ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2024-119 気になったこと、国会・スケート

2024年12月15日 | 日記
昼からやまない雪、午後は久し振りの休息日。

先週の国会で一瞬、目を疑った。
立憲民主党の本県出身の階議員が与党の答弁側の席に座っていたのだ。
何故?
そこでの討論。立憲の修正案に対して、立憲が質問に答えるという図式だった。
今更だが今国会をみて、今までと違う与野党伯仲の国会だからの現象だった。
続いてスピードスケート。
女子の高木選手がベテランの貫禄で3冠。
しかし、その高木選手に0,12の差で2位に輝いたのが吉田雪乃選手だ。
彼女は盛岡工業高校出身。短距離が得意でポスト小平と言われ、成長盛りの21才。
ウインタースポーツで、本県出身では、ジャンプの小林陵侑選手に続くスケートの希望の星でもある。

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2024-118 原敬と選挙そして昭和天皇

2024年12月15日 | 日記
今日も寒くて冷え込んだ1日。
韓国ではユン大統領の弾劾議案可決、これからどうなるのでしょう。今後の状況注視です。

午後から原敬記念館にて学芸員の講座受講。そこでの新発見。
明治から大正期に活躍した郷土の偉人原敬。
原敬を突き動かした根底にあるのはあの戊辰戦争。
敗者となり白河以北一山三文といわれたことから原敬は
反骨精神で一山と押印したのはよく知られている。

明治の最初の選挙は1890年、定数300人小選挙区制 
有権者直接税15円以上納める25歳以上の男子で総人口の1パーセント記名制
明治33年1900年選挙法改正 10円に引下げ総人口の2パに倍増 376名 大選挙区 無記名投票
原敬は盛岡で初選挙に臨む。当時47歳 
明治33年に立憲政友会を設立したばかりの政党に参画。4次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任したが
盛岡では馴染みが薄い。上京して以来盛岡へは3度しか帰省しなかったようだ。
明治34年母リツの帰省に同行し選挙出馬を模索。政友会岩手支部設立。
翌年8月の選挙区には盛岡市長の清岡氏予定。M35年4月両者の話し合い決裂。
バックには盛岡財界有力者(大金持ち)VS政友会県支部(小金持ち)
新聞社を巻き込んでシビアな論戦の闘いがあったという。
最後清岡氏陣営の大物の方が原側につき勝因の要素を作ったといわれる。
その後は地元をまとめ清岡氏も入党。暗殺される64歳の1921年まで無競争で盛岡市から連続8回当選。
昭和天皇との関わりとして
大正7年1918年、米騒動直後、の9月、19代内閣総理大臣それから3年2ヶ月後、鉄道員に暗殺される。
65才の時、皇太子だった19才の昭和天皇に欧米訪問を勧めたのも原だった。
当時、父の大正天皇は病弱で周りは反対していたが見聞を広め世界状況をつかむことを進言。
半年間の視察となった。皇太子が9月に帰国。その2か月後に原は暗殺されてしまう。
元老の山県有朋は運命と嘆いたという。
大正天皇は失語症にかかっていたといわれる。その後、生前の原の勧めもあり皇太子は摂政となり、
大正天皇が47歳でなくなるまで続けられ25歳で天皇となる。

それにしても鉄道や教育に力を注いだ原敬が普通選挙制の実現を目指さなかったのは残念だ。
平民宰相と言われているのに。10円以上納税を3円以上と引き下げに改正。
しかし民意は普通選挙を望んでいたのだった。
時機尚早・国民は自立心が弱いとの判断では国民の不満は収まらない。
4年後の1925年、男子だけの25歳の普通選挙が実現された。
女性も加わる20歳以上の普通選挙は終戦後の1945年を待たねばならなかった。

明治・大正・大戦とその時代を紐解くのはなかなか解らない部分もあるが
大正がなぜ「15年」という短い期間だったのか、そして原敬の天皇への関わりも以外であった。








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