2019年2月2日(土)
「いきどほる」は「息が滞る」の意。なので・・・
① 心が晴れない、不平を抱く
「いきどほる心の内を思ひ延べ」(万・4154)
② 憂える
「日夜いきどほりて」(垂仁紀・五年)
③ はげしく腹を立てる。憤慨する。
「わが所にこそ置くべけれとて、いきどほり申しける」(今物語)
(新選古語辞典・改訂新版、小学館 昭和46年)
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原義は抑うつ・鬱屈で、憤慨は遅れて生じた第三の用法だったのだ。「息が滞る」から意味が徐々に拡がるとともに、重心の在り処が移っていくのは、言葉の生き物らしさが感じられて面白い。
似た言葉でも「息詰まる」には「スリリング」という今日の用法が示されず、自動詞「息詰む」に、
① 息をこめてぐっとはりきる。力む。
「尿(しと)を息詰まば一定もろともにいでぬべし」(著聞集・興言利口)
② こらえる。しんぼうする。いきばる。りきむ。
という大同小異の二義が上がっている。
英語で breathtaking というにも感じの出た言葉だが、これは他動詞で「いきどほる」も「いきづまる」も自動詞だ。ここから何か言いたい人もあるだろうか。breathtaking はそれこそ thrillingly wonderful のことだろうから、現代語の「息詰まる」とほぼ同義とすれば、そちらが他動詞でこちらが自動詞なのは面白くはある。
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新約ギリシア語に εμβριμαομαι という動詞がある。エンブリマオマイという音からブリブリ怒ってる感じが伝わってくるが、これはまさにそのような由来で、「馬が鼻を鳴らして怒る」様をあらわす擬音から出ている。人ならぬ、馬の息である。よほど腹に据えかね、激しく怒る様をあらわすとされ、新約聖書中に2回 - 見方によってはたった1回しか出てこない。
正確に言えば、εμβριμαομαι に ① 憤る、② 厳しく命じる、の二義があり。①が2回、②が3回である。
②のうち2回は、主が全盲の二人の目を開き(マタイ 9:30)、あるいは重い皮膚病を癒した(マルコ 1:43)際に、誰にも言ってはならないと「厳しくお命じになった」という例の話に関わっている。よほど怖い顔で「ゼッタイ言うなよ!」と緘口を命じられただろうに、癒された嬉しさはこれをやすやすと破らせ、癒しの奇跡はあっという間に衆人の知るところとなった。神学的な意味はさておき、こういう約束破りなら笑いもできようというものだ。
あと1回は、女が香油の壺を割って髪でイエスの足を拭う場面(マルコ 14:5)に現れる。想像力を働かして読むなら、肉感性にいたたまれなくなる衝撃的な一場であること、以前話題にした。だからこそであろう、居合わせた何人かが「憤慨して互いに言」い、「厳しくとがめた」という、この「厳しくとがめた」が εμβριμαομαι である。
マルコは、300デナリオンもの施しの種を無駄遣いしたことに人々が怒ったのだと書いているが、これはおそらく焦点を故意にずらしている。人々が怒った、というより、これほどまでに驚き慌てたのは、女の捨て身の接近に別の危険を感じたから・・・とはどの注釈書にも書かれていないが、リアルに読めば一目瞭然と僕には思われる。対する主の応答によって、危険が女の側にでなく、見る者の側にあることが示された。あるいは、危険が現実に女から取り除かれ、見る者と読者の中に投げ込また、のではなかっただろうか。マタイの並行箇所では「憤慨」は残っているが「厳しくとがめた」は削除されている(マタイ 26:8-9)。マタイらしいどんな忖度がそこにあったか。
さて①である。この2回は一つの物語の中での反復使用であり、それで「見方によっては1回だけ」と書いた。該当箇所は下記。ラザロの復活、『罪と罰』の中で人殺しの主人公が「文字通り信じています」と予審判事に言ってのける、第四福音書固有の記事である。
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マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
(ヨハネ 11:32-39 )
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「心に憤りを覚え」(11:33)「再び心に憤りを覚え」(11:38)、これらが εμβριμαομαι だ。最大の奇跡を行う前に、イエスは涙を流し、怒りに怒ったのである。「心に憤りを覚え」というような行儀の良いものではない、馬が鼻を鳴らし脚で地面を打ち叩く、その激しさで怒りに怒ったのだ。何に対して?「死」に対してである。
簡単に、ほとぼりをさますものではない、もっともっと、馬のように鼻を鳴らして、憤らなければ。
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