GWも終え、よい季節、良いこと考え、良いこと言いたい季節であります
3つの英文、習ったことがあるように思いますが、見比べて下さい↓
There is an old pond. A flog jumped into the pond. A made a splashing sound.(A)
An old quiet pond. A flog into the pond. Splash! Silence again.(B)
Old pond. flog jumping in. sound of water. (C)
Aは、説明っぽく余情が感じられない
Bはまだ賑やかな印象が
Cは、少ない言葉による表現が、芭蕉の句に似た質感が
Cは小泉八雲の英訳であります
言葉に依存しない感覚、言葉の向こう側に存在するものを表現されていると感じます
俳句! 角々しいデジタルではなく、多様性に満ちた曲線によるアナログ的世界であります
俳句に関係するの本を2冊読みました
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笑う漱石 |
南 伸坊 | |
七つ森書館 |
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言葉で世界を変えよう 万葉集から現代俳句へ |
茂木 健一郎,黛 まどか | |
東京書籍 |
今回のお題は「アマルガムの国」
「言葉で世界を変えよう」からその難しい対談をメモしてみました
俳句ではなく日本文化の話になってしまいました
細かいニュアンスは省略、誰の発言かも省略してます
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アマルガムとしての国
※アマルガム (amalgam) は、水銀と他の金属との合金の総称である。広義では、混合物一般を指す。ギリシャ語で「やわらかいかたまり」を意味する malagma を語源とする。 Wikipediaより
明治維新以降、ヨーロッパの様式が日本に流入、我々の様式は西洋と東洋の板挟みになった感がある
洋服、和服という言い方
和と洋 日本史と世界史 と分ける概念?
古来日本と言う国は、時代時代で新しい価値観が外部から入ってくると、それまでの固有な形式がものの見事に寄り添い一体化を重ねてきた
このような民族は稀有だと言っていい
平城京は、大和の山河に中国が出現したようなもの
日本には古来神道があったが、平城京の象徴である東大寺にしてもインドからシルクロードをはるばる渡ってきた仏教の大本山であり、なんとも大らかな受け入れ方
日本はそうやって海外の影響を受けて呼吸してきた国であることころは、今も昔も変わらない
それも言語や生活様式の違う人々と付き合ってきた
いわば異なるものの融合体=アマルガムな国である
自由自在で柔軟、現代より外に意識が向いていたかもしれない
お互いの感性が、文化や知性の交わりを導いてくれる
たとえばアンパン
パンの製法 → 餡をパン種で包む → 桜の花びらの塩漬け添える と日本的なものに仕上げられた
人間の生命原理も同じような現象に支えられている
一国の文化が様々な影響を受けても最後にはうまく形成されているように、細胞の遺伝子配列の何らかの変化も、最終的には有機体として吸収されてしまうもの
だから我々はもっと思い切って未知の領域に飛び込むべき
有機的組織体の可能性が、目に見えないレベルで我々をしっかり支えてくれているのだから
一つの国の文化も、一人の人間の身体も生命原理に則った共通点があるということ?
どちらも本来、完成を持ったアマルガム
様々なものが混ざり合いながらも統一が失われない有機体だと思えばいい
リセット文化のもとで
世代の継承にリ・ジェネレーション(再生)が欠かせないように、生命には主体的な再生、及びリセットが必要
再生とリセットがセットになることで、命のつながりが見えてくる
この「生命」を「伝統」に置き換えてみればいい
遷宮はまさにリセット、水辺のお祭りもリセット、厄を水に流すのだから、
天神祭や雛祭り、灯篭流しや花火大会まで祭りにはリセット的な性質が象徴されている
そして旅、旅も小さな規模でのリセット
疑似的に生と死を体感しリセットするのが旅
これは日本の地質や風土にも関係している
というと?
