散日拾遺

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真理への畏敬 ~ ある実習ガイダンス

2020-10-08 07:06:10 | 日記
2020年10月8日(木)
 いよいよ本題。
 お許しをいただき、全文を転載する。

***

 2019年度肉眼解剖学実習ガイダンス
「医師として患者さんに向き合う目での解剖学実習」
熊本大学形態構築学 福田孝一

1 何のための解剖学実習か?
 医学部の学生にとって、解剖学を学ぶことは絶対必要です。その第一の理由は簡単なことで、人体の構造を知らないと、卒業までに学ぶ医学のさまざまな分野の内容を正しく理解することが(困難というよりも)不可能だからです。本来構造と機能は不可分であり、生理機能と病的過程のいずれにおいても、構造と機能の両者を知り、総合的に捉えることで初めて、医学を修めることが可能となります。解剖学が伝統的に基礎医学教育の最初に位置づけられてきた理由もここにあります。
 これと同じくらい大切な第二の理由は、皆さんと私達教員がともに社会に対して負う責任です。平たく言うと、解剖を知らない者が医者になっては困るということです。今はピンとこないかもしれませんが、医師免許証を手に、内頚静脈穿刺やクモ膜下腔穿刺の太い針を患者さんに突きたてるとき、解剖学の意義をたちどころに実感するでしょう。あるいは夜間、院内に医師が自分一人の状況で患者さんの呼吸状態が悪化し、今あなたが喉頭展開し気管挿管をしなければ確実に命が危ない状況を前にして、実習で喉頭周囲の立体構造をじっくり見なかったことを悔やんでも、時すでに遅しです。このようなことはまた、外科的手技にとどまるものでもありません。例えば内科的疾患による重症患者で、病態が確定出来ないまま急速に悪化している状況や、実行した治療に対する予想外の反応に直面した時、構造を知っている者はより深い洞察をもって難局に対応できるでしょう。病気は模式図や概念の中ではなく、特定の解剖学的構造という「現場」で起きていることをリアルに想像する(できる)ことは大変重要です。
 医学部卒業生の圧倒的多数の学生が、将来さまざまな診療行為に携わるわけであり、他方大学教育では実力を備えた医師を育ててほしいという国民的要請があるわけですから、医師としての実力を高めるという観点が、医学科学生に対する解剖学教育において重要であることはいうまでもありません。
 ただし今述べていることは、役に立つ解剖だけを手っ取り早く学ぶということではありません。そのような教育は、今の医学のレベルで止まることを意味します。役に立つか否かに関係なく、解剖学のオーソドックスで根幹的な内容をきちんと身につけるということがあくまで基本です。それは、将来開発される新しい医療に対応できるというだけでなく、やがて皆さん自身が新しい医療を創造する担い手になることを私は願っており、その際に斬新な発想で新しい治療法を生み出すためには、人体構造を系統的に理解していることが大きな助けとなるでしょう。この目標をはっきりと意識して、解剖学に意欲的に取り組んでいただきたいと思います。

