それ以上の規模の地震が起こるとお手上げだ。港への対策など、コストと切り離して国全体でどうするかを考えていく必要がある。【河田】
 現在作られているハザーマップは広域災害をあまり意識していない。広域災害について今後考えていかねばならない。【桜井】
 東海・東南海・南海地震が同時に起これば規模も大きくなり、今までのハザーマップは有効でなくなるかもしれない。【梅田】
 今回の地震では、船の油が引火して火災が広がるなど、イメージできない事象が多々起きた。【桜井】
 東京には耐震性能に問題がある石油タンクが6千基あるとされている。【河田】

(11)一時疎開や防災計画の見直し
 避難所や仮設住宅は行政の役割。被害がない県が、行政機能がマヒした被災地をバックアップしていくのがよいのではないか。【桜井】

(12)避難所になるはずの学校が津波の被害
 阪神大震災の時に比べ、プレハブ業者の生産能力が40%くらい落ちている。国レベルで増産態勢をとらなければならない。【河田】

【参考】2011年3月12日付け朝日新聞
     2011年3月13日付け朝日新聞
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【読書余滴】国会議員の国語力 ~『速記者たちの国会秘録』~

2011年03月12日 | ノンフィクション
 「みぞゆう」(未曾有)
 「ふしゅう」(踏襲)
 自民党の麻生太郎は、首相時代にこういった発言を連発し、さんざん揶揄された。

 首相がこうなら、大臣もやらかす。
 かつて一万田尚登元蔵相は、「プラトン輸出」(プラント輸出)などと言った。

 この手の発言は、党派を超えるらしい。
 昭和27年、井上良二という社会党議員は、ある特別委員会で「いちいのむらいかん」と発言した。
 このときの速記者はまだ駆け出しだったが、さすがプロで、前後の文脈から見事に何を言わんとしているかを察知した。
 「市井の無頼漢」のことであった。

 誰が言ったかは不明だが、「ほことん」(矛盾)、「ケザワヒガシ」(毛沢東)、「かたやまおりぐち」(片山哲)のごとき発言も国会で飛び交った。

 議員だけではない。文書のプロであるはずの官僚も、この手の発言をする。
 さる旧大蔵省の幹部は、国会で、「おいかよさん」と宣うた。追加予算のことである。

【参考】菊池正憲『速記者たちの国会秘録』(新潮新書、2010)
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【読書余滴】石山ヨシエ第二句集『浅緋』 ~風土~

2011年03月11日 | 詩歌
 著者、石山ヨシエ氏は朝日新聞鳥取版の俳句欄の選者である。『浅緋』は氏の第二句集で、ウスアケと読む。1993年から2010年まで17年間の作品をおさめる。
 結社「門」の主宰、鈴木鷹夫は帯文にいう。「いつも若々しい著者だが、この句集では今迄の透明感に加えて精錬された美的節度を感じる。即ち壮にして寂、瑞々として切実な句境に入ったと思う。そしてそれらを止揚すると見事題名『浅緋』に集約されるのである」

 このたび、図らずも句集をいただき、一読、再読した。
 目についた第一は、風土だ。

   凩に明け渡したる城下町

 城下町がどこかは定かではないが、著者の在所の鳥取市であるとすれば、その風土を大きく掴んで間然するところがない。富士には月見草がよく似合い、鳥取市には凩がよく合う。夏でも「凩に明け渡した」感じを与えるのが鳥取市だ。
 なお、ここでいう鳥取市は2004年の合併より前の鳥取市だ。いまの鳥取市は、かつての気高郡(3町)、岩美郡の2町村、八頭郡の3町村と合併し、2005年には山陰初の特例市に指定された。

 著者は旧・鳥取市をいとも軽々と踏み越えて、より広く因幡を謳う。

   滴りの谺となりて竜神洞

 あるいは、伯耆に足を伸ばして、

   根の国をあまねく照らし烏賊釣火

 この場合、根の国は弓ヶ浜、別称夜見ヶ浜のことだ。

   妖怪の町をぞろぞろ神無月

 この町は、当然、水木しげるの生地、境港市でなければならない。
 そして、さらに日本海沿岸を歩いて、

   自衛艦もつとも霞む舞鶴よ
   田仕舞いの種火はりつく能登の闇

 目につく第二は、ほのかな笑いだ。滑稽と呼ぶと強すぎ、ユーモアと呼ぶと作為が過ぎる。俳味と呼ぶほど脱俗ではない。むしろ日常のなかで目に入ってくるものが自ずから醸し出すおかしみだ。『浅緋』は編年体だが、季別に並べ替えてみると、四季それぞれの日常のなかに、かくも楽しい光景がこれほどたくさんあることに愉快を感じる。

   帽子とはよく飛ぶものよ青嵐
   電柱を抜きたる穴や梅雨に入る
   サーファーの崩るるさまを見て飽かず
   月下美人咲くぞ咲くぞと闇の声
   それにしても栗がごろごろ栗の飯
   忽然と案山子一族あらはるる
   口元の泡ゆたかなり松葉蟹

 第三、自然観察は厳しい。熟練のわざで言葉の彫刻刀が大自然を刻み、凛然とレリーフする。

   雲海の沖より明けて鳥のこゑ
   ベランダに鳥のこゑ降る夏館
   睡蓮の白に迷ひのなかりけり
   剥製のどれも飢餓の目空澄めり
   秋落暉影の相寄る島二つ
   落暉ごと海へなだるる鰯雲

 第四、自然を凝視し尽くす先に幻想が生まれる。『浅緋』の作者の幻想は、現実と非現実がまざりあうところに特徴がある。昔、荘周は夢に胡蝶となった。ひらひらと舞って、胡蝶そのものであった。のびのびとして楽しく、ほんとは自分は荘周なのである、ということがわからなくなったほどだった。目覚めて我にかえったが、はたして荘周の夢に胡蝶となったのか、はたまた、胡蝶の夢に荘周となったのか(『荘子』斉物論)。