大火や地震による強制的なリセット
大地震や火事であっという間にそれまでの基盤がなくなってしまう、という歴史を繰り返してきた結果、潜在的な無常観というものを日本人は持つようになった
松尾芭蕉が旅をし始めたのは、大火で江戸の庵を失った後のこと
芭蕉は火事によって無常を痛感し、それが漂白の日々につながっていった
逆に考えると、それだけ自然が豊かであるということ、日本は
照葉樹林文化の国であり、砂漠のような風土とは違って絶えず変化を繰り返している
ヨーロッパの石の文化圏においては、伊勢神宮の遷宮みたいなことは思いもつかないこと
今回気づかされたのは、春日大社は国宝や重要文化財に指定されているから“遷宮できない”ということ
そうリセットできない
重文、国宝という概念自体がソフトウェアに至らない、という現れ
伊勢神宮がいろんな意味で特別
重要文化財にも国宝にも、そしてもちろん世界遺産にもなっていないのにあれだけ存在感がある
つまり、別のカテゴリー
日本で最高峰のものというのは、実は重文でも国宝でもなくましてや世界遺産にもならないところにあるのかもしれない
我々はそういうものを自分で探し出して大切にしていかなければならない
自分自身のものさし、自分自身の目が必要
日常とはまた別のもうひとつの目、私の場合はは、俳句を詠む目がそれにあたる
日本文化の精神
他者を受け入れ、共存しながらそれぞれの特長を選びつつ生かしていく
いわば「神仏習合」という概念が象徴するところの「日本化の精神」である
神仏習合の対局にあるのが、「廃仏毀釈」で、これはかなり深刻な爪痕
明治維新の時の仏教排斥運動?
そう
1868年の神仏分離令をきっかけに、寺や仏像が広域で壊された
1875年に信教の自由が保証されるまでかなり混乱し、結果的に宗教に対する政治上位というその後の政治姿勢をもたらしてしまったとも言える
もともと日本という国に馴染んでいた混合的な態度とは、異なる
我々が「和」と感じていた古来のものは、ある種混合的な文化の集まりでもある
日本語も文字における“神仏習合”というか外来語を日本化させたクレオール的言語
御物にしても、外国から海を渡ってきたものがたくさんあって、それが日本の国宝にもなっている、実におおらか
現存するのが日本のみといわれている曜変天目茶碗
これも国宝だが作られた場所は中国福建省建陽市
徳川家伝来の名器として今の時代に国宝として残されているが、発祥地である中国にはもう残っていない
これは象徴的
つまり、日本人の美意識が高い目利きとしてはたらいた現象でもある
日本文化の源はシルクロードを通り、中国や韓国を経由して日本に渡ってきたものがほとんどであるが、日本に伝わるとそこに「型」が生まれ「道」となり、独自の文化芸術まで高められる
中国伝来のお茶が茶道・煎茶道になるように
「よりおいしく飲もう」「より美しく飲もう」という意識
それが日本人の天性
日本が海に囲まれた島国で、その先に伝えるところがない、どんづまり
いわば、どんづまり文化
これ以上伝える必要が無いので、エネルギーが外側ではなく内側に向いていく
そしてより精密で美しいものを追究しようとする
俳句はその極致
万葉集にはまだ漢文の影響が見られるが、俳句はすでに日本語独自の境地に至っている
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ということでした
この本でも取上げられている歌に触れ、数年前のある夜の出来事を思い出しました
タクシーの運転手さんと話していて、ある歌を詠まれたのです
そして運転手さん本を指しだし〇〇ページを開けろ、と
「天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」
その時のブログ↓
その運転手さん 和歌が好きで高校の時は「自分は天才だ」と疑わず
先生にも自作を自慢、先生もえらく関心し褒めてくれた、とか
ところが柿本人麻呂のこの歌に出会い「あかん、これは勝てん、これは越えられない」
と あきらめたとのこと
天~雲~月~星、海~波~船~林、そして人の動きと視線
地球と宇宙、自然の精神的なかかわりを言い得て、自分でもそんな表現をしたい衝動にかられます
でも運転手さんの様に自分には出来ないコトを思い知らされる、ちょっと羨ましい歌です
ブログ:橋長戯言:「Blue Moon」 2008.9.16
茂木さんも
天、海、雲、波、月そして星。僕はその文字列に釘付けとなり、しばらく目を離せませんでした。
小さい頃から追い求めているものが、歌の言葉となり、一つのリズムで流れていたのです。
と記しています
言葉という共有財産、自由に使える訳ですから大切に使っていきたいものです
ではまた