2.実習の意義と進め方
 解剖学教育の中心をなす実習の意義は、コンピューター教材がどれほど発達しても変わることはありません。もちろん限られた時間の中で効率よく学習を進めるためには、各種機器の利用も有用ですが、ご遺体に直接触れて「本物」から学ぶことを、模型やシミュレーションで置き換えることは不可能です。時折実習不要論を耳にしますが、医学部を卒業した者は誰もが解剖実習を通じて無意識のうちに人体構造についての理解を身につけているが故に、実習を伴わない学習では人体構造の理解がいかに困難かということ自体を実感できないという点に注意が必要です(私はこの困難さについて、看護学生への講義を行うまで全く気がつきませんでした)。やはり自ら手を動かし、己の目でとらえ、熟考を重ねる実習が不可欠です。そして本物を、時間をかけて学べるという恵まれた環境を最大限に活かすことが皆さんの責務です。なぜならこの実習は、自分の体を熊本大学医学部の学生教育に役立ててほしいと願う、熊本白菊会の会員の方々とご遺族の尊いお気持ちによって初めて与えられた、言葉では尽くせない有り難い機会だからです。絶えずそのことを心にとめ、自分を奮い立たせてください。
 実習により得られる大事なことの一つは、人の内部構造がいかに個人により異なっているかということです。解剖を進めていくうちに、detailはご遺体ごとにさまざまであり、テキストの絵と必ず違っている点があることに気づいてほしいと思います。書物ではなくご遺体に真実があることを忘れてはなりません。このことは、将来患者さんに向き合う時にも非常に大切なことです。たとえ患者さんの表現はあいまいであったり不正確でも、病気を抱えている存在としてそこに真実があるのであり、医師の頭の中の思い込みや書物の記載、理論を優先させて目の前の真実に目をつぶることは誤診や間違った治療行為につながります。
 この、ありのままを正しくとらえることの意義はいくら強調してもしすぎることはなく、これこそが解剖学実習のもっとも大事なことといってもよいでしょう。しかし、実はありのままを正しく見ることは簡単ではなく、実習はまたとないトレーニングの機会と言えます。みなさんが45回に及ぶ実習を一生懸命やり遂げたとき、構造を見続け考え続けたことが必ず大きな力となって皆さんの中に育っていることでしょう。
 見るということについて、一つ注意があります。毎日の実習では剖出作業に追われ、しばしば探している構造物の有無しか眼中になくなり、全体との関係を見失います。いわゆる「木を見て森を見ず」の状態です。局所しか見ない医師の危うさは皆さんも想像できるでしょう。実習中に陥りがちなこのような状態は、意識して修正する必要があります。そこで、手を休め人体内部の構造を原位置でじっくり観察する時間を毎回設ける予定です。同時に自分の担当部位以外をしっかりと見る時間にもします。この俯瞰的観察により、患者さんの皮膚の下に隠れた臓器や血管・神経等の存在をありありとイメージできる力を養うよう努めて下さい。常に局所と全体を関連づけて眺め、考える習慣は、医師として必須です。
 以上述べたことの総括が、表題に挙げた「医師として患者さんに向き合う目での解剖学実習」ということになります。

Ω

Pの災難

2020-10-08 00:11:23 | 日記
2020年9月16日(水)
 友人の名を仮にPとしておく。その異才と愛すべき人柄をめぐる数多の逸話は、後日に譲るとして。

 Pの御母堂が他界されたのは、数年前のことである。遊びにおしかけては家族同様に歓待していただいた古い思い出があり、寂しさは他人事でなかった。90代半ばの大往生でいらしたけれども、直前まで元気だった人が些細な事情での検査入院中に急逝を遂げたため、その仔細に一抹の疑問が残った。
 ここで担当医が、丁重に病理解剖を申し入れてきたのである。
 一定の条件を備えた病院においては常套の作法であるとはいえ、医療行為に手落ちはないという自負が現れているともとれるし、故人と外来担当医との間に多年にわたる信頼関係があったことを反映してもいる。
 申し入れを受けたPは、当然ながらさっそく御父君に相談した。こちらも矍鑠たる老紳士で、70年近く連れ添った愛妻の穏やかな寝顔を見つめ、ねぎらうように呟いたという。
 「お母さんなら、やってもらえと言うに違いない」

 この言葉は、Pおよび夫の仕事先の海外から急ぎ帰国したPの妹を直ちに納得させた。
 好奇心に満ちた勉強家であったうえ御自身の闘病経験なども作用し、故人は医療問題に人一倍関心が深かった。病理解剖の意義についてもよく理解しており、そういう事情が生じた場合は喜んで協力したいという言葉がPの記憶に残っていた。加えて、急逝の真相が判然としないといった状況を、性格的に誰よりももどかしがったはずというのが、Pの理解であり家族全員の見解だったのである。
 こうして承諾を与えられ実施された病理解剖は、遺族にとっても担当医にとっても有益な多くの情報をもたらした。医師の報告の意味するところをPに解説する作業が、友人である僕の役割に振り当てられたが、これほど円満で有意義な病理解剖の実施例は記憶に珍しいと感じた。故人の遺徳のうちに、僕は密かにこれを数えたものだった。