   眠られぬ夜は赤エイと泳ぎけり (注:エイは漢字)
   陽炎に焼身の夢よみがへる
   現世のここは秋蝉湧くところ

 自然界の凝視と荘周胡蝶の夢とをつなぐのは、次のような句だ。

   鳥渡る海底に道白くあり
   安楽死ふと思ひけり寒桜
   夕闇の白山茶花を基地とせり

 そして、現実も非現実もない境地に、次のような不思議な句が生まれる。 

   啓蟄や人犇めける地下酒場

【参考】石山ヨシエ『浅緋』(ふらんす堂、2011)
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【読書余滴】佐藤優の、厚生労働官僚の逆襲 ~村木統括官による国家賠償請求訴訟の背後にあるもの~

2011年03月10日 | ●佐藤優
 2010年12月27日、村木厚子内閣府政策統括官は国家賠償請求訴訟を起こした。国と大阪地検前特捜部長・大坪弘道被告を相手取って、約3,670万円の支払いを求めている。
 この行為に違和感を覚える、と佐藤優はいう。以下、佐藤の議論の要旨。

   *

 精神的苦痛を被ったということで私怨を晴らす意味も込められているのだろう。しかし、村木が攻勢に出たことで、本人も弁護人も理解できていないだろうが、位相が変わった。しばらく時間を経たところで世論は村木叩きに転じると思う。
 管理職は部下に対する監督責任を負っている。部下が不祥事を起こせば、当然上司の責任が問われる。偽造証明書を発行した上村勉係長(当時)は村木課長(当時)の部下だった。その監督責任を村木はどう考えているのか。その監督責任よりも、国家賠償という形で、国民が払った税金からお金を取ることのほうに理があると考えたわけだが、その心情はどのようなものか。

 魚住昭『冤罪法廷』(講談社、2010)によれば、上村被告は「自分は能力がないくせにコミュニケーションを省いてしまう癖があるんです。相談するのが好きじゃないんです」と自己規定している。24歳で旧厚生省に入り、自分が無知であるというハンディを内心抱えていたが、なんとか勤めてきた。それが、障害保健部企画課社会参加推進室の係長を拝命し、「本当に自分でやれるのかどうか不安が大きくなった」 。上村は、入省してからシベリア抑留者の遺骨収集を担当した。この仕事は性に合っていた、と上村は述べている。それが、社会参加推進室に異動して、予算案を出し、国会答弁を考え、それを室長に見せる。そんな仕事の繰り返しの中でプレッシャーが重なった。心療内科に週1回通院するようになった。
 そんな状態になっても放置していた職場環境にも問題がある。
 また、上村と一対一で話した記憶がない、と村木は証言しているが、課長-係長という関係で部下と話をしない上司というのは、普通に考えて、いかがなものか。
 対照的なのが、村木と企画課長補佐との関係だ。課長補佐の証言によれば、日に数回は情報のやりとりをしていた。直属の部下とはいえ、省内でこんなにやりとりするのは、一般的な官僚の仕事の仕方から考えると多すぎる。
 上村と課長補佐への対応の違いをみて言えることは、メンタル面で問題を抱えてしまうような職員は視界に入らず、特定の職員とのみ意思の疎通を図る管理職、課全体への目配りが足りない管理職だ。こういうタイプの官僚が時々いることは確かだ。
 そういう職場環境に置かれた上村は、孤立し、心に問題を抱えて、証明書偽造に手を染めていったのだ。

 取材したところ、村木は「祭り上げられた存在で、実験を握っている人ではないなと感じましたね」と魚住はいう。
 ただ、自己分析はよくできている、と佐藤は評価する。村木による上村への指示というストーリーで検事が取り調べる際、村木は分析する。<ひとつは、私はニセ団体だと思わず部下に流した。私と部下の思想が全く異なっていて、部下は全員『もう議員案件はやらなきゃいけないもんだ』と思う文化を持っていて・・・・>
 厚生労働省の文化は、この発言に近いものだろう。それを傍証するのは、当時村木の上司だった塩田幸雄の証言だ。国会議員からお礼をもらったことはある、酒や商品券を業界の人からもらった、云々。「よくないことだと思いました」と違法性認識を持ってはいる。そのとおりで、これは賄賂だ。塩田だけが特異な文化の持ち主とは言えまい。
 村木の自己分析の二点目。<私が気付いていないところで、私が非常に部下の恨みを買っていて>、それが原因で自分を罪に陥れようとしていると。部下から怨まれていなかったと思っているらしいが、そう言いきれるか。そうでなければ、メンタル面で問題を抱えている人であっても、証明書偽造の指示をしなかった人を陥れる証言をするだろうか。
 三点目。<私が二重人格で、悪い人格が出たときに、そういう指示を出して、よい人格の自分の戻ったときはそのことについて記憶がない>・・・・自分に都合のいいものだけが記憶に残り、悪いものは残らない。職務においてもえり好みして面倒くさいことには触らない。程度の差はあれ、こういう人は職場にいる。

 国家賠償請求訴訟によって、これまで目に見えなかった厚生労働官僚の利害関心が目に見えるようになった。
 郵便不正事件(凛の会事件)の裁判進行中には、検察官僚が厚生労働官僚に攻勢をかけていた。特捜神話が崩壊し、検察官僚が弱ったところに攻勢労働官僚が逆襲してきた、という構図だ。
 戦前、国家公務員や軍人は自発的に国家機関に属したという理由で、人権は認められなかった。国家と一体化した存在だ、という解釈だ。特別権力関係だ。戦後は、人権のごく一部が合理的な範囲においてのみ規制される「特別の公法関係」に変わった。国家権力の恣意的な動きを防ぐのが目的だ。戦後内務省は解体されたとはいえ、官僚組織はその基本的骨格が温存され、国家の利益を体現する存在であることに変わりはない。
 起訴された村木が(事件に直接関与していない以上)徹底抗戦するのは当然だ。ところが、国家賠償請求訴訟が意味することは何か。村木は現職官僚だ。むろん、村木個人として国家に賠償を求める権利はある。「でも、ここで重要なのは、権利は放棄できるということなんですよ」
 冤罪が証明された厚生労働官僚が、なお国を相手取って賠償金を請求する。そう決心した時、村木の目に映っていたものを想像してみる。この人が長い間身を置いていた組織の文化にある「社会通念とは異なるもの」が、浮かび上がってくる。

