散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

平仄の由来

2023-02-07 08:37:45 | 日記
2023年2月6日(月)
 土日に医師国家試験が行われ、息子が久しぶりに帰宅している。
 夕食後の団欒の中でちょっとしたできごとがあり、そこから中国系の人々に関するステレオタイプが話題になった。自分にも家族にもそれぞれの定型的なイメージがあり、一方では当然ながらステレオタイプから外れる個人に出会うことがあって、その兼ね合いが面白くもあり教訓的でもあるという話。まことに古くて新しいテーマである。
 自分自身のステレオタイプの源は、医学部で知り合ったタイやマレーシアからの留学生たちで、彼らの大半が実際にはこれらの国々に在住する中国系住民だった。福建など中国南部から移住したいわゆる華僑の子女が多く、そもそも御先祖は故地で何かしら不遇であったため、困難を承知で移住したのである。その第一世代は身を低くして商売に励み、こつこつと財を蓄える。蓄えた財で子どもたちは教育を身につけ、実業や学問の領域で世に認められていく。そのような第二・第三世代が留学生として日本に来ていた。
 当然ながら彼らの勉学意欲も能力も総じて高く、多言語をあたりまえに使いこなす力は驚くべきものがあり、それにもまして逆風にへこたれない忍耐力と、周囲の政治・社会状況への関心の強さが記憶に残った。おとなびていて逞しく、長期展望を備えた侮るべからざる人々という印象がステレオタイプの核となった。
 ただしこれは1980年代におけるタイやマレーシアの中国系移民から受けた印象であり、2020年代の中国本土からの来朝者にそのままあてはまるはずのものではない。分っていてもついつい色眼鏡をかけそうになり、それでは百害あるばかりだから、知ったかぶりのステレオタイプなどはいっそ捨ててかかった方が良いのである。
 その中間の時期に息子たちが学んだ中高の教室には、少なからぬ中国名のクラスメートがあった。彼らの多くは日本語を第一言語としていたが、ここでも総じて本人の能力と家庭の教育意識の高さが際立っていた。しかしこれとても中国系の人々の中に多様な家庭と個人がある中で、特定の傾向をもった人々と出会うべくして出会ったにすぎない。
 「海外に住む中国系の人々」と「中国に住む中国人」を一まとめにできないのも、当然ながら大事な要点である。

 以上つまらない前置き、以下トリビアルな本題。
 息子の元クラスメートの一人が「ルアン」君と言い、「阮」と書くのだという。
 『水滸伝』の登場人物に「阮小二」「阮小七」という兄弟があった。それにそうそう、嫌いな客が来ると白眼を向いたという竹林七賢の阮籍先生(210-263)がいたのだっけ。
 「「阮」で「ルアン」と読むんだね」
 「どういう意味の字だろう?」
 関心がそちらへ流れ、漢和辞典を書棚から引っ張り出した。濃紺の表紙を半世紀愛用しており、それというのが山形市立第六中学校に入学した時、若い女性の国語の先生が「国語辞典は岩波、漢和辞典は小学館」ときっぱり断言したので、さっそくねだって買ってもらったのである。奥付に「昭和四十四年二月十日 改訂新版十五版発行」とあるから記憶に間違いない。
 で「阮」を引いてみると、特に字義の解説もこれを用いた熟語もなく、「国の名」「人の名」とだけあって阮籍を含む四人の名が記されている。
 呉音は「ガン(グワン)」、漢音は「ゲン」、現代中国語では ruan、なるほど。
 「この記号は何?」
 と息子が指さしたのは、ruan の横に「上」の字をマルで囲んだ略号である。問いに促され、辞書購入から54年にして初めて凡例を確認し、目を見張った。
 「上」は「上声(じょうしょう)」、いわゆる四声の第二声である。
 今日ではもっぱら一声から四声と呼ぶが、これが確定するにも長い歴史があったようだ。経緯を考えると対応も単純ではなかろうが、標準的には第一声(平声・ひょうしょう)、第二声(上声・じょうしょう)、第三声(去声・きょしょう)、第四声(入声・にっしょう)とされ、漢和辞典はこの「平・上・去・入」で発声を示しているのである。
 平声を除く他の三者をまとめて仄(そく)声と呼び、平声と仄声で平仄(ひょうそく)である。漢詩では脚韻を合わせねばならないから、平仄は是非とも必要な情報。「平仄を整える」といった表現がここから生まれ、転じて「つじつまを合わせる」意で用いられるようになったと、恥ずかしながら初めて由来を知りました。
 
 「「ルアン君」ってシッポを下げてたけど、上げなきゃいけなかったのか…」
 と息子の慨嘆。
 こちらは手許の辞書をあらためてしげしげと眺める。掌に載るこの一冊の中に、どれほどの情報が充ち満ちていることか。
 国語辞典、古語辞典、漢和辞典、三冊あればおよそ退屈することはあり得ない。おっともう一つ、語源辞典も加えておこう。
 とりわけ「ひらがな言葉」の来歴を知るのに、古語辞典だけではどうも足りないようなのである。
Ω