散日拾遺

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通勤男、読書発心事

2017-12-16 21:25:51 | 日記

2017年12月16日(土)

 昨朝の電車の中でなぜか突然『藪の中』が読みたくなった。芥川の短編のことである。三人が何をどう語ったのだったか、おぼろげな記憶を詳しく確かめたい気もちに突然なった。こういう時には便利な時代、即スマホ検索したら Kindle版が0円で「購入」できるとある。さっそくダウンロードして職場に着く頃には一読を終えた。

 まだよく分からない。自分が何を知りたかったのか、何が分からないで居るのか分からない。三人の心情も本当のところが腑に落ちない。追々くりかえし読んでみるとして、Kindleなら芥川の全作品が 200円で購入できるのに目が行った。計378篇とか、大半が短編だとすれば一日一読でほぼ一年、来年の日課にするのも良いかと考え追加購入。

 帰宅後に検索したら、芥川が同作の想を得たとされるA.ビアズ『月明かりの道』の全訳までもがネット上に載っている。出版社も本屋さんも苦労するはずだ。(http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/moonlit.html)

 たぶん芥川の鋭さとともに、その短さがあらためて好もしく、凄みあるものに感じられているのである。この夏頃、『君の膵臓をたべたい』という例の話題作が二人の息子の手を経て僕に回ってきた。読んで随所に感心もするものの、やはりこのタイトリングはオジサンには刺激が強すぎる。それに「この半分か3分の1で書けるんじゃないかな」と言ったら、息子の一方がまったく同じ感想を読後に漏らしていたんだそうだ。もっとも、書き手にとってはこの冗長こそが、譲れないのかもしれないけれど。

 芥川の短さを十分堪能した上で、一転、谷崎の長さを楽しんでみたいとも思う。日本語では短編も長編も「小説」だが、フランス語では conte と roman を区別する。comedy と tragedy は単に内容が愉快か悲しいかで分かれるのではないらしい。宇治拾遺物語と源氏物語、徒然草と大鏡、これらすべてを内蔵する日本の文学的伝統の豊かさに、あらためて驚嘆。

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