【参考】佐藤優(語り手)/魚住昭(聞き手)「ラスプーチンかく語りき 68」(「一冊の本」、2011年2月号)
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【読書余滴】視覚の展開 ~『ヨーロッパ視覚文化史』~

2011年03月09日 | 心理
 かつてストックホルムまでいっしょに旅した人が糖尿病になった。糖尿病から網膜症、白内障、血管新生緑内障が発症し、失明にいたることもある。日本では糖尿病網膜症のために視覚障害になる人が、視覚障害者のうち5分の1、年間間3,000人もいるそうだ。
 ヒトが外部世界の情報をとりこむ際にもっとも活躍するのは視覚だろう、と思う。その視覚が失われては大変だ。
 しかし、16世紀のヨーロッパでは、視覚はあまり重視されていなかった。アリストテレス以来、人間の感覚には視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感がある、とされていた(今日では平衡覚なども感覚に加えられている)。そのうち視覚は、聴覚と触覚の後塵を拝し3番目の位置を占めていたにすぎず、重要性において聴覚と触覚とは大きくかけ離れていた・・・・とジャン・ピエロ・ブルネッタは、アナール派の歴史家フェブヴレおよびマンドローを援用しつつ伝える。

 ブルネッタは、視覚の歴史をレオナルド・ダ・ヴィンチから始めている。視覚の歴史において、レオナルドは地理的な探険と発見におけるコロンブスと同様の役割を演じた、と。「認知能力が視覚に由来するとは考えない哲学、科学、宗教の概念から完全に孤立していたが、レオナルドの思想はガリレオの『星界の報告』(1610)から1世紀以上も専攻していた。そしてデカルトの<<光屈折学>>に関する研究とともに、それは17世紀のバロック様式の文化や工学理論にその視覚の能力が利用されることに貢献するのである」
 眼や暗箱(カメラ・オブスクーラ)に係るレオナルドの思索が重要であるから、だけではない。「それらの発見の中に、世界の認識と知識に対する新たな展望(ヴィジョン)が投影され、15世紀末期のヨーロッパに広がる対立的な社会の衝動が合流していることも重要だと思われる」 
 世界の驚異が見つかるのは、地理的な未知の世界ではなく、各人の視線の届く範囲内だ・・・・ということにレオナルドは注目した。それは、日常のさまざまな体験と関わる。いつでも自分たちの眼に映し出すことのできる世界だ。
 レオナルドは、眼のもつ能力を明らかにし、他のすべての感覚より優れている、と考えた。その考えは、ほぼ2世紀の間、視覚理論を導くことになる。そして、「それはすべての芸術家の歩むべき道を示し、やがては現実世界を捉え、極めて精確に見るための光学の箱(カメラ)に利用されることになるのである」。
 カメラは、近代世界の観察者の眼に二重の光景、すなわち(1)現実世界にいっそう近い関係をもたらす光景と、(2)視覚の枠外にある時間と空間に接近する光景とを見せることになる。そして、<<観察する>>という儀式と結びついた個人的、集団的な時間をも生み出した。
 科学革命前夜、解剖学という微視的研究、天文学という巨視的研究は光学機器の系統的利用によって実現できた。光学機器は、アリストテレスやプトレマイオスの思想体系にもとづく世界認識を根底からひっくり返しながら、想像しかねる領域まで人間の観察力を広げることになった。その成果は、航海術や農業技術、地図作成法だけでなく、医学や外科学にもすぐ応用された。

 ところで、ルネッサンス期には、光が外界から眼に入りこんでくるのか、光線が瞳の中から観察する対象物に向けて発せられるのか、どちらなのかはまだ明らかになっていなかった。「眼光炯炯」や「眼光紙背」といった熟語が今も生きているところからすると、中国人も日本人も、西洋人よりもっと遅くまでどちらなのかわかっていなかったかもしれない。
 暗箱は、レオナルドよりずっと以前から知られていたが、暗箱を用いて光線が外界から眼に入りこむという理論を組み立てたのはレオナルドだ。1485年から1490年にかけて書かれた<<アトランティコ手稿>>(D稿のA面)の第8稿に記されている、とブルネッタはいう。

   *

 以上、「第3章 眼と光、驚異的な世界の創造と征服」に拠る。
 『ヨーロッパ視覚文化史』は図版豊富で、眺めて楽しい。そして、歴史をたどることで、視覚という感覚の奥深さを教える。

【参考】ジャン・ピエロ・ブルネッタ(川本英明・訳)『ヨーロッパ視覚文化史』(東洋書林、2010)

糖尿病網膜症のために視覚障害になる人が、視覚障害者のうち5分の1、年間間3,000人もいる。
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【読書余滴】佐藤忠男の、テレビドラマのあり方と社会のあり方 ~その日本的特徴~

2011年03月08日 | 批評・思想
(1)アメリカのテレビドラマ
 (a)特定の個人を軸として展開される作品が多い。
 (b)ドラマで活躍する個人は、主として同じ場所、同じ職業で、ただ相手だけを毎回変えて活動する。すなわち、それは職業のドラマである。主人公は、仕事をこなすことによって上の身分に出世していくのではなく、その職業においてさらなるベテランになっていく。例:①「弁護士プレストン」や「事件と裁判」の弁護士や検事、②「ベン・ケーシー」や「ドクター・キルデア」や「看護婦物語」の医師や看護師、③「ミスター・ノバック」や「チャニング学園」の教師、④「ハイウェイ・パトロール」や「アンタチャブル」の刑事。
 (c)主人公は、べつだん人並みはずれた器量である必要はない。むしろ、ベン・ケーシーのように、一市民としては無愛想でつきあいにくい、といった欠点をもっている。しかし、すくなくとも、その専門の仕事に関してはずば抜けた技術をもっている。しかも、その職業においていい腕をもつだけでなく、その職業に徹することを通じて、一種の哲学を身に付けている。自分流の生き方を主張できる。ベン・ケーシーは、単に優秀な医師であるだけでなく、医師としての信念によって、まちがった社会通念、患者のまちがった人生観と対決する。ベン・ケーシーは、一市民として他人に忠告するのではなく、あくまで医師として、患者の健康を守るにはこうあらねばならぬ、と主張する。
 (d)米国の職業ドラマの主人公たちは、徹底したプロである。仕事そのものが生きがいである。仕事によって自分の生き方に自信をもち、仕事の立派さにおいて他人から一目置かれる。その仕事を通じて、ものごとの善悪さえ主張できる人間だ。
 (e)同じ職場の同僚は、一国一城の主である。各自、自分の主張に固執して同僚間のいざこざが絶えない。
 (f)名探偵シャーロック・ホームズにはじまる探偵物語は、原則として、あくまで犯人対探偵の一対一の知恵比べである。「シャーロック・ホームズ」は、探偵としての腕にだけ自信をもつプロ意識がある。場合によっては、自分一人が犯人を知っていればよく、別に手柄にならなくてもよい、という名人気質がある。
 (g)法廷もので、弁護士は自分が必ずしも好ましくは思っていない被告でも、事務的に引き受ける。弁護を巧みにやってのける。弁護士である以上、職業倫理に忠実なのだ。そして、裁判が終わってから、実はああいう人物は好ましくない、といった批判をちょっぴり言う。

