散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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半過去形より愛をこめて

2017-12-31 22:03:01 | 日記

2017年12月5日(火)・・・に書きかけていたこと

 ウンベルト・エーコがフランス語の半過去形について、熱っぽく語るところを引用してみる。

 「半過去は、継続性と反復性を兼ね備えているという、非常に興味深い時制です。継続用法としては、過去の不特定の時点になにかが発生しつつあるのだが、その行為の始まりも終わりも定かではないことを伝えいます。反復用法としては、その行為が幾度となく繰り返されてきたと見なしてかまわないことを伝えます。けれどその用法が継続なのか反復なのか、あるいはその両方なのかは判然としたためしがありません。『シルヴィー』の冒頭でも、たとえば、最初の "sortais"[sortir(出る)の半過去]は、劇場から出るという行為が移動をあらわしますから、継続です。ですが二番目の半過去 "paraissais"[原形はparaitre(姿を見せる)]は継続と反復両方です。たしかにテクストには、この人物がその劇場に毎夜通っていたと明記されていますが、そう特定されていなくても、半過去の用法自体が行為の反復性を示唆しているのです。こうした時間の曖昧さが半過去を、夢や悪夢を物語る時制にしているのです。そしておとぎ話の時制にもするのです。英語の "Once upon a time" が、イタリア語では、 "C'era una volta" となります。"una volta"(一回、一度)は "once" の訳語だといえるでしょうが、半過去の表現である "c'era"(昔むかし、あるところに)は不定の、おそらくは循環的な時間を暗示するもので、それを英語では "upon a time" ですませているわけです。」

(ウンベルト・エーコ/和田忠彦(訳)『小説の森散策』岩波文庫、P.33-4)

 ああ、安心した。引用部分の末尾に来て、ふっと腑に落ちたのである。

 半過去と単純過去の使い分けはフランス語読者ならよく知っていることで、とりわけ小説や物語の冒頭では定型といって差し支えない。半過去によって背景が説明され場面が描写されるが、その描き方はどこまでも静的・風景画的で芝居の書き割りに相当する。そこにやおら単純過去(最近なら複合過去?)が出現するに及んで、読者は話が動き出したことを悟る。ほんとに誰でも知っていることだが、エーコは一ひねりして、半過去と単純過去を対置する代わりに半過去そのものが「夢や悪夢を物語る時制」であるという。なるほどそうかもしれない。

 読みながら少々落ち着かなかったというのは、このように二種類の過去形をもつのは古典ギリシア語・ラテン語に由来する言語グループの特徴のはずだからで、ラテン語の直系の子孫ともいえるイタリア語がそれを捨てたはずはないと思われるのに、エーコはさしあたりフランス語の半過去形をひたすら讃仰しているからである。イタリア語にはないのかと一瞬疑い、秩序感覚が動揺するめまいの感覚があったのだ。あるんですよね、イタリア語にも。

***

 『小説の森散策』は期待に違わずものすごく面白い読み物で、なので高い酒をチビチビ舐めるような具合にわざとゆっくり読んでいる・・・いつまで続くかな。運命的だというのはその冒頭で、「1森に分け入る」はこんな風に語り出される。

 「わたしはこの講義を、イタロ・カルヴィーノの思い出からはじめさせていただきます。8年前、カルヴィーノはこの同じ場所でノートン・レクチャーズに招かれて6回の講義を行うはずでしたが、5回分を執筆しただけで、ハーヴァード大学での滞在を目前にして、この世を去ってしまいました。カルヴィーノのことを思い出すのは、なにも友情の証だけではありません。このわたしの講義の大半が、物語テクストにおける読者の状況をめぐるものとなるからでもあります。そして『冬の夜ひとりの旅人が』というカルヴィーノのもっとも美しい書物のひとつが、語りにおける読者の存在にささげられているからなのです。」

(前掲書、P.9)

