秋立ちぬ、と昨日記したとき 「風立ちぬ、いざ生きめやも」 を思い出しました。
数年前、何かのきっかけでこの一行が思いだされ、目で確認したくなり、本屋で
立ち読みしたが見いだされなかったのです。
掘 辰雄の 『風立ちぬ』 の冒頭ちかくにあったこの詩的な一行が、ありません。
かなり読みすすめたが出てきません。買う金も持ち合わせておらず、たしか最
初のところで読んだはずだがな―、のまま過ぎていました。
その数年前よりさらに、五十年ほど前に読んだ時の記憶ですから、なにかかん違
いをしていたのかという思いと、読んだ時の印象から、間違いなく冒頭近くだった、
という確信も消えずにいました。
それは、青年期特有の人生の方向を見定めようとする時期、職場を辞めて新た
な生きる道をさぐろうと、東京駅からの列車を軽井沢で途中下車。 六月の小雨
模様の別荘地に向かい、まだ人の姿のない一軒の別荘の軒下で読んだ記憶の
なかにありました。
あるはずのところに無い、という謎は今回解けました。
立ち読みしたとき、目次の2ページ目を開いて、「風立ちぬ」 を読みはじめたので
す。小説 「風立ちぬ」 は5章に分かれていて、「風立ちぬ」 という章が三番目にあ
り、 その時、その章を小説「風立ちぬ」 だとして読みだしていました。
この一行は第一章「序曲」の冒頭近くにあったのでした。
どこかで、時間をつくり50余年ぶりかで読みなおしをしてみましょう。
青春の感受性が苔むしていなけれが、苔むしていたとしても緑を失っていなければ
読みなおしてよかった、と思うに違いありません。
秋であろうと、冬であろうと、いざ生きめやも、の思いを新たにしましょう。