(2)日本のテレビドラマ
 (a)米国と比較して、個人ではなく、記者クラブや商社などの集団が単位で展開されるものが多い。
 (b)個人ドラマは、第一にほとんど長編小説のドラマ化であり、しかも第二に一種の立身出世物語ないし成長物語である。一人の人間が、人生のさまざまな波乱を経験していくことで、主人公は同じでも、主人公の活躍する場所と職業、つきあう相手はだんだん変わっていく。
 (c)職業を扱ったドラマはある。例:①「事件記者」の新聞記者、②「七人の刑事」の刑事、③「判決」の弁護士。しかし、これらの職業ドラマの登場人物たちは、個人として水際だった職業上の冴えをみせることはあまりない。むしろ、一人一人としてはごく普通の人間が、その職場のチームワークのよさによって、協力してひとつずつ事件をさばいていく形になる。職業のドラマというよりは、職場のドラマである。
 (d)「判決」の弁護士グループにおいては、社会正義を主張し、貫くことが生きがいである。弁護の技術それ自体はあまり重要でない。というよりも、弁護のしかたそのものが、虚々実々の駆け引きであるよりも、むしろいかに率直に心情を披瀝するか、にかかっている。腕よりも真心なのだ。そして、勝訴すると自分一人で満足感を味わうのではなく、弁護士事務所の仲間一同と喜びをともにするのである。自分たちの信じる正義感が世に受け入れられたことに。
 (e)職業人の生きがいは、自分の腕のよさもさりながら、職場の雰囲気そのものの中にある。同じ職場の同僚は、現実のどんな職場でもこうはいくまい、と思われるくらい仲がよい。チームワークがうまくとれている。おかげで、一人一人はかくべつプロ根性といった徹底的なものをもっていなくても、有無あい通じる相互の連絡さえ巧みにやっていけば、事は自ずから解決してしまう。互いに漫才のような口調で喋りあうのは、その連絡方法の円滑さを表す。そして、事件解決よりも職場の雰囲気のほうをよりいっそう楽しんでいる。
 (f)記者同士、刑事同士の和気あいあいの雰囲気が強調されるあまり、彼らに追われる犯罪者との関係は、安定したよき職場でよき同僚と楽しく日を送っている者と孤独な人間との戦い、といった印象を与える。むろん、勝利は前者に輝き、自分一人罪におびえる孤独なアウトローは必ず敗北する。記者や刑事には、個人的なプロ意識や名人意識はなく、代わりに組織への信頼と、組織の居心地のよさが眼目になる。組織に巧みに適応し、みんなと協調できたときに仕事はうまくいき、満足感を味わう。
 (g)法廷ものでは、主人公は職業に忠実である以上に、職業を通じて社会正義を叫ぶほうに意義を感じている。
 (h)個人の能力礼讃のドラマがないわけではない。オーガニゼーション・マンの対極にスーパーマン的主人公が登場する長編ドラマがある。凡人によって作られている組織と片っ端から喧嘩し、組織から飛び出し、自分で組織を作ってそこのボスになる。彼の能力は、組織をつくって、他人をいかに操縦するか、という人間的器量の問題になってくる。彼に心服する相棒や子分との人間関係のうまさに焦点があてられる。そういうやつが成功するのは当然だし、めでたい、という運びになるのが普通だ。

   *

 以上、「ドラマのあり方と社会のあり方」に拠る。1960年代のテレビドラマ論だが、21世紀の今でも通じる所見が多い。
 たとえば、(1)の(b)は、①の系列に属する「女検察官アナベス・チェイス」、②の系列に属する「Dr.HOUSE」や「ER緊急救命室」、④の系列に属する「NCIS~ネイビー犯罪捜査班」や「NUMBERS」がある。③の系列も探せばあるだろう。

【参考】佐藤忠男『テレビの思想 増補改訂版』(千曲秀版社、1978)
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【読書余滴】NHK「みんなのうた」50周年&昭和家庭史

2011年03月07日 | 歴史
 「志村建世のブログ」によれば、NHK「みんなのうた」は今年3月末でまる50年間放送することになる。志村氏は、この番組2年目の昭和37年4月から38年9月まで間を担当した。
 50年間に世に出た約1,300曲のうち、初年度には「かあさんのうた」「トロイカ」などが、2年目と3年目の上半期には、「大きな古時計」「ドレミの歌」「アルプス一万尺」などが放送された。
 初期には、当時無名の歌や外国曲を発掘したり、外国曲に新しい歌詞をつけた、という。「かあさんのうた」は後藤田純生チーフが歌声喫茶から「拾ってきた」し、「おお牧場はみどり」は資料室の外国民謡から拾いだしたのだ。
 著作権に関してアバウトな時代だったらしい。「おお牧場はみどり」は、すでに歌詞がついていたが、出だしの「ああ牧場はみどり」を元気な「おお」に変えた。「白銀は招くよ」の歌詞「雪の山は恋人」を「雪の山は友だち」に勝手に変えたりもした。当時の「少年班」では恋はご法度だったのです、うんぬんと志村氏。
 NHKから楽譜を取り寄せて生徒に教える学校の教師が非常に多かったらしく、とくに毎日流す「今月の歌」が大事だったそうだ。じじつ、風紋子は「みんなのうた」を小学校の音楽の時間に教えられた。中学校時代には、音楽の時間に「クワイ河マーチ」をハーモニカで吹いた。そして、クラスメートとともに、市の文化祭(だったと思う)で演奏した。ただし、この曲、亡父の集めたレコードの1枚に「ボギー大佐」というタイトルで収録されていたから、それまでに一度は耳にしていたはずだ。

