今年も2月1日がやって来た。私にとっては忘れられない日だ。
4年前のこの日、息子の中学受験、第一志望校の受験日だった。
1月までの受験状況は1勝2敗。唯一合格した地方の寮のある学校は、当初の予定では痛い目にあって(不合格して)本気モードになってもらうための難関校だった。本当に受験は水ものだ。蓋を開けてみると、本命校受験の前に上り調子になるために受けた筈の学校から不合格通知が届き、見込みとは全く逆の結果になっていた。せっかく合格したものの、入学手続き日は、第2志望校の入試日だったたため、手続きに出向くことが出来ず、残念ながら辞退の連絡をしていた。そのため、正真正銘2月からが本当の闘いだった。
この日、息子を志望校に送り届け、息子には「試験が終わったら一緒にお昼を食べようね。」と別れた。嘘つきな母である。無事に試験が開始したのを見届けてまもなく、何食わぬ顔をして今通っている病院にセカンドオピニオンを得に行った。試験終了後のお迎えは夫に頼み、息子から息を弾ませてかかってきた携帯に出たのは、実は会計を待っていた病院のロビー。息子には「急に仕事になってしまったから、お父さんがお迎えに行くからごめんね。」と謝った。
その時の私の行動に息子が少しも疑いを持たなかったのかどうか、今も訊けないでいる。精神的にまだ幼かったから、私の言い分を鵜呑みにしたのかもしれない。そして病院の帰りにはかつらサロンにも寄って採寸してきた。出来ればホルモン剤で粘りたい、と意思表示はしたものの、待ったなしで抗がん剤治療と言われるかもしれない、という一抹の不安はあったからだ。
夫に「今、かつらやさんにいる。」とメールをしたら、それを息子が見たらしく「かつらやさんって何?」と聞かれ、仕事で云々・・・とごまかしておいた、と夫からは聞いたけれど、仕事でかつら・・・なんて、かなり苦しい嘘である。
翌日には、今通っている学校の試験の付き添いも控えており、帰宅すると息子はリビングのテーブルで、その学校の過去問を解いていた。
結局、セカンドオピニオンを頂いたこの病院に転院して治療を開始し、今に至っている。
今思い出しても、2月初めのこの1週間は、精神的にも肉体的にも本当にヘビーだった。我が身のマネジメント能力の乏しさを思い知らされる結果を突き付けられ、息子には本当に可哀想な目に合わせてしまった、と今なお胸が塞ぐ思いだ。
2日の土曜日、第一志望校の不合格を試験が終わった息子に伝えた。当然大泣き。2日の夜、ネットで2日校の合格を確認、とりあえず親子ともども“地獄に仏”という心境で人心地ついた。
3日の日曜日には、本命校が合格の場合と不合格の場合の両方に備えてダブル出願をしていた。1日校が不合格だったためチャレンジ受験はとりやめ、手堅い受験校に向かった。おりしも3日は朝からとんでもない大雪。受験番号が遅かったので、試験終了後出てくるまでになんと1時間半ほどかかり、雪だるまのようになって凍えながら息子を待った。
4日校も出願していたが、3日校が終わった段階で親子ともどもヘトヘトで、もし3日校が駄目でも行く学校はあるから・・・と棄権。息子は登校した。
4日、月曜日の朝。3日校の不合格が判明、発表を見に行ってくれた夫からそれを聞いた。息子を塾に迎えに行き、担任に今回の受験状況について報告。息子には「3日校が駄目だったので、今から2日校の入学手続きと制服採寸に行くのよ。」と伝えた。2人とも終始無口だった。
4日もまだ雪が沢山残っていてひたすら寒かった。それでも制服を袖に通した時、息子は「似合う?」とぎこちなく笑った。でも、私はその時、どうしても笑えなかった。酷い母であった。
5日にはようやく出勤したが、昼から予約していたサードオピニオンに出向いた。
4年前のことになるが、その時の1週間は、私にとっては二重に辛い思い出として残っていて、いまだに苦いものが込み上げてくる。
さて、今日は久しぶりに最高気温が10度を上回った。これで平年並みというけれど、ここのところの厳しい寒さに慣れた体にはとても暖かく感じた。電車にも乗らなかったので、受験生とおぼしき親子連れは目にしなかったけれど、受験生にとってはお天気も良く、きっといい日だっただろう。今まで頑張った結果がどうか出ますように、と願いたい。
一方、息子は、一体どうしたか、と朝出かける前に実家に電話したところ、朝、母から5時に起こしてもらい予定通り、多摩川の鉄橋を渡る電車を撮りに行ったという。好きなことなら早起きもできる、ということか。
