散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「離合」について

2017-12-12 10:23:50 | 日記

2017年12月12日(火)

 前から気になっていた彦根、先週土曜のブラタモリが訪問するというので見てみた。番組途中で案内役さんが「(城内の道は)狭そうに見えて案外広い、軽自動車なら楽に離合できる」とか言ったらタモリ氏がすかさず反応、尻馬に乗ったアナさんが「御出身はどちら?」などと訊いたりする。案の定、話者は福岡に縁のある人だそうで、要するに「すれ違う」という意味で「離合」の語を使うのは九州限定であって「標準語」ではないというオチである。

 僕には直ちに納得できない話で、なぜと言うに父が車を運転しながら「離合」の語を使うのを幼少時から聞き慣れていた。父は生粋の伊豫人である。10代の陸軍幼年学校時代に熊本、30代には転勤で福岡と、それぞれ数年にわたる九州を経験してはいるが、これは説明にならない。父の言葉と使用語彙はカッチリできあがったもので、「伊豫弁」「陸軍教育」「旧制中学から帝大に至る正統的な学校教育」の三者からはみ出す要素がほとんどないのを経験的に知っている。運転免許を取得したのは松山時代だから、九州の自動車学校で仕入れた語彙でもあり得ない。

 実際どうなんだろうとググったりした結果は、知恵袋の以下のやりとりが最もわかりやすくまとめてくれていた。

***

ID非公開さん2004/6/1118:48:03

車がすれ違うことを「離合する」と、私たちの地方では普通に言います。狭い道に「離合注意」「離合場所」という標識があったりもします。しかし、他の地方出身の友人は「離合にそんな意味はない。辞書にも載っていない。おかしい」と主張します。私たちの地方が変なのでしょうか?

ベストアンサーに選ばれた回答
ID非公開さん 2004/6/1119:16:34

標準語でしょ。広辞苑にも載ってますよ。
いっとき、九州の方言と噂がたったが、国土交通省の文書でも「対向車の行き違い」という意味で、出てくるよ。

(例)
道幅が狭く片側交互通行のため、離合をめぐりトラブルが頻発。
http://www.mlit.go.jp/road/koka4/4/4-88.html

一般国道385号の坂本峠付近は、幅員狭小及び線形不良のため、一般車の通行、離合に支障を来しています。http://www.mlit.go.jp/road/ir/jirei/higasi-sehuri2.html

などなど。

(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1389683)

***

 お見事というところで、2004年のやりとりを2017年に参照させてもらってるのが申し訳ない。ただ、この意味での「離合」が辞書で冷遇されているのは事実であり、大辞林(第三版)には記載がなく、広辞苑(第二版)には【鉄道用語】の注のもとに記載されている。鉄道・交通用語としては公認された「標準」語、ただし実際の使用は全国に浸透していないというところか。それでは実際どこまで浸透してるか、これを調べた愉快なサイトがちゃんと存在した。

 「「離合」は共通語じゃありません → じゃあどこまで通じるの?」

 これまたアッパレ、その鮮やかな結論を転載させていただく。

(http://j-town.net/tokyo/research/results/125093.html?p=all)

 上図に依れば、中国地方では広島以西、四国では愛媛・高知以西が使用圏と考えられ、それでようやく得心が行った。

 この種のトリビアは他意なく語れば楽しみそのものだが、「それは『標準語』ではない」と決めつける時の口調や表情に、価値下げ・嘲りの憫笑がしばしば混じるのがザンネンなのである。

Ω


小森さんはシャオソンさん

2017-12-11 17:20:00 | 日記

2017年10月27日(金)に戻って

 夏の終わり頃、いつもは乗らない路線で遠出の途次、若いアメリカ人旅行者の一団を見かけた。男性一人に女性二人、口角泡を飛ばして夢中で議論してるのが、どうやら「日本人と中国人をどう見分けるか」についてらしい。

 丸顔、目が大きい、背が高い等々、切れ切れに耳に飛び込んでくるのは、どっちのことを言ってるんだか。顔かたちで弁別しようたって、君たちそら無理というものでしょう。

  「んじゃ僕はどっちに見える?」と喉まで出かかったのを自重、その朝は少々エネルギーを溜めておきたい事情があった。

 ただ、この風景には懐かしいものがある。というのも20代半ばでマレーシアを旅行した時、僕はしょっちゅう中国人に間違えられ、ついぞ日本人と思われたことがなかった。しまいには土産物店の店主に「どこから来たように見える?」と、こちらから聞いてみたりした。そんな態度がそもそも「らしくな」いわけで「香港?台湾?」などと言われるのが相場、そのうち自分でも先祖は中国南部から来たかなどと妄想するようになった。

 1980年代初めの当時、まだ日本人旅行者はカメラをぶら下げて集団で行動し、仲間うちの日本語会話に引きこもる印象が強かったから、旅先で中国人と間違えられるのはむしろ誇らしかったのを思い出す。