 風紋子が「みんなのうた」を学校経由で知った理由のひとつは、テレビはあまり見ない子どもだったからだ。それでも、いくらか見た記憶はある。
 昭和35年には、どんな番組が放送されていたのだろうか。『昭和・平成家庭史年表』の文化・レジャーの項目を参照すると、「ハイウェイパトロール」が放映されている。これは時々見た。ただし、同年7月4日には放送中止されている。同年6月30日、「NHKテレビ、浅沼稲次郎社会党委員長刺殺事件によりテレビでの殺人や暴力シーンの追放を決定」したからだ。・・・・しかし、浅沼委員長刺殺事件は同年10月12日のことだ。妙な記事である。
 昭和36年には、4月3日にNHKテレビで朝の連続テレビ小説第1作「娘と私」が放送を開始した。当然ながら、これは見ていない。6月4日には日本テレビで「シャボン玉ホリデー」が放送開始。親が見ている横で覗いたことはあるが、最初から最後までちゃんと見たことはなかった。テレビではないが、「少年サンデー」に「伊賀の影丸」が連載を開始したのは、この年の4月だ(昭和41年10月まで)。「少年サンデー」は、小学生3年生から卒業するまで定期購読していたから、毎回読んでいた。
 昭和37年には、5月4日からTBSテレビで米国テレビ映画「ベン・ケーシー」が放送開始。空前のヒットだったらしいが、これは見てない。というより、当時は山陰の県庁所在地には配信されていなかった。テレビではないが、この年の11月からプラモデルのブーム(第一次ブーム)が始まった。風紋子も、この頃、プラモデルをせっせと制作した。不細工な出来の作品を、亡父がたんねんに仕上げた記憶もある。

  さまざまのこと思い出すさくらかな  芭蕉

【参考】下川耿史/家庭総合研究会『昭和・平成家庭史年表 1926-2000』(河出書房新社、2001)
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書評:『サポセン黙示録 2』

2011年03月06日 | ノンフィクション
 サポセンはすなわちサポートセンター、各種企業の一部門で、ユーザーからの質問などに対処する。
 本書は、サポセン勤務者ほかの実体験談を満載する。いずれも抱腹絶倒の裏話だ。
 第1巻と同じく、日経ネットナビが主催するホームページ大王2001年グランプリを獲得した「絶対サポセン黙示録」、及びその管理者による同人誌の記事を抜粋、編集したもの。ホームページそのままに顔文字や拡大文字を頻用しているから、ネットサーファーには親しみやすいだろう。
 ところで、何がサポセンで働く者にため息をつかせ、読者の笑いを誘うのか。多くは「お客様」の無知である。無知は無恥と紙一重だ。
 たとえば「今まで通じていたのにプロバイダに接続できなくなった」と苦情を持ちこんだ男性。パソコンにわりと詳しく、できることはすべてやった上でハードの故障を疑ったらしい。サポセン君、怒り狂う彼に代わってプロバイダへ照会した。そこで判明したのは唖然とする真相。「そのお客様ですが・・・・数ヶ月前から料金を滞納されて(中略)アカウント停止状態になっています」
 第1巻の話題はもっぱらパソコンだったが、本書では別の話題が増えている。
 たとえば、「専用ワープロのデータを手元にある2HDのフロッピーで互換してくれ(専用ワープロのフロッピーは2DD)」と同じ職場の、しかし別会社のおばさんから頑固に注文されて閉口する例が投稿されている。浜の真砂は尽きるとも、無知蒙昧による奇行の種は尽きない。
 本書にはサポセンとの「付き合い方」の一章がある。聞きたいことを事前にメモしておく(聞き漏らしがない)、最初に最重点事項を話す(聞く側はポイントを掴みやすい)など。質問する前に説明書を読むのは当然の配慮だが、実行されていないらしく、末尾に「お願いします」と切ない。要領を得ないマニュアルがあるのも事実だけれど。

□FOX-兄貴『サポセン黙示録 2』(白夜書房、2001)
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【読書余滴】梅棹忠夫の、リーダーの条件 ~桑原武夫回想~

2011年03月04日 | 批評・思想
 小山修三は、梅棹忠夫の談話を引用している。
 「京大大学院の学生で25、6歳のころの話だ。そのころ、私はいろいろな問題で諸先輩とさかんに議論をかわしていたが、ある日、桑原武夫先生に『包囲殲滅戦をしたらいかんよ』と諭された。お説教には理由があった。私は、こと学問に関しては、正しいと思ったことは相手かまわず断固主張した。相手の誤りや矛盾をとことん追求して、その主張を理論で包囲して逃げ道をふさぎ、徹底的にやっつけることもあった」
 「そんな世間知らずの若者を桑原先生は諄々といさめてくださったのである。『論争は大いにけっこう。でも、自分が優勢なときほど相手に退路をつくっておいてやったほうがええなあ。そうしないと恨みが残り、闇討ちにあうかもしれん』とおそろしいことをおっしゃる・・・・」
 「ある先生が出版された野心作を読んでみると、多くの誤りや引用文献の誤読があたので、全教室員の集まった研究会の場で、原典を積み上げながら全面的な批判を展開した。そこには当の先生もいて、無言のまま顔面蒼白になられた」
 「別の大先生の講演を聞いて、箇条書きにした疑問点をもとに次々質問を浴びせた。大先生は次第にしどろもどろになり、最後は居丈高になって梅棹さんを威圧しようとした」

