散日拾遺

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信玄の病い、道長の患い

2017-07-20 06:18:08 | 日記
2017年7月19日(水)

 ときどき送られてくる「医学史クイズ」から最近面白かったものを二題。著作権という言葉は聞いただけで震え上がるぐらい恐いので、換骨奪胎・大幅にリライトしておく。

 オリジナルの出題・解説はいずれも日本医史学会理事・青木歳幸先生である。

 

問1 

 歴史書『甲陽軍艦』によれば、晩年の武田信玄は「隔の病」にかかっていたと伝えられる。

 元亀3年(1572)、天下統一のため京都を目指して西へ軍勢を進めた信玄は、同年12月徳川家康を三方原で打ち破るなど破竹の進撃。ところが突如ピタリと前進を止め、翌元亀4年(1573)4月初めには反転、甲州へ戻り始める。信玄は腹部の激痛に苦しみ、4月12日に信州駒場で53歳の生涯を終えた。

 さて、信玄を死にいたらしめた「隔の病」とは何か、可能性の最も高いものを選べ。

 

A 心房中隔欠損症

B 腹部大動脈瘤

C 胃がん

D 赤痢

E 慢性腸炎

 

【正解と解説】

 戦闘による傷の悪化や、暗殺説、結核説もあるものの、C の胃がん(もしくは食道がん)説が最も有力と考えられている。

 葬儀直後に侍医である御宿監物友綱が、信玄の重臣小山田信茂に送った天正4年(1567)4月16日の書状に、信玄の病状は「若しくは肺肝により、病患忽ち腹心に萌し安んぜざること切なり。これにより、倉公花佗の術を尽し、君臣佐使の薬を用ふると雖も、業病更に癒えず。追日病枕に沈む」(『甲府市史』所収)とある。

 倉公と花陀は、漢代の伝説上の名医。とくに花陀(華陀とも)は、麻沸散という麻酔薬を使って外科手術を行った名医とされ、華岡青洲も華陀の麻酔薬をヒントに麻沸湯を発明した。このことから、疼痛を抑えるために麻酔を使っていた可能性が窺われる。

 

問2

 平安時代の権力者藤原道長は、寛仁2年(1018)に、後一条天皇が11歳になったとき、三女の威子を入内させ、中宮(皇后)とした。威子立后の日に祝宴を開き、「この世をばわが世とぞ思ふ、望月の欠けたることもなしと思へば」(『小右記』)との即興歌を詠んだと伝えられる。

 かほどに栄華をきわめた道長の体は、それゆえに持病にむしばまれつつあった。翌寛仁3年(1019)には視力が低下して出家。以後、法成寺建設に力を尽くしたが万寿4年(1027)、数日前からできた背中の腫れ物に苦しみつつ62歳で病没。

 さて、道長の持病は、次のうちどれであったと推測されるか。

A 痘瘡(天然痘)

B 多発神経炎

C マラリア

D 梅毒

E 糖尿病

【正解と解説】

 道長が51歳の寛仁2年(1018)の藤原実資の日記『小右記』に、「3月頃からしきりに水を飲むようになった、近頃は昼夜の別なく水を飲みたくなる。口が渇いて脱力感がある」とある。明らかにE 糖尿病の症状であろう。望月の歌を詠んだ翌日の『小右記』には視力が低下したとの記載があり、糖尿病性の視力障害が進行していたものと思われる。

 翌寛仁3年(1019)2月6日の『御堂関白記』には、「心神常の如し、しかし、目尚見えず、二、三尺相去る人の顔見えず、只手に取る物のみ之を見る」と、ほとんど視力がなくなっていることが記され、万寿4年(1027)6月4日の『小右記』には、「飲食受け付けず、無力殊に甚だしき由」とある。

 同年11月21日には、下痢が激しくなり、背中に腫れ物ができて化膿した。医師が招かれ、「背中の腫物の毒が腹中に入り救いがたい」との診断あり、12月1日夜半に背中の腫れ物に針を刺して膿汁を出す治療を施したが著効なし。叫び声をあげて苦しんだ後、昏睡状態に陥り、12月4日の早朝に生涯をとじた。

 栄華を極めた道長であったが、糖尿病の遺伝的素因、過飲過食、運動不足、ストレス、肥満と、発症因子のすべてがそろっていたものと推測される。

***

 胃がんも糖尿病も昔からあったというわけだ。なお、徳川家康の死因としても「胃がん」が有力視されているらしい。伝わるところでは天ぷらを供されて非常に喜び、珍しく飽食した後で急性腹症を起こして亡くなったらしいので、膵炎ではなかったかと思ったりするんだが。

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