橋長戯言

Bluegrass Music lover, sometimes fly-fishing addict.
橋長です。

EHAGAKI #398≪日本の橋 その2≫

2020年07月02日 | EHAGAKI

前回に続いて「日本の橋その2」であります

橋長の「橋」
今回も面白くない気がしますが、よろしかったら眺めて下さい

昭和11年(1936)10月の文章です↓

地震のあと隅田川に架けられた近代的な橋は
近代文明橋梁の見本展覧会のやうである

永代橋

清洲橋

蔵前橋

駒形橋

言問橋

永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋といった名はみなよい名であるし
昭和二年に架橋された清洲橋など
美しい橋の一つであることは間違ひない

が復興建築の常として
周囲との調和や四辺との美観など
考へてゐる暇のなかったのも仕方ないのである

見本であったが誰もそれを不審とせず
杞憂した少数の人々の声といふものは
つねに当路者のまへで無下に退けられるのが
今の世の習慣である
といふことも充分に示された

ただ人々は不審とする代り喜んだ
私らも世情万般に不審とせぬことの方になれていった

命令をうけ教説をきく方になれた
このだらしなさは世の常の精神力ではおひ放ち得ないらしい

都人はこの田舎者を驚かすに足る
立派な近代橋を誇り喜びもしたが
今なら、朝夕に見又何心なく渡るだらう

これは

保田與重郎著「日本の橋」
からの抜粋です

急ごしらえ、デザインが街並みにあっていない
文句を言っても聞き入れられず、方針通り
人々は文句ではなく喜んだ
自分たちで考えず、命令される方に慣れる
見慣れてくると何も感じない

2.26事件のあった昭和11年
当時の世間の見方と反応は、現在にも通じる?

怖いです
「自分で考える」ことが何より大切である
と愚考する次第です

さて、「橋」についてのあれこれです


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


◆2019年3月
中沢新一著「アースダイバー」より


江戸と明治初年頃の東京
隅田川に架かるいくつもの橋が
微妙な不思議感覚を掻き立てる
エッジとしての橋

浅草までは俗世であるが
隅田川がその俗世の縁であり
川向こうは違う秩序の支配する異界である

浅草と向島を吾妻橋がつないでいる
向島には深川や本所のような
れっきとした人間世界の広がっている

誰しも承知しているが
江戸や明治初期の人の想像力では
吾妻橋の向こう側は霞んでいる

橋の途中から、雲や桜華に覆われ
あたりをはっきり見分けることができない

想像力豊かな江戸時代の文人は
しばしば向島を、そのようなプチ異界として楽しみ
文章や絵にその不思議な感覚を描いてみせた

日本語の「はし」という言葉は、微妙に不安を誘うものがある
その言葉はもともとエッジという意味を持っている
ものの縁を「はし」と呼ぶ意味をこめ
川に渡して両岸をつなぐものを
「はし」と呼び「橋」という漢字で書くようにした