梅棹 それまでは学問上のことはいくらやっつけていいと思っていた。桑原さんはわたしに、学者として生きていくうえでの知恵というか、「学問もしょせんは人の世のことである」ということを気づかせてくれたんやな。それからは、激しい論争はしても、過度に戦闘的になることはなくなった。
小山 やっつけられたことは、ないんですか?
梅棹 やられたことはない。<いつでも挑戦は受けるよ。>

 (中略)

梅棹 ・・・・それで、桑原さんの「包囲殲滅戦をやっちゃいかん」ていう言葉がよみがえってくる。桑原さんという人は、そういう点でわたしに、やっぱり<「知識人としてのマナー」>【注】というか<「常識の道」>「【注】をよく教えてくれた人でしたね。

 【注】原文では、< >内は大きな活字で強調されている。

   *

 以上、「第8章 できない人間ほど権威をかざす」から抜粋、引用した。

 なお、梅棹忠夫は、司馬遼太郎とともに、『桑原武夫傳習録』を御大喜寿の年(1981年)にまとめている。桑原武夫の友人や弟子による桑原武夫像の総集編だ。その序文を「知的巨人の人間像」と題して、こう書く。
 「桑原先生は、人もしる人物論の大家である。だれかれに対する桑原先生の人物観察は、巨視的でありながら、するどく繊細で、そしてあたたたかい。わたしなども、人間の見方について、どれほどたくさんのものをおしえられたか、はかりしれない」

 また、桑原武夫7回忌の集まりの記録をおさめた『桑原武夫 -その文学と未來構想-』では、梅原猛との対談「未来構想」において梅棹は、桑原武夫の人となりを概要つぎのように語っている。
 桑原は、非常にバランス感覚のとれた優れた人だった。じつに目配りがいい。決して偏頗な判断をしない。じつに現実をみて、バランスよく考えていく。現実感覚のすぐれた人だった。
 非常に鋭い観察眼と判断をもっていて、人物鑑定眼は第一級だった。
 桑原から非常に大きな影響を受けたことが幾つかある。その一つは文章のことだ。じつに親切に文章の欠陥を指摘する。それで梅棹はずいぶん鍛えられた。とくに平明にして論理的な文章を書く、という指導を徹底的に受けている。桑原は、すくなくとも理論的にはローマ字主義者で、ローマ字で書くと非常に文章がよくなる。梅棹も、1946年からローマ字をずっとやっている。国立民族博物館を退官し、兼職規定にしばられなくなった年の5月から、梅棹は日本ローマ字会の会長になった。
 フィールドワークでは今西錦司に鍛えられた。研究室におけるリーダーシップは、やはり桑原武夫が抜群だった。共同研究を指導する桑原の指導力、リーダーシップは大変なものだった。共同研究は専門を同じゅうする人たちが集まってやるものだと一般にいわれているが、桑原のやり方はまったく反対だった。専門が違う人が一緒にやることが大切なんだ、と。専門が違い、テーマは同じではいけない。『フランス百科全書の研究』のときに集められた人数は2、30人。それぞれ全部専門が違う。それを全部一つにまとめていく。その指導力というものは抜群だった。
 桑原武夫の組織運営力に影響を受けている。桑原ば、部門制、講座制を無視してかかった。予算は人文科学研究所の教授たちには配分せず、全部プールした。国立民族博物館においても同じやり方を採用した。博物館ではもっとラジカルにやった。全部梅棹が予算をにぎった。これは実に有効だ。足りない資金をいかに巧妙に運営するかといえば、分けたらダメだ。巨大集団の組織術については、桑原から非常に多くのものを学んだ。
 国立民族博物館は、日本民族学会から出てきた話だった。問題が煮詰まってきた段階で文部省も動きだした。その段階で調査会議を組織した。調査会議では終始桑原が議長をしていた。なかなかまとまらないのだが、それを桑原がまとめる手腕はまことに見事なものだった。桑原は、民族学者でも人類学者でもなく、まるで関係がないわけだが、意のあるところをきっちり知っていて、難しい先生方を非常に上手にあしらい、立派な結論のところへ追いこんでいった。博物館設立後には評議員会の会長をしてもらったが、外部の大先生方の評議員を上手に操縦し、意味のある結論にもっていった。

【参考】梅棹忠夫(語り手)/小山修三((聞き手)『梅棹忠夫 語る』(日経プレピアシリーズ、2010)
     梅棹忠夫/司馬遼太郎・編『桑原武夫傳習録』(潮出版社、1981)
     杉本秀太郎・編『桑原武夫 -その文学と未來構想-』(淡交社、1996)
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【読書余滴】梅棹忠夫の、情報産業論(情報論ではない)

2011年03月03日 | 批評・思想
 梅棹忠夫は、1963年、43歳のときに「情報産業論」を「放送朝日」に発表した。情報のもたらす文明論的変革、「工業の時代」から「情報産業の時代」への移行を予想した。 
 予想は当たり、米国では産業革命型のモノ作りが衰退し、金融業(投資銀行的業務)や情報処理産業が成長している。情報処理産業では、マイクロソフト、アップル、グーグルがリーマンショック後も好調である。
 梅棹の「情報産業」は情報処理産業より範囲の広い概念だが、それはさて措き、以下「第4章 情報は分類せずに配列せよ 記録と記憶の技術(3)」からさわりを引く。

   *

 日本のインテレクチャルは非常にまちがっている。日本人は、整理好きというより分類好き。すぐ分類したがる。ほとんどは分類して、それでおしまいになっている。分類には意味がない。整理と分類とは全然ちがう。分類するな、配列せよ、機械的に配列するのだ。大事なのは検索だ。
 「<やっぱりインテリ道というのは、近代武士道だなあ>【注】」

 知的生産は情報の技術だ。工業技術以外に技術があろうとは誰も思っていない時代に、『知的生産の技術』を書いた。版を重ね、2010年8月現在85刷だ。
 いまでも知的という言葉は、知的生産の技術と関連してよく使われる。
 
 「<日本政府は唯物論政府や>【注】」
 「ポスターをつくるのに、紙代と印刷費は出る。だけど、デザイン料がついていない。デザイン料という概念がなかったんやな。デザインはいったいどうなるのか。だれがどうやってつくるのか。するとそれは、『担当課長の机の上に、ある日突然載っているんや』なんて、おかしなことを言っていた。そういう扱いだった」
 産業として見てない。知的生産を頭から認めていなかった。知的生産とかデザイン的なものを全部タダだと思っていた。それを分譲に結びつkてたから、情報産業論が生まれた。

