先日、読売新聞の記事で気になるものを見つけた。
山田詠美さんが新作について語ったインタビューで「死ぬことについて考えるのって、私はすごく品のいいことだと思うし、人間はいつ死ぬか分からないということを自覚している人って、品がよくなってくると思うの」というくだり。
死ぬことについて考えることは決して品のないことではない、確かにそうだ。
人は生まれてきたら必ず死ぬ。そして哀しいかな、死に方はなかなか自分では決められない。
よく死ぬことはよく生きること、だからこそ、日々を大切にして最後まできちんと生きて、きちんと死にたいと思い、日々悪戦苦闘しているわけだ。
もちろん再発するまでは、そうそう死について身近に感じることはなかった。
けれど、死はタブーではないし、死を考えることにより、自分の来し方行く末を考えることは決して悪いことではないと思えるようになった。
以前はこの人とお逢いするのは今日が最後だ、などとは思わなかった。次回もある、ということが前提で。
けれど、歳を重ね、震災のような突然の有無を言わさぬ死を想うと、次回逢えることは決して約束されたことではない、と思わざるを得なくなった。
だからこそ、というわけではないが、もし、この人とお逢いするのが最後だとしたら、その人が最後に逢った自分を嫌な奴、変な奴、嫌いな奴として思い出してはほしくない。
されば、なるべくいいイメージを残したい。だから、誰にでも出来るだけ親切に優しくありたい、と思うようになった。
山田さんが「死を想うことは決して下品なことでなく、逆に品のあることだ」というのは、そういう意味で言われたことではないかもしれないけれど、私はそんな風に思う。
せっかく思い出してもらえるなら、たとえ自己満足と笑われようとも、他人様から「いい人だったね。」と言ってもらえる方が良いではないか。
昨日あたりから時間が来ればお腹が空くし、何を食べても食事が美味しく感じられる。気が付けば、ついつい沢山の夕食を用意してしまい、夫と息子から「多すぎる!」と言われてしまった。
週末までは、駅に着いた時に「ケーキ買って帰ったら食べられる?」と電話をかけてくる夫に、無愛想に「無理!」と答えていたのが我ながら嘘のような変貌ぶり。
また、3週間に一度の躁状態の到来である。適当にブレーキをかけながら、次回の治療に備えて心穏やかに前向きに過ごしたいと思う。
山田詠美さんが新作について語ったインタビューで「死ぬことについて考えるのって、私はすごく品のいいことだと思うし、人間はいつ死ぬか分からないということを自覚している人って、品がよくなってくると思うの」というくだり。
死ぬことについて考えることは決して品のないことではない、確かにそうだ。
人は生まれてきたら必ず死ぬ。そして哀しいかな、死に方はなかなか自分では決められない。
よく死ぬことはよく生きること、だからこそ、日々を大切にして最後まできちんと生きて、きちんと死にたいと思い、日々悪戦苦闘しているわけだ。
もちろん再発するまでは、そうそう死について身近に感じることはなかった。
けれど、死はタブーではないし、死を考えることにより、自分の来し方行く末を考えることは決して悪いことではないと思えるようになった。
以前はこの人とお逢いするのは今日が最後だ、などとは思わなかった。次回もある、ということが前提で。
けれど、歳を重ね、震災のような突然の有無を言わさぬ死を想うと、次回逢えることは決して約束されたことではない、と思わざるを得なくなった。
だからこそ、というわけではないが、もし、この人とお逢いするのが最後だとしたら、その人が最後に逢った自分を嫌な奴、変な奴、嫌いな奴として思い出してはほしくない。
されば、なるべくいいイメージを残したい。だから、誰にでも出来るだけ親切に優しくありたい、と思うようになった。
山田さんが「死を想うことは決して下品なことでなく、逆に品のあることだ」というのは、そういう意味で言われたことではないかもしれないけれど、私はそんな風に思う。
せっかく思い出してもらえるなら、たとえ自己満足と笑われようとも、他人様から「いい人だったね。」と言ってもらえる方が良いではないか。
昨日あたりから時間が来ればお腹が空くし、何を食べても食事が美味しく感じられる。気が付けば、ついつい沢山の夕食を用意してしまい、夫と息子から「多すぎる!」と言われてしまった。
週末までは、駅に着いた時に「ケーキ買って帰ったら食べられる?」と電話をかけてくる夫に、無愛想に「無理!」と答えていたのが我ながら嘘のような変貌ぶり。
また、3週間に一度の躁状態の到来である。適当にブレーキをかけながら、次回の治療に備えて心穏やかに前向きに過ごしたいと思う。