ここ数日"ボランティアとは・・・"と言う事を考えています。
いったい何だろう?
原則「家庭や仕事、健康などを第一に考えてその後に余力が有ればする。」と言う事なのか?
「何かを少し犠牲にすれば人の役に立てる」ならばそれも良し。難しい定義なんか無い。
"やりたい人が""やりたい事をする"なのか?
少し身体は不自由でも出来る事が有ればしても良いのじゃないか?
私がボランティアで印象に残っているのは20年近く前だが、カナダの研修に行った時に病院でエレベーターでばったりレトリーバー犬を連れた人に会ったコトです。
今からホスピス病棟へ行くのだそうですが、どれだけ患者さんは癒される事でしょうか?その時に聞いた話です。「自分自身はがんでベッドから動かれない状態になりながら、それまでずーっと電話で励まし続けた、こころを病む患者さんに寄り添ってお話を続けて来られた」患者さんの話です。
又身体がほとんど自由には動かない友人も絵手紙をかきパソコンに取り込んだり展覧会をひらいたり、それをしっかりサポートする沢山の仲間がいたことを知りました。
≪ひとにサポートを受けてまで(これを人に迷惑を掛けてという)ボランティアをすべきではない≫という意見もある。
でも≪手助けしたい≫人のサポートを受けることによって作業する事が出来ればそれも許されるのじゃ・・・等々仲間内でも色々意見が出ました。
みんな楽しくて、やりたくて、生きがいとして一週間一回の心のリフレッシュとして参加しているチョボラです。
ランチの間も沢山話し合いました。
でもみんな大人ですから「仲良く・楽しく」やりたいものですねぇと言うのが一致しました。
我が家の鉢植えのさつきつつじが開き始めました。同じ植え込みのそれは最近上全体がチョキチョキと夫に切られてこうなりました。
昨日電話が入りました。「〇〇さんが亡くなられました。お通夜と葬儀は…ただしご本人のご遺志で香典・供物はかたくご辞退させていただきます」という伝言です。
「この間会った時にはそんなふうにも見えなかったのに・・・」と思わず言葉をのみます。
そう言えば2週間前の会では居て当然の彼女の姿みなかったなぁと改めて思います。
彼女とは同期でここ27年、結構会う事も多かったからお通夜にはどうしても出たいと思い、もうただ一人残った同期の友人にも電話するが連絡の取れないまま初めての道で不安に思いながら夕日に向かって葬儀場に向かいます。
家族葬を望まれたが彼女のお立場上そういったわけにもいかなかったらしく、葬儀場はイッパイの人だった。
殆どの方が「知らなかった。ショックです」と言われた。
祭壇には彼女の言葉として≪お世話になりました。有難う≫と書いてありました。
終わってご主人の幼馴染で兄弟同然だと言う和尚さんの、残された御主人に向けたお言葉が何とも印象的でした。
「〇子さんは生まれ持って来た”いのちの升”に苦労豆がイッパイに詰まりましたので御両親のもとへ還られたのです。」
帰りはナビの『自宅へ戻る』メニューで"直進・チョクシン”で走って最後の大通りを左折して「後700mで自宅付近です。ナーンだカンタン!
真っ暗な空に三日月と金星(?)のコラボです。