『ザクロとザグロス』(↑)に続けて…
2023年1月10日(火)
ザクロの名がザグロス山脈に由来するとの説は、確かにこの植物のエキゾチックな魅力を増すのだけれど、実はこの名が少々苦手である。
「ザ・ク・ロ」という音は日本語として決して穏やかなものではない。「ザ」はどぎつく、「ク」はくるしく、「ロ」はなまなましく、三つ並べば「ざっくり割れたドクロ」といったおどろおどろしい連想さえ浮かんでくる。
実際、柘榴の実の一粒一粒は赤い宝石のように美しいけれども、果実の断面は鮮血のにじむ創傷面のように見えなくもない。それだから十字架の受難の象徴にも選ばれたのだろうが、「ザクロ」という音はオノマトペの臨場感をもって、酸鼻の印象を突出させてしまう。別の名で呼んでもよいのなら、実を手にとるのがこれほど悩ましくはないだろうに。
***
書き始めたついでに書ききってしまおう。
昨年の誕生日にS姉の配慮で、蔵書印など印章のセットを贈られた。篆刻家として活躍中のYM姉が手ずから彫ってくださったもので、わが身には不相応な逸品である。御尊父は書の達人で、礼拝の説教題を掲出してくださったものだった。まことに血は争えない。
これがその印影である。篆刻の素晴らしさは十分伝わるかと思われるが、写真撮影の難しいところで実は少し不満がある。色合いが違うのである。上掲の画像ではザクロの実に近い鮮紅色に見えるが、実際はもっと黒っぽいのだ。くすんで底深い迫力を感じさせる色である。
印鑑とあわせていただいた印泥が下記のもので、繰返すが実際はもう少し黒っぽい。そしてこの黒っぽいところに大事な意味があると思うのである。
なぜかというに…
何度か押印して紙上の色あいを見さだめ確信した。この色は、血の色を模したものに違いない。
血液は鮮紅色との思い込みは広く浸透しており、TVドラマで人が刺される場面などでは、橙に近いほどの明るい朱色がぶちまけられたりする。確かに動脈血は鮮紅色だが、人体内でも静脈血は暗赤色である。そして体外に流れ出した血液は、固まるにつれ茶色に近い暗褐色に変わっていく。とりわけ紙の上に定着した血液の色合いを、印泥は模したのであろう。
その昔、血判というものが存在した。本朝では武家の興隆と共によく行われ、大坂冬の陣の和睦にあたって家康の押した血判を、豊臣方の木村重成が「薄い」と抗議して押し直させたのは、作り話にしてもよくできている。
中国ではどんな歴史があるか寡聞にして知らないが、誓いなり盟約なりを命にかけて守る証しとして、血で印を施すのは原初の自然な発想であろう。こうした行為における血液の代用物として印泥が誕生したと考えるのは、これまたいかにも自然である。
印泥が朱という色のめでたさと華やかさに傾ききることなく、鮮紅色よりも暗褐色に近い不吉な色あいを含んでいるのは、血の誓約という本来の意味への忠義立てによるものだ。偽誓は血で購うという暗黙の了解が、押印という行為に深い意味を与えてきたのである。
その意味が、いま見失われつつある。
***
押印は近現代のわが国において、社会人としての誠意と責任を象徴する役割を担ってきた。成人し、あるいは社会に出る祝いとして印章を贈られた者は、我々の世代にはまだ多かったはずである。(わが家の息子たちは、怠慢な親の代わりにS姉によってこの配慮を与えられた。)
書類を確認して印を押す、その瞬間には背筋の伸びる独特の感覚がある。発出しようとする情報に責任がもてるかどうか、自身に問いかける厳粛な瞬間である。その心理の奥底には太古に遡る血の盟約があり、祖霊に対する面目もまたひそかに意識されたに違いない。朱肉の色はその見える証しであった。
ペーパーレスにハンコレス、事務作業の合理化は歴史的必然であり、押印そのものの実態的意義は既にほとんど失われた。必然の流れに棹さす気は毛頭ないが、かつてハンコが担保していた責任の感覚もまた、ハンコと共に消え去りつつあることが憂慮される。
虚偽の記載、改竄、隠蔽、保存すべきものの廃棄など、およそ文書というものに対する敬意を欠いた行為が横行して止まないのは、ハンコレスの原因なのか結果なのか。
公文書から押印が消え去るとしても、私的な世界では変わらず楽しみたいものと、力をこめて印泥をこねている。
Ω