 で、この秋。

 放送大学の「中国語Ⅰ」第一回を見て面白かったのが、日本人女性の小森さんをスキットで演ずる女性が徹頭徹尾非日本人的、完璧な中国語の発音を聞くまでもなく、この人ゼッタイ中国人と確信されることであった。これは何でだろう?「そら、無理」なことをやってる理屈ではないか。

 無理でも何でも違うと思うところを言語化すれば、骨太でがっしりした体つきはもちろん個人差として、背を伸ばして胸を張った姿勢が大きな一因のようである。授業が始まってみて、これがどうも中国語の発音と関係しているように思われた。中国語の発音というと四声のイントネーションの難しさをすぐ連想するが、それより難しく感じられるのは舌の使い方と呼気のコントロールである。強く激しく息を吐くことを知ったうえで、これを随意に和らげたり抑制したりする。まずは腹からしっかり息を吐くことが、いつでもどこでも出来ねばならず、自ずと背を伸ばし胸を張らざるを得ない。

 語学の講座に発音のお手本を示すために呼ばれている立場なら、とりわけその部分に力が入るのも自然なこと。そうでなくとも行住坐臥、言葉を発するたびにこの動作を繰り返していれば、基本姿勢もそれに応じて決まってくる理屈である。言語文化が人の生理的条件を逆に規定するということがある、その好個の一例と思われる。マレーシアでの経験も姿勢が一因だったならこれまた自慢だが、たぶんそうではないだろうな。

 ちなみに小森さんはスキットでシャオソンと呼ばれ、コモリではないのが面白い。こっちも「ペキン」の「シュウキンペイ」と言ってるんだからおあいこか。漢字というスーパーツールを共有しているからこういうことが起き、そもそも共有する素材のない疎遠な相手なら、小森はコモリ北京はペイチンで揺らぎがない。韓国・朝鮮は意図してその距離に遠ざかることを選んだもので、そのことの良さもあれば不便もあるわけだ。

Ω

 


赤と焦げ茶と阿蘇の山

2017-12-10 09:02:17 | 日記

2017年12月9日(土)

 久保なみよさんが九品仏のギャラリーで個展を開いておられるので、午後の暖かい時間に伺ってみた。通りに面した明るく快適な空間だが、オーナーは少し前に他界なさったのだという。遺志が生かされて開催に至ったことや、これまで使わなかった焦げ茶色を、これまたある人の遺した絶品の絵の具に出会って使ってみたことなど、宝物のような逸話をいろいろ聞かせてくださった。

 入って左側に大作、右側の壁には大小の作品群が飾られている。

     

 左のは、実際には幅1.5mぐらいある。布地かと思ったら、麻(あさ)で作られた紙だそうだ。右壁の作品群も、素麺の木箱の蓋に描かれたものや、もともと大きな紙に描かれたのを少々窮屈に枠に押し込んで画面が波打っているものなど、茶目っ気や思いつきがちりばめられて自由このうえもない。「阿蘇」がひとつのテーマになっているようで、たくましい稜線や火の国の激しさ、山焼きの黒の美しさなどが随所に描き混まれている。たとえばこれ、会場では90度横向きに掛けられていたが、実は阿蘇の風景なんだって。

 僕は下掲のものがすごく気に入って「ブックカバーにしたい」と言ったら、「どうぞやってみて」と笑顔でおっしゃった。それ、凡人には簡単じゃないんですよ・・・

 被災地やら海外やら東奔西走の間にいつ制作なさるのかと思うが、秘訣はここにあり。「今朝もちょっと描いて、乾くのを待つ間にここへね」と。本当に描くことがお好きで、暇さえあればいつも描いていらっしゃるのだ。時間は作るもので、人は本当にしたいことのためなら時間は作れるのである。ああ恥ずかしい。

 「最後の最後に、空中で、彼女はいちばん大切なことがわかったんだ」ゾルバがつぶやいた。

 「いちばん大切なこと?」

 「飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願った者が、全力で挑戦したときだけだ、ということ」ゾルバは答えた。

『カモメに飛ぶことを教えた猫』ルイス・セプルベダ/河野真理子(訳)白水社

Ω

 ※ 写真掲載について制作者の許可あり、深謝します。


冬支度

2017-12-05 00:14:52 | 日記

2017年12月4日(月)

 書きたいことがたくさんあるのは、多くのことが起きているからで、必然的に書いている時間がないというパラドックス。口惜しいが致し方ない。

 せめて写真、11月26日(日)幕張海浜公園にて撮影。黄金色の葉が微かな風の中をハラハラと落ち、思わず息を呑んだ。画面の左外に通りすがりの女性が一人、同様に息を呑んで立ちすくむ。ケヤキの美丈夫、凜々しくも冬に備えてあり。

Ω