「本のなかで会うー美濃部少佐」関連
( https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/ff83d3517cceab0ed2e9dce847898296 )
特攻を拒否した美濃部少佐
1945年(昭和20年)2月下旬、木更津の海軍航空基地で、連合艦隊司令部により作戦会議が行われました。
そこで、赤トンボと呼ばれた「九三式中間練習機」を特攻に投入することが発表されました。「全軍特攻化」ですから、練習機といえども特攻すると決めたのです。赤トンボは、翼はもちろん羽布張りの複葉機で、最大速度が200キロほどです。迎え撃つグラマンはおよそ600キロ。
零戦による爆装特攻でさえ、成功が難しくなっているのに、動きが遅く、防御装置もほとんどない練習機の特攻は、どう考えても、いえ、航空のプロであればあるほど、無意味であるとしか思えませんでした。が、集められた航空部指揮官達は、参謀長の言葉をただ黙って聞くだけでした。
すると、末席にいた29歳の美濃部正(みのべただし)少佐が立ち上がりました。階級として、この会議では一番下位の飛行隊長でした。
「劣速の練習機まで狩り出しても、十重二十重(とえはたえ)のグラマンの防御陣を突破することは不可能です。特攻のかけ声ばかりでは勝てるとは思えません」
制空用戦闘機と少数の偵察機を除いて、全軍特攻化の説明をした参謀は、意外な反論に色をなして怒鳴りつけました。
「必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!」
本によっては、参謀は「断じて行えば鬼神も之を避く!」と怒鳴りつけたという表現もあります。東條首相が大好きな精神力をあらわす言葉で、多くの司令官が使いました。問題は「精神」であって、技術や装備のリアリズムではない、ということです。
それに対して、美濃部正少佐はなんと答えたか。
私は箱根の上空で (零戦) 一機で待っています。ここにおられる方のうち、50人が赤トンボに乗って来て下さい。私が一人で全部たたき落として見せましょう」
同席した生出寿(おいでひさし)少尉が「誰も何も言わなかった。美濃部の言う通りだったから」と報告しています(『特攻長官大西瀧治郎』生出寿 徳間文庫)。
美濃部正少佐は、芙蓉部隊という夜間攻撃専門の部隊の隊長でした。厳しい訓練で知られ、「これができなければ、特攻に出すぞ」と部下を叱咤しました。
大西中将の部下でしたが、徹底して特攻を拒否、部下を誰も特攻に出しませんでした。その代わり、夜間襲撃の激しい訓練を積み、芙蓉部隊は確実な戦果を挙げました。
『彗星夜襲隊特攻拒否の異色集団』(渡辺洋二 光人社NF文庫)は、美濃部少佐の詳しい物語です。
赤トンボを特攻に出そう、と言う参謀に、こう言ったと紹介されています。
「いまの若い搭乗員のなかに、死を恐れる者は誰もおりません。ただ、一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義がいります。しかも、死にがいのある戦功をたてたいのは当然です。精神力一点ばかりの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい」
こう言うと参謀は「それなら、君に具体的な策があるというのか!?」と興奮しました。
美濃部少佐は唖然(あぜん)とします。参謀とは、作戦·用兵を立案するのが仕事です。いわば、作戦専門家の参謀が特攻攻撃しか思いつかず、一飛行長に代案を問うのです。その愚かさに気づいていないのです。
美濃部少佐はさらに言いました。
「ここに居あわす方々は指揮官、幕僚(ばくりよう)であって、みずから突入する人がいません。必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです? 失礼ながら私は、回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。今の戦局に、あなた方指揮官みずからが死を賭しておいでなのか⁉︎」
誰も何も言いません。
美濃部少佐は、話を続けます。燃料不足で練習ができず、搭乗員の練度が不足している、だから特攻しかないとおっしゃるが、私の部隊では飛行時間200時間の零戦搭乗員も、みな夜間洋上進撃が可能だと。
通常、600時間から700時間でようやく夜間洋上飛行は可能でした。200時間は驚異的な数字なのです。それでも、指揮官達は動じない振りをして悠然とタバコをくゆらすだけでした。ここで、それなら赤トンボで出撃して下さい。私が零戦1機で撃ち落としてみせます、という発言が出るのです。
けれど、このあとも練習機を含む「全機特攻化」は続いたのです。
それでも、美濃部少佐の存在と勇気ある発言は、海軍におけるひとつの希望だったと僕は思っています。あの時代に、「精神力」だけを主張する軍人しかいなかったわけではない、心の中で反論するだけではなく、ちゃんと声を挙げた軍人がいたんだと知るだけで、僕は日本人の可能性を感じるのです。
美濃部少佐は、死の1年前に著した私的回想録、『大正っ子の太平洋戦記』(2017年復刻版が出ました) にこう書きました。
「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎません。当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり、特攻またやむをえず、と今でも考えています。戦いのきびしさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではありません」
美濃部氏にとって、「不可能を可能とすべき代案」とは、夜間襲撃の芙蓉部隊だったということです。
この本を書く4年前、77歳の美濃部氏に直接会った保阪正康氏は、次の言葉を記憶しています。
「ああいう愚かな作戦をなぜ考えだしたか、私は今もそれを考えている。特攻作戦をエモーショナルに語ってはいけない。人間統帥、命令権威、人間集団の組織のこと、理性的につめて考えなければならない。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとはまったく次元が違うことも理解しなければならない」
「私は、若い搭乗員達に特攻作戦の命令を下すことはできなかった。それを下した瞬間に、私は何の権利もなしに彼らの人生を終わらせてしまうからだ。そんなことは私にはできないし、してはいけないとの覚悟はあった」(『「特攻」と日本人』)
美濃部氏があまり日本で知られていないのは、メディアに登場することを嫌ったからですが、それだけではないと保阪氏は書きます。
「特攻作戦という不条理のなかにあって、条理を守ろうとしたからである。条理の戦後社会からみれば、不条理下の条理はうとんじるべき存在でしかない」からだというのです。
この言い方は、実は僕はよく分かりません。「命令した側」が、その条理を嫌い、美濃部氏を話題にしたくなかったというのなら、よく分かります。特攻を賛美することで「命令した側」の正当性を主張する側からすれば、美濃部氏の言葉は急所に刺さった冷徹な論理の釘となるからです。