 「情報産業論」は情報論ではない。2007年12月の比叡会議(日本IBM主催の有識者会議)は「今、ふたたび情報を考える」というテーマだったが、情報機器類の話にいってしまった。情報の専門家は、情報のなかにランクがあるようなことを言う。なかなかちゃんと理解してもらえない。一部分だけを勝手に広げている。
 情報と産業を分けて考えてはダメだ。情報の時代とみんな軽く言っているが、情報産業時代なのだ。「わたしは、はじめからそう言っている。工業時代の次に来るのが、情報産業の時代ですよ、と。<一種の進化論>【注】です。農業の時代、工業の時代、その次に来るのが情報産業の時代」
 はじめ、「放送おめかけ論」ということが言われていた。何も生産しない、養ってもらうだけのおめかけさん。何もモノをつくっていないから工業のおめかけさんというわけだ。梅棹は、それは違う、と言った。それが情報産業論の成立のきっかけになった。あちこちでアジテーションやった。放送界は、それで非常に元気づけられた。

 昔から、狩猟採集、農耕、牧畜、工業があって、そのなかに情報というもの自体はずっとあった。突然出てきたものとはちがう。

 梅棹の情報産業論は、情報論ではない。コミュニケーション論ではない。文明論だ。
 技術が産業につながるのは、当然なのだ。

 【注】原文では、< >内は大きな活字で強調されている。

【参考】梅棹忠夫(語り手)/小山修三((聞き手)『梅棹忠夫 語る』(日経プレピアシリーズ、2010)
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【読書余滴】梅棹忠夫の、中国という「表面の繕い」の国、イタリアの「見せかけの文化」

2011年03月02日 | 批評・思想
梅棹 ・・・・信じられないような話やけど、中国で2年間生活していたとき、朝、研究所への通勤途中、道端でウンチしている人がいっぱいいた。ほんとうにすさまじい社会やった。道端に男がザーッと並んで、ウンチしているわけです。
小山 その前に見た牧畜民は非常に簡素で清潔で、さっぱりしたものと。
梅棹 北アジア、西アジアはそうね。その前に、張家口でイスラームを見ているのが伏線になっている。張家口に大きなイスラーム寺院があって、アホンというイスラームの聖職者がいた。何もないが、さっぱりしていた。
小山 アラビアのロレンスもそう言ってましたね。中国ともちがうんですか。
梅棹 ぜんぜんちがう。私は2年いたから、中国のことはよく知っている。それから後も、中国30州を全部歩いている。そこまでした人間は、中国人にもほとんどいないと言われたけれど、<わたしは全部自分の足で歩いている>【注】。向こうで生活してわかったんやけど、中国というところは日本とはぜんぜんちがう。「なんというウソの社会だ」ということや。いまでもその考えは変わらない。最近の経済事情でもそうでしょう。食品も見事にウソ。ウソと言うと聞こえが悪いけど、要するに「表面の繕い」です。まことしやかに話をこしらえるけれども、それは本当ではない。
小山 梅棹さんは「中国を信用したらアカン」と言ってましたね。
梅棹 いまでもそう思う。しかし、ある意味で人間の深い心の奥にさわっている。人間の心の奥に、おそろしい巨大な悪があるんやな。中国にはそれがある。
 それでも中国は道徳的世界やから、表面を繕ってきて、でっちあげたりする。コテコテ文化やな。ヒンドゥーはこの道徳的世界とはまったくちがいます。ヒンドゥーはむき出し。人間性の一番いやなところ、おそろしいところが目の前にある。
小山 臓物をひらいて見せられたような気がしたわけですか。
梅棹 そうやな。

 (中略)

小山 これぞヨーロッパの核だと思ったのはどの国ですか?
梅棹 これぞヨーロッパだと思うのはフランスかな、いやむしろイタリアかな。
 イタリアはおもしろいよ。わたしはイタリアが大好きや(笑)。言葉も、ヨーロッパ諸語のなかでは、イタリア語がいちばんうまくできるんやないかな。エスパニョーラもいけるんやけど、イタリアーノのほうがいい(笑)。イタリアもウソが多い国やけど、おもしろい国やな。
小山 中国に似ているんですか?
梅棹 ちょっと似ているけれど、だましとはちがう。あれは「見せかけの文化」やな。だからデザインが非常にいい。彼らの哲学として、「見せかけこそ本質である」。見せかけがよければモノもいいという思考がある。

   *

 以上、「第1章 君、それ自分で確かめたか?」から抜粋、引用した。

 【注】原文では、< >内は大きな活字で強調されている。

【参考】梅棹忠夫(語り手)/小山修三((聞き手)『梅棹忠夫 語る』(日経プレピアシリーズ、2010)
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【読書余滴】上司は責任をとらないで部下にその意思を強制する法

2011年03月01日 | ノンフィクション
 1939年6月のある日、天候が悪く、筑波海軍航空隊教官の林冨士夫は実技指導を見合わせ、学生に舎内待機と自習を命じた。冨士夫自身は、専用個室で戦局悪化に思いをめぐらしていた。
 ドアをノックする音が聞こえた。司令からの呼び出しであった。
 飛行服を軍服に着替える間もあらばこそ、急ぎ1階の士官室に向かった。
 士官室に集合したのは、航空司令の高次貫一大佐、飛行長の横山保少佐の隊のトップ2人をはじめ、飛行隊長の大尉、そして、その下に位置する戦闘機操縦教官だった。合計7人だったか8人だったか、冨士夫の記憶は定かではない。
 全員が着席したところで司令が起立し、落ち着いた口調で話しはじめた。