多くの西欧語で橋は
「川などで隔てられた二つの土地をつなぐ施設」
を意味する言葉で呼ばれている

橋のこっちと向こう
同じ人間の世界があり、向こう岸が
どこかへ消え無い安心感がある
石造りの頑丈な造りも安心感を誘う

こういう安心感が、日本語の橋にはない
それは世界の縁なので、向こう側がはっきり見えないのだ


橋を渡った向こうに
同じ人間世界を見出せるという確証はない
という語感が密かに込められている

華奢な木造の橋がほとんどだったせいだけではない
日本人の空間認識の特徴が
橋に「端」のような意味を持たせた

そのせいか橋を描いた日本画では
しばしば、橋の向こう側が霧の中に溶け入って
霞んで見えないように描いてある

そして霞んでいるところには
雲や花盛りの桜などが描かれる

日本の橋も
「川で隔てられた二つの世界をつなぐ施設」であるが
橋の向こう側は
想像力にとっては見知らぬ異界なのである

◆1936年10月
保田與重郎著「日本の橋」より

日本の橋は、道の延長であり、「はて」であった
極めて静かに心細く、水の上を超え、流れの上を渡る

何かに勝とうとする人工の企てではなく
自然と融け合い、素直な思いで彼岸に至る

築造よりも外観よりも
日本人は渡り初めの式を
世俗的に、象徴的に楽しもうとした

この渡り初め式は橋供養と共に
なつかしい民衆的風俗である


帝都復興、永代橋の架橋の時は
英国風な打鋲式を真似て、時の復興局長官が最後の鋲を打っている

日本の橋は材料を以て築かれたものではなく
組み立てられたものである

日本文化は、淡い思い出の陰影の中に
無限の拡がりを積み重ねて作られた

内容や意味を無くすることは
雲雨の情を語るための歌文の道である

心と心を架け渡す相聞の歌に
時代のはざまで亡びていった人びとの物語に
やがて朽ちゆく橋の哀しい調べを聞く



言霊を信仰した国である日本の美心は
男と女との相聞の道に微かな歌を構想した

日本の歌はあらゆる意味を捨て去る
雲雨の行き来を語る相聞

かりそめの私語に似ている
私語の無限大への拡大
それを一つの哲学とした

完成された言語表現が、完全に語られた散文形態が
人々の交流の用をなすか


言葉はただの意志疏通の道具でない

言霊を考えた昔の日本人は
言葉のもつ「祓いの思想」を知り
ことばの創造性を知っていた

新しい創造と未来の建設を考へた
それが「はし」であった
日本の古い橋は、自然の延長である

※相聞(そうもん)
互いに安否を問って消息を通じ合うという意味
雑歌・挽歌とともに「万葉集」の三大部立を構成する要素の1つ


◆2020年2月
中沢新一著、山極寿一著「未来のルーシー」より

環境省が「里山イニシアティブ」という
プロジェクトを外国に説明しようとして失敗
https://www.env.go.jp/earth/coop/coop/cai/pdf/satoyama_j.pdf

ここでは保護すべき核地域と
人間が住む地域のあいだにバッフア・ゾーンがある
それを里山と呼んでいた

しかし、それは間違い
本当は里山のほうが「主」

里山は人間がそこで獣たちと出会える場所
人間が家の材料などをいろいろ持ち帰ったりできる場所

獣たちもそこで人間と出会い
人間の所作を見て、人間が作ったものを食べ
人間に追い払われて自分たちの住処に帰る

ここが、われわれ日本人にとって「主」であって
人間の里はむしろ「従」

家で言えば、縁側があって、門口があって
そこで人々が出会って話をする

そういう場所はヨーロッパにはない
ヨーロッパではサロンやホールがあり
そこに人々が集まる広場やバティオがあって、そこに人々が座っている



日本の昔の家屋にはそういう場所があり
そこでは型が演じられた
作法や型というものが非常に重要
それを整えるための中間地点があった

ヨーロッパの言葉に置き換えると、インターフェース
2つの領域に接触している部分、接触面
それは2つの領域を薄い膜や細い橋でつないでいるという感覚

日本の場合はインターフェース自体が「主」になっている

保田與重郎は「日本の橋」で
日本の橋はヨーロッパの橋とは違うと指摘する

ヨーロッパでは、2つの世界が画然としてある
そして、そのあいだを頑丈な橋でつないでいる

ところが日本の橋というのは
エッジとして無と有をつないでいる

向こう側は人間の領域ではない世界
そういう間の世界につながっていく通路

それが「橋」である



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

保田與重郎氏の戦前の文章は
何回読んでも理解が足りず
メール的文章への変換に戸惑うばかりです

文芸評論家として分析と論考を書いておられる訳ですが
こんな熱いコトも書いておられます↓

私はここで歴史を云ふよりも美を語りたいのである
日本の美がどういふ形で橋にあらはれ
又、橋によって考へられ次にはあらはされたか

さういふ一般の生成の美学