明日もまたお友達と都心までお出かけだそうだ。
4年前のこの日、息子の中学受験、第一志望校の受験日だった。
1月までの受験状況は1勝2敗。唯一合格した地方の寮のある学校は、当初の予定では痛い目にあって(不合格して)本気モードになってもらうための難関校だった。本当に受験は水ものだ。蓋を開けてみると、本命校受験の前に上り調子になるために受けた筈の学校から不合格通知が届き、見込みとは全く逆の結果になっていた。せっかく合格したものの、入学手続き日は、第2志望校の入試日だったたため、手続きに出向くことが出来ず、残念ながら辞退の連絡をしていた。そのため、正真正銘2月からが本当の闘いだった。
この日、息子を志望校に送り届け、息子には「試験が終わったら一緒にお昼を食べようね。」と別れた。嘘つきな母である。無事に試験が開始したのを見届けてまもなく、何食わぬ顔をして今通っている病院にセカンドオピニオンを得に行った。試験終了後のお迎えは夫に頼み、息子から息を弾ませてかかってきた携帯に出たのは、実は会計を待っていた病院のロビー。息子には「急に仕事になってしまったから、お父さんがお迎えに行くからごめんね。」と謝った。
その時の私の行動に息子が少しも疑いを持たなかったのかどうか、今も訊けないでいる。精神的にまだ幼かったから、私の言い分を鵜呑みにしたのかもしれない。そして病院の帰りにはかつらサロンにも寄って採寸してきた。出来ればホルモン剤で粘りたい、と意思表示はしたものの、待ったなしで抗がん剤治療と言われるかもしれない、という一抹の不安はあったからだ。
夫に「今、かつらやさんにいる。」とメールをしたら、それを息子が見たらしく「かつらやさんって何?」と聞かれ、仕事で云々・・・とごまかしておいた、と夫からは聞いたけれど、仕事でかつら・・・なんて、かなり苦しい嘘である。
翌日には、今通っている学校の試験の付き添いも控えており、帰宅すると息子はリビングのテーブルで、その学校の過去問を解いていた。
結局、セカンドオピニオンを頂いたこの病院に転院して治療を開始し、今に至っている。
今思い出しても、2月初めのこの1週間は、精神的にも肉体的にも本当にヘビーだった。我が身のマネジメント能力の乏しさを思い知らされる結果を突き付けられ、息子には本当に可哀想な目に合わせてしまった、と今なお胸が塞ぐ思いだ。
2日の土曜日、第一志望校の不合格を試験が終わった息子に伝えた。当然大泣き。2日の夜、ネットで2日校の合格を確認、とりあえず親子ともども“地獄に仏”という心境で人心地ついた。
3日の日曜日には、本命校が合格の場合と不合格の場合の両方に備えてダブル出願をしていた。1日校が不合格だったためチャレンジ受験はとりやめ、手堅い受験校に向かった。おりしも3日は朝からとんでもない大雪。受験番号が遅かったので、試験終了後出てくるまでになんと1時間半ほどかかり、雪だるまのようになって凍えながら息子を待った。
4日校も出願していたが、3日校が終わった段階で親子ともどもヘトヘトで、もし3日校が駄目でも行く学校はあるから・・・と棄権。息子は登校した。
4日、月曜日の朝。3日校の不合格が判明、発表を見に行ってくれた夫からそれを聞いた。息子を塾に迎えに行き、担任に今回の受験状況について報告。息子には「3日校が駄目だったので、今から2日校の入学手続きと制服採寸に行くのよ。」と伝えた。2人とも終始無口だった。
4日もまだ雪が沢山残っていてひたすら寒かった。それでも制服を袖に通した時、息子は「似合う?」とぎこちなく笑った。でも、私はその時、どうしても笑えなかった。酷い母であった。
5日にはようやく出勤したが、昼から予約していたサードオピニオンに出向いた。
4年前のことになるが、その時の1週間は、私にとっては二重に辛い思い出として残っていて、いまだに苦いものが込み上げてくる。
さて、今日は久しぶりに最高気温が10度を上回った。これで平年並みというけれど、ここのところの厳しい寒さに慣れた体にはとても暖かく感じた。電車にも乗らなかったので、受験生とおぼしき親子連れは目にしなかったけれど、受験生にとってはお天気も良く、きっといい日だっただろう。今まで頑張った結果がどうか出ますように、と願いたい。
一方、息子は、一体どうしたか、と朝出かける前に実家に電話したところ、朝、母から5時に起こしてもらい予定通り、多摩川の鉄橋を渡る電車を撮りに行ったという。好きなことなら早起きもできる、ということか。
明日もまたお友達と都心までお出かけだそうだ。