 『冬の夜ひとりの旅人が』は読んでいない。僕の知るカルヴィーノは『まっぷたつの子爵』に『木のぼり男爵』の作者にして『イタリア民話集』の編者としてのそれである。『レ・コスミコミケ』は少々もてあましたが、それで熱愛が冷めた訳ではない。何だろう、翻訳小説を読むという行為には、日本語で書かれた日本人の小説を読むのと違った魅力が確かにある。翻訳の壁が立ちはだかることは打ち消しようもなく、これを超えるためのヘタクソな技巧や上手すぎる工夫に翻弄されているのも明らかなのに、それでもこの魅力には抗しがたい。そして、いつかはオリジナルで読んでやるぞと、たぶん地上の時間の中では実現しない望みを燃料に、闘志の熾火を掻き立てるのである。

 もうひとつ、ロマンス語に二つの過去形のいわく言いがたいダイナミックスがあり、同じヨーロッパ言語圏内部ですらゲルマン諸語には翻訳不能であるなら、日本語の日本語らしさをしなやかに生かして、翻訳不能ながら透見してうらやむことは可能であり、必然でもあるようなカラクリを仕掛けることができないか・・・既にいくらも行われているのかもしれない/行われているに違いないと思いつつ、まんまとやりおおせた時の痛快を想像して楽しむのである。

***

 塾一同から還暦祝いに贈られたたくさんの宝物の中に、『サーカスのこびと』のドイツ語原書があった。原著タイトルは "Der Kleine Mann"、単に「こびと」である。主人公のこびと君がトレーニングするために起用したマネキン人形に「ウンジヒトバル少尉」と名をつけた。「ウンジ・ヒトバル」?「ウンジヒ・トバル」?何だろうと首かしげた幼年期、18歳の大学教養課程でドイツ語を教わり、それが「ウン・ジヒトバル "unsichitbar(目に見えない)" 」だと知って楽しかったこと!ケストナー流のユーモアの一例で、もちろん unsichitbar なのはこびと君の方である。

 これぐらいは人生の時間の中で読みたいかな。

 ・・・違うよ、こびと自身を「ウンジヒトバル少尉」と綽名づけたのだ。マネキンの方は確か、なんとかコップ(---kopf、頭)、ああダメだ、読み直さなけりゃ・・・

Ω

 

 


お寺と神学校

2017-12-31 15:08:56 | 日記

2017年11月29日(水) に書きかけたこと:

 月曜の午後お坊さんに会い、火曜の午前は神学校で話す。24時間ひとコマの過ごし方としては、ちょっと面白いでしょう。

 お坊さんは浄土宗・蓮宝寺(れんぽうじ)の住職、小川有閑氏。多磨霊園に面した立地を生かし、グリーフケアの実践やライフエンディング研究会開催などユニークな活動を展開しておられる。放送大学科目『死生学のフィールド』のためのインタビューで、いずれ同科目でみっちり紹介するからインタビュー内容は今は内緒。

 ここでは前後の雑談から。

 挨拶を交わした途端に「聖歌隊で歌っていらっしゃるんですか?」と訊かれた。尋ねるその声こそさすがお坊さま、凛としてよく響くのである。滅相もないと畏れ入るが、いえいえ御経を読ませてみたいお声ですよと、特上のお褒めにあずかった。

 誦経には確かに音楽的な側面がある。宇治拾遺にはそれにまつわる艶めいた話が載っていて、劈頭の巻一第一話がそれである。題して「道命阿闍梨、和泉式部の許で経を読み、五條道祖神聴聞の事」という。この阿闍梨は「経を目出度く読」みけるが、いっぽうで「色にふけりたる」悪癖をも抱えているとかで、それも「あり」なのか。あとはタイトルの示す通りである。

 常ならばこの阿闍梨の読経は「梵天・帝釈をはじめたてまつりて聴聞せさせ給へば」、そこらの木っ端道祖神など聞かせてもらえる余地がない。ところが「こよひは御行水も候はでよみたてまつらせ給へば」、セレブ仏神は来聴あそばさぬによって五條西洞院あたりの翁にお鉢が回ったのである。

 「御行水も候はで」は艶めかしいを通り越して生臭いが、それで凡百の端(はした)神が得をしたなら結構な功徳ではないか。むろん宇治拾遺の筆法としては「さればはかなくさはよみたてまつるとも、きよくてよみたてまつるべき事なり。『念仏・読経、四威儀をやぶる事なかれ』と惠心の御坊もいましめ給にこそ」ということになる。

