今日、神奈川4区市民連合と該当地区の日本共産党地区委員会の代表との「意見交換会」が行われました。会場に行ったら「日本共産党の政策を聞く会」になっていて? と思いつつ話に入って行きました。
(写真3枚をアップし、文字3行を書くまでかなりの時間を食いました、久しぶりの「iPad不調」のようです。
明日朝早いので「つぶやき」は明日に……、今夜は休みます)
今日、神奈川4区市民連合と該当地区の日本共産党地区委員会の代表との「意見交換会」が行われました。会場に行ったら「日本共産党の政策を聞く会」になっていて? と思いつつ話に入って行きました。
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明日朝早いので「つぶやき」は明日に……、今夜は休みます)
ワイコマさんのブログ
で岸田首相の発言について書かれているのを読んで、これをアップしたくなりました、
内容全体は読んでいただくとして、
日本の政治家の代表である岸田総理の「丁寧に……」について、『女性自身』編集部に座布団10枚を❣️
藤井聡太六冠が4年前、最年少新人王で「16歳、新たなる金字塔」を建てた時の雑誌「将棋世界」ですが、この雑誌のなかに、
この冒頭部分、
この部分と関口慎吾五段の「」部分の残りを含めて文字移しをしておきます。
五段に昇進して1年余り経った昭和15年9月、 棋士として昇竜の勢いにあった22歳の関口慎吾にも召集令状が届いた。皇軍の兵士として北支に出征する。
当時の将棋界は、相撲の双葉山と並び称された木村義雄名人の一強無敵時代。木村名人を目標に関口は研鑽を積み、順調に勝ち星を重ね続け、周囲から寄せられる期待も大きくなり始めていた。そのような時期に突然送られてきた召集令状は、憤懣遣る方ない気持ちだったろう。
同年12月号の『将棋世界』に「棋界勇士の面々」と題した、出征した棋士に関する記事があり、関口については次のように書かれている。
「関口慎吾五段は北支○○部隊に加はっている。さぞや、あの四角い顔が日焼けしたことだろう。弱冠22歳にして五段になった天才児関口はあの、香車躍らすが如き手振りを以って、突込め剣の奮闘をしているだろうと思ふと、こちらまでが武者ぶるひして来る」
この記事は特別連載「戦火に消えた幻の天才棋士関口慎吾六段」の〈2〉です。雑誌の前号が〈1〉でこの記事の終りに〈次号につづく〉とありますので明日図書館で関係の分を借りて来て、戦中に若い棋士たちが何に直面したか知ろうと思います。
今日「kaeruのつぶやき」を少しさかのぼって見る時間があり、鹿児島の知覧へ行った時のことを考えていたもので、このブログの新聞記事を見て紹介しました。
本文の文字写ししておきます。
「特攻は美しいものではない」。太平洋戦争中、 飛行機で2度出撃し、機体故障で帰還した元特攻隊員桑原敬一さん(88) =横浜市瀬谷区=は「私たちにとっては志願ではなく事実上の強制だった。弱い者が犠牲になる戦争を二度と起こしてはいけない」と訴えている。
桑原さんは東京で生まれ、岩手県で育った。1942年、16歳で海軍飛行予科練習生に。45年2月、兵庫・姫路海軍航空隊で白い紙片と封筒を渡され「特攻隊への参加を希望するかどうか書け」と言われた。拒否したかったが「命令のまま」と書いて提
出。指名されたのは、その2日後だった。「死ななければいけないんだ」。巨大な力で押しつぶされるような感覚に襲われた。
沖縄戦が激化した4月、鹿児島・串良基地へ。 先に出撃が決まった同期生から「まだ死にたくない。代わってくれ」と迫られた。何も言えなかった。同期生はこわばった笑みを浮かべて飛び立ち、戻らなかった。
桑原さんにもその時がやってくる。 5月3日、翌朝の出撃が決定。800㌔爆弾を積んだ艦上攻撃機に3人で乗り込み、沖縄周辺の米艦に突っ込むため離陸。涙がぼろぼろこぼれた。
ところが、エンジンから異常音が聞こえ、黒煙が出始めた。
種子島の飛行場に爆弾を抱えたまま不時着。串良基地に戻ると、上官から厳しく叱られた。
1週間後、2度目の出撃。飛行中に油が漏れ、再び種子島に着陸使える飛行機がなくなり、翌日、解散命令が出た。その後、赴いた台湾で終戦を迎えた。息子と対面した母は泣いて喜んだ。
「上官は出撃せず、 上官に目をかけられている人間は指名されなかった。強者が弱者を矢面に立たせることを実感した」
元隊員の体験談には特攻を美化したようなものが多いと感じ、84年に「串良 ある特攻隊員の回想」を出版、自分が直面した苦悩や絶望をつづった。「面汚し」と非難されたが、桑原さんはこう反論する。「勇ましい建前で陶酔することは簡単だ。だが、戦争はそんなもんじゃない」
このタイトル通り、現行憲法より私の方が10年歳上です。私の86年(今年の6月がきてからですが)のうち76年が民主憲法でその前は帝国憲法でした。
憲法学者として樋口陽一さんの名前に記憶がありましたが、私より10歳くらい上かと思っていましたら僅か2歳違い、同世代人です。話されていることに共感して、ここに⤴️しておきます、一読して下さい。
4月23日の田川市市長選の動画ですが、面白いのはここ、
字幕に「同じ場所に並んで」とあります。右端の「村上」は市長候補、3期目を目指す現職に対して挑戦した村上たくや候補。マイクを握っているのは市議選候補者21(定数18)名の1人、その左側7人も市議選候補者です。
動画全体は5分ほどです、ご覧下さい、
これは今日の「しんぶん赤旗」の折り込み、
こちらはその実景、
私は近藤昇一候補の出陣式に参加していました。
始まる少し前に近藤候補が寄って来て「挨拶を予定していた地元の人が間に合わない、代わって一言頼む」とのこと。「え!」と思ったのですが、アレを話そう、と。
アレとは11日の「つぶやき」の返信コメントのこれ、
ここの「任期」とは4年間の日数・1461日間のこと、1461日間に対して選挙運動期間は5日間です。議員にとって常時戦場とは言ってもお互いに相競い合う場はこの5日間であり、有権者はそこで投票という権利を行使するのです、そこがゴールなのです。0.3%、1000分の3を抜かりなく戦った者がゴールできるのです、という様なことを本当に一言述べました。
改めて考えると、
ゴールで「当選」というテープを切れれば、次の任期・1461日間に繋がります。ですからこの5日間は1461分の5ではなく「2922分の5」なのです、言い足りなかったと思い返しています。
近藤昇一候補は25歳で町議会議員になり、今回第12期目に挑戦してます。その間の通常選挙で2度苦い思いをしました。私はそのうちの一つの選対責任者でした、2011年の4月東日本大地震と重なったりのこともありましたが、何よりこの5日間の位置付けが弱かったのです。
次の年の1月町長選挙と同時の補欠選挙では、2議席に候補4人の選挙を選対責任者として務めました。通常選挙とは異なる規模の違いにどう応じるのかが問われ、そこを追及し切ることで2位当選で責任を果たせました。
特に町政をめぐる選挙は身近であるだけに、候補者と後援会等の組織の有り様が如実に出てきます。同時にそれが、国政選挙など「大きな」の選挙の元になっていきます。特に共産党の選挙には、「選挙で政治を変える」ことへの理念的確信が求められているのです、そこをどう切り拓き積み重ねていくか、明日からの入院生活の課題にしましょう。