散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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帰ってきます ー 補遺

2019-12-09 11:34:05 | 日記
2019年12月8日(日)

> 必ず戻って来る
> と、いう意味なんですね。
> 日本語独特?の他者視点の言葉、温かくて、大好きです。
> 被爆二世より

 出がけに「行ってきます」というのは、「行ってくる」つまり「出かけて行って/帰ってくる」という意味ですよね。特攻隊員は、出撃にあたって「行ってきます」ではなく「行きます」と挨拶したのだと、父から教わった悲しい歴史です。

 「行ってきます」が「出かけるけれども、帰ってきます」であるなら、「帰ってきます」は「帰るけれども、また出向きます」ということでしょう。「必ず」は私の力みすぎかもしれませんが、再訪する予定も意思もない場合に「帰ってきます」とは言わないはずです。

 なお、「帰ってきます」のイントネーションは、「-_ _ _ _ _ _ 」ではなく「-------」です。それだけの違いで呑気な朗らかさがぐんと増すこと、真に不思議でありますが、九州人の被爆二世さんには無用の註釈だったでしょうか。

Ω

帰ってきます

2019-12-07 10:05:35 | 日記
2019年12月7日(土)
 まずは母、ついで父のために来てくれている郷里のヘルパーさん、仕事が終わって去り際に必ず「帰ってきますー」と挨拶していく。「そんなら、帰って来ましょうわい」と尾鰭の付くときもある。
 「帰ってきます」というこの言い回しが、方言に支えられて温かく好もしい。仕事を終えて自身の属するところへ帰っていくのだが、忘れはしない必ずまた戻ります、その時まではという心がこもっている。

 これはまた別の話で、以前にも書いたかどうか、明治生まれの祖母(母の母)は農家の主婦であったが、
 「その明日(あした)驚いたら」
 などという表現を日常的に使っていた。
 「翌朝、目が覚めたら」
 という意味であるが、これなどは平安朝の会話から抜け出したような風雅が漂っている。伊予弁に限らず、古語・雅語が中央で廃れて方言に残る例は数多い。各々、土地の言葉は大事にしたいものである。翻って他人の田舎訛りを嗤う者は、その一事によって自身の品性の低劣を申し分なく証明する。

Ω

碁敵から返信のないこと

2019-12-06 07:39:13 | 日記
2019年12月6日(金)
 セキネさん(仮名)は、大事な碁敵(ごがたき)である。
 一回り上の酉年でいらせられ、自由ヶ丘の教室で出会った頃は彼が4段、僕3段。従って初対局はこちらの先、じたばた余計なことをして盤面5目負かされたのを今でも覚えている。
 その後こちらの技量が上がって彼が4段、僕5段。いくらか押し気味の対戦成績になったが、所詮ドングリの背比べ。それに碁というやつは案外マナーの問題があり、碁笥の中で石をガシャガシャかき混ぜるのやら、口の悪いのやら、負けっぷりの汚いのやらいろいろで、気もちよく打てる相手は必ずしも多くない。その点セキネさんは常に温厚で礼儀正しく、投了の際に「負けました」と胸を張るのが潔い。江戸時代の古棋譜に関心あるのも気が揃い、こんな碁敵はなかなか得難いものである。
 近所の商店街にあった碁会所が、おかみさんの急な病没で閉じたのが三年前。そのお嬢さんがそれまで囲碁に関心もなかったのを、亡母の遺志を継ぎたい一心であれこれ画策し、私鉄3駅離れたところに囲碁カフェを開いた。これがなかなかの繁盛である。都合がつくとここで落ちあい、2〜3局打っては感想戦に花を咲かせるのが最近の貴重なストレス解消になっていた。

 ところが、

 先週来、そのセキネさんと連絡がとれない。何度メールを送っても、とんと返信がないのである。知っているのは携帯のメールアドレスだけで、電話番号も住所も分からないから打つ手がない。年賀状のために住所を請うたことがあったが、そういう俗な習慣はとっくに卒業済みとのこと、メールへの返信はいつも早くて確実なので油断していたが、こうなるとお手上げである。
 こちらの対局態度などにお気に召さないことがあり、それで見限られたのなら致し方ないが、70代単身で持病もあるようだから急な入院でもなさったのではないか、それだって軽症なら病院からでも返信しそうなもの、とてもとっても心配なのだ。
 今は固定電話をもたず、携帯/スマホ一つで世を渡る人が少なくない。いざとなったら電話番号を変えさえすれば、わずらわしい人間関係をリセットできるのが快適だし、そうまでせずとも着信拒否なり未読/既読スルーなりで安直に関係を整理できるという平成発のライフスタイル。それとは縁遠い律儀な昭和の御仁であることを、よくよく知っているだけに。
 セキネさん、どうか御無事で!
Ω


アフガニスタン

2019-12-05 09:42:44 | 日記
2019年12月5日(木)
 医師ワトソンがシャーロック・ホームズに初めて出会ったとき、いきなり「アフガニスタンからお帰りですか?」と図星を指されて呆気にとられる場面がある。後に明かされる推論の過程はホームズに言わせればごく単純なもので、「英国軍医がこんな苦難と腕の傷を被るとしたら、その場所は一体どこか? 明らかにアフガニスタンだ(Clearly in Afghanistan.)」というのであった。
 アメリカがベトナムの泥沼からようよう手を引いたのもつかの間、1979年に今度はソ連がアフガニスタンに侵攻して10年越しの泥沼に陥り、あげくに失敗した。宿敵アメリカの失敗に学ばぬ「第二のベトナム」と揶揄されたが、その頃のたぶん天声人語に上記の場面が紹介されたことがある。ベトナムどころではない、19世紀から難しい地域だったというのである。
 中村哲医師はそのアフガニスタンで腰を据えて活動し続け、そして殉じた。先に亡くなった緒方禎子さん(元・国連難民高等弁務官)と並べ、「アフガニスタンをいかに良くすべきか考え(て行動し)ていた二人を同時期に失った」との評が新聞の片隅に載っている。
***
 中村さんらの拓いた水路は、1万6千ヘクタール余の土地と65万人の命を支え続けているという。「薬よりも、まず清潔な水」という主張はあまりにも正しく、だからこそ水の確保が医者の仕事かどうかがあらためて問題になる。誰かがそれをしっかりやってくれるなら、医者は狭義の医者の仕事に専念しておれば良いし、そうすべきであろう。しかし現実はそんな状況にないことを自分の目で確かめ、中村さんは命がけで「水」を求めた。
 同種のことは至るところにあり、日本の日々の現実の中にもある。身体の健康を守ろうとする場合に、薬よりも何よりも水が優先とするなら、心の健康を守るために不可欠の、向精神薬より何より大事な心のインフラとは何か。それを確保するために、医者のできることは何なのか。
 中村さんの勇気と行動力は希有のものだが、その志は広く張った見えない根に支えられている。不滅の足跡に合掌。
Ω