 それにしても誦経の不思議、読んでいるのは生身の人間なのに、梵天・帝釈までがありがたがって聴聞するという。肉体をもつ人間に対する、聖なる霊の嫉妬ということなど考えてみたくなるようだ。

 ***

 浄土宗と浄土真宗のニュアンスの異同はかねがね気になっていたところで、良い機会とばかり有閑先生に訊いてみた。これに対するクリアなお答えは、

 「南無阿弥陀仏と称(とな)えれば救われる、これは共通です。ただ浄土宗の場合は、個々の人間が救われたいと願って称える。いっぽう浄土真宗では、称えようという心自体が衆生を救おうとする仏の与えたもので、すべてあちらからなんです。」

 これはとっても面白い。というのはキリスト教にこれをよく似た神学論争がありうる、あるいは現にあったと思われるからだ。いわゆるペラギウス論争は、人間が全面的に原罪に囚われていて恩寵に依らずば救われ得ないのか、それとも自由な意志によって救いに到達し得るのか、この点に関わっていた。...少しズレてるね、それでも言わば平行移動的なズレである。救いに関してはいつもこうした問題 ~ 自由意志の貢献度・到達力の問題が顔を出す。

 ついでながら、わが郷土からは踊り念仏で知られる一遍上人が出た。同郷も至近、河野郷に名を留める河野氏の出身で、僕の理解が間違っていなければ「念仏を称える必要すらない」という絶対他力の最右(左?)翼である。それはさておき、有閑師の次の言葉に考えさせられた。

 「なので、たとえば戦争責任の話なんかで思わぬ違いが出てきます。浄土宗は自由意志を認めるだけに、しばしば厳しすぎるぐらい自宗派の歴史的責任を問います。真宗は根本が仏様の御心次第ですから、人の意志では動かせない、『仕方がない』となりがちなところがあるんですよ。」

 収録前の雑談のことで、ここで終わったのは残念無念。真宗すなわち一向宗は、かつて日本の宗教史上まれに見るほどの政治的な能動性を発揮した。これらをどう考えあわせるか等、後日の宿題に残った次第である。

***

 そういえば家康。自身は浄土宗だが家来には多数の真宗門徒があった。このため、強靱無比な紐帯を身上とする徳川の家臣団が一向一揆では分裂の危機に瀕している。信心の前には主従もなしということで、この経験が徳川幕府の徹底した宗教骨抜き政策の背景にあると言うが、内紛の構造は別にあってそこに宗教が担がれたという説も聞いている。しかしやっぱり「信心は別」であったのだろう。そう判断する理由の一つは、後に帰順した者を概して寛容に受け入れている点である。「信心ばかりは話の他」というところで、少々飛躍するが近現代の良心的懲役忌避を連想させるようでもある。

 徳川家中で一人挙げるなら、今年の大河ネタにも使われた本多正信。鷹匠上がりで後には家康の懐刀となった謀臣だが、永禄6(1563)年の三河一向一揆に与し、一揆鎮圧後に出奔して10年におよぶ放浪生活を送った。謎の多いその時期の体験が後日生きたのであろう、帰参後は家康にとって外在化された政治自我とでも名付くべき、特異な活躍ぶりが多々伝わっている。跡目談義において、秀忠ならぬ結城秀康を推したというのも面白い。

 元和2(1616)年、家康が没すると自らも隠居し、2ヶ月後に没したのが彼の人生の象徴的な仕上げである。享年家康63歳、正信79歳、家康は正信を「友」と呼んだと言うが、あるいは兄の如き存在でもあったか。嫡男・本多正純は秀忠の勘気を被って失脚するが、これも偉大すぎる父に対する2代将軍の抑圧された反発を、主筋に代わって引き受けたと見えなくもない。

 なお、家康が「厭離穢土欣求浄土」を生涯にわたって馬印としたことはよく知られている。白土三平の漫画では、この旗印はむしろ一向一揆の宗徒にふさわしいものとして扱われており、僕はそれが正しいのだと信じてきた。そうであったら面白い、そうではないかと今も思うが、どうなのだろう?

Ω