 戦局はまことに重大な局面に立ち至っている。第一、敵戦力が日に日に増強されているのに反し、わが方は兵力損耗に対してこれを補う余裕が既にない。第二、現在は南方からの油の輸送がままならない。今までどおりの戦闘や訓練を続けると仮定すれば、約2ヵ月で備蓄は枯渇する。第三、航空機製造に必要な資源、ジェラルミンの原料ボーキサイトの輸送も油同様に難儀となり、このままでは航空機が生産できなくなる。
 司令はさらに話を続けた。敵に損害を与えなければ、敵はますます増強していく一方だ。搭乗員の養成、錬成にも燃料は必要であり、戦わずして燃料を消耗してしまう。燃料確保のために訓練を控えれば、練度は目に見えて落ちる。既に展開している味方の部隊は見殺しにするのか、という問題もある。
 陰鬱な雰囲気が座を覆った。司令は本題に入った。
 「兵力といい、燃料・航空機といい、八方塞がりとはまさにこのことである。このようににっちもさっちも行かぬ状況に対して、一つの提案があった。決戦用の新兵器である」
 提案は、海軍の上層部からきた。新兵器とは・・・・「それは、一度出撃すれば生還が絶対不可能であるが、成功すれば正規空母はもとより、どのような大戦艦でも一隻撃沈確実というものである」
 撃沈確実とは、敵機動部隊の包囲網を軽く突破する速力で到達できる、ということだ。戦艦を撃沈できるとは、1トンに近い爆弾の威力を持つことになるだろう。・・・・一瞬の間に、冨士夫はこれだけのことを考えた。生還は絶対不可能、という言葉には驚かなかった。海軍兵学校に入学して以来、死は覚悟していた。

 決戦兵器なるものの一端を大佐は告げた。いっそこれに賭けてみよう、という意見も出が、「しかし、この決戦用の新兵器は、前代未聞の非人道的な兵器である。けして上からの命令で実施できるような性質(たち)のものではない。帝国海軍はもとより、古今東西の歴史を探しても、このような前例はどこにもない。過去に決死的作戦、決死隊があったにせよ、これらはうまくいけば生還できるものであったが、今回の決戦兵器は生還の公算は絶無である。この点が従来とまったく類を異にするものである。上命により実施することができないゆえんでもある」
 では、なぜ自分たちが今、呼ばれているのか? 冨士夫はそう感じつつ、司令の次の言葉に耳を傾けた。
 海軍上層部は、起死回生の妙案だから、非人道的ゆえをもって一概に捨て去ることはできなかった。堂々めぐりで結論は出なかった。苦慮を重ねた結果、まず搭乗員に意見を聞いてみよう、となった。「すなわち、完全なる自由意志でこの決戦兵器を志願する者があり、しかもそれが一個部隊を編成するに足るものであれば、この兵器の研究開発を進める。志願者がいないか、または仮にあったとしても、それが一個部隊の編成に満たないような場合は廃案にしようということになったのである。諸君の意見を聞くために参集を願った次第である」
 飛行長が補足説明を行った。一度に全国的に募集するのは大変だから、試しに一部の搭乗員から希望を聞き、それでもって全国的な数字を推計しようということだ。全国で一個部隊編成するには、諸君のうちで2人以上志願者があった場合に可能だ。
 飛行長は、念を押した。「これを志願したから勇気があるとか、志願しなかったから卑怯であるとか、そのような区別、差別はまったくございません。(中略)私たちは皆一様に、戦闘機が好きでたまらず、念願かなってパイロットになったわけであります。今さら他の飛行機に乗り換えられるか、という意見もあるでしょう。それはそれで良いと思います。要は完全なる自由意志でいずれを希望されるかということであります」
 司令がふたたび立ち上がった。「3日間の余裕を与えるので、考え得るすべてのことを十二分に考慮し、その上で決断して欲しい」
 これを受けて、飛行長がまた起立し、説明した。決心がついたら、結果を飛行隊長室にて投票されたし。これより3日間は隊長室を空けておく・・・・。

 解散となり、教官たちが士官室を出ようとしたとき、「待て」の言葉があった。飛行隊長だった。その周囲に教官が集まった。飛行隊長は言った。
 「どちらも立派な御奉公というお話ではあったが、このような場合、率先して志願するのは、やはりわれわれのような兵学校出身の士官、兵を指揮する者でなければならないと俺は思う。われわれが志願せずに、予備学生や予科練の出身者だけが志願したとしたら、帝国海軍を引っ張ってきた江田島の伝統や誇りはどうなるかを考えてもらいたい。これだけは忘れないで欲しい」

 「決戦兵器を選択せよ、という強制的な言葉であった」と小林照幸は注記する。
 事実、冨士夫は高揚した気持ちが萎えた。「確かに、予備学生や予科練の出身者が志願しながら、指揮者たる士官が志願しないというのは『弱虫め』という批判を受けても仕方ない。とはいえ、現時点では、決戦兵器を志願するかしないかは三日間、自らを熟慮して決断せよ、という話ではなかったか」
 それでは話が違うじゃないか、ならば飛行隊長が率先して志願すればよいことじゃないか。
 「腹ただしい気持ちが収まらない中、個室に戻る階段に上がるとき、頭上から、/「今さら、戦闘機もやめられんしなあ」/という声が耳に入ってきた。/はからずも、それぞれの意見を耳に入れてしまったことで、冨士夫の気持ちは揺れ出した。後に『人生最長の3日間』と名付けた時間が今、始まろうとしていた」

    *

 以上、「第2章 人間爆弾訓練」に拠る。
 ここでいう決戦兵器は、「桜花」である。冨士夫は結局「志願」するのだが、戦争を生き延びて、2009年には特別養護老人ホームに入所した。
 大岡昇平は『レイテ戦記』第10章「神風」でこう書く。
 太平洋戦争末期には、「出撃はほとんど死を意味した。三度は帰還しても、四度目には撃墜されるのである。しかし生還の確率零という事態を自ら選ぶことを強いられる時、人は別の一線を越える。質的に違った世界に入るのである」
 「口では必勝の信念を唱えながら、この段階では、日本の勝利を信じている職業軍人は一人もいなかった。ただ一勝を博してから、和平交渉に入るという、戦略の仮面をかぶった面子の意識に動かされていただけであった。しかも悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる」

【参考】小林照幸『父は、特攻を命じた兵士だった。 -人間爆弾「桜花」とともに-』(岩波書店、2010)
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