 時は下って先日のこと。コロナ禍で自粛していた定例の会食を、久方ぶりに再開した。ところが酔いが回るにつれ、Pがいつになく不機嫌である。聞けばつい最近になって、御母堂の親族の中から病理解剖に関して強い抗議が出たというのである。
 とりわけ故人にかわいがられていた(と本人は思っている)弟、つまり叔父にあたる人物から、手ひどく難詰されたという。

 「ばかばかしくってさ」
 と言いながら酒を足し、
 「腹を立てる気にもならないよ、ただねぇ」
 とグラスを取り上げ、
 「ほかでもない、おふくろが、さぞ、情けながるだろうと思うとね」
 と言っては、ぐいと干す。
 芋焼酎をガソリン替わりに、この夜のPはかなり飛ばした。家族親族のあり方や故人の意思の扱いについてなど、考えさせられる論題が多々あったうえに、喉もとまで出ながら抑えていたのであろう、辛辣過激な悪罵の切り返しが合間に火を噴いて出る。おかげでこちらは酔うどころではなくなり、25度4合の焼酎の大部分がPの胃の腑に消えてしまった。

 ここではただ、次に紹介する文章との関係で、Pに投げつけられたという言葉の中から一点のみ転記する。

 「最愛の人のなきがらを、切り刻ませることに君は同意した」

 それは違う。断じて違う。

***

 医療関係者ではないPと御母堂のために代弁する。
 病理解剖は、なきがらを「切り刻む」行為などではない、辞を低くし礼を尽くして御遺体に教えを請うものである。このやり方でなくてはわからない貴重な真実が、一件ごとに蓄積されていく。そうした情報の集積こそ、臨床医学の水準を向上させ次代の診療に寄与するものであり、これなくして今日見るような医学と医療の発展はあり得なかった。
 「切り刻む」ことを忌避する人々に問いたい。あなたの家族が病気にかかって手術を勧められたとき、「最愛の家族の大事な体を切り刻むことは許さない」とあなたは言うだろうか?とんでもない、一刻も早く手術をして確かに病気を治してくださいと望むだろう。
 その時あなたは、「切り刻む」という物理的な行為に託された「癒やす」という行為に焦点をあて、それを遂行する術者らの意志と良心に信頼を置いている。それと同じ「癒やし」に向けた意志と良心が、病理解剖を行わしめるということを、どうしてあなたは認めようとしないのか?
 あなたの家族を救った外科手術という「切り刻む」行為は、病理解剖という「切り刻む」行為から得られた膨大な知見によって育まれてきたものに他ならない。前者の恩恵に嬉々として浴しながら、後者の意義を否定して顧みないのは、大きな矛盾であり身勝手であるとあなたはなぜ気づかないのか?

 ここに一つ不思議なことがある。欧米人は一般に遺体を傷つけることを強く嫌い、息を引き取った姿のまま埋葬することを貴しとする。火葬の風習は今でこそ理解が得られるようになってきたが、比較的最近まで(あるいは今でも)強い嫌悪あるいは恐怖の対象であった。故人への怨恨から、埋葬された遺体を掘り起こして焼いた例など、ヨーロッパ史上に珍しくない。
 その欧米人が、臓器提供や病理解剖については概して大きな理解を示す。一方、日本人はまもなく火葬に付すことになる亡骸に、刃物を入れることをはるかに強く忌み嫌う。刃物は許さないが、焼き尽くすことは厭わないのである。なぜか、と問われて口ごもったことが何度かあった。問われる前に自ら問うべきことであろう。
 もちろん、人にはそれぞれ主義主張もあれば好悪の情もある。理屈はそうでもやっぱりイヤだということはあるのだし、この医者、この病院の手には渡したくないということもあるだろう。個別の事情によって自分自身の家族の病理解剖を「否」とする判断を非難する気は毛頭ない。
 ただ、故人の志を慮って直近の家族が「諾」としたことを、遠巻きの外野が非難する資格は断じてない。どだい「なきがらを切り刻ませた」としか理解できない未開の精神は、故人のそれから何世紀分も遅れている。「おふくろが嘆くだろう」とPが言うのは、そのことについてである。

 親友とはいえ他人のことでこんなにも熱くなるのは、病院勤務時代の経験を思い出すからに違いない。やれやれ、これでどうやら次の記事への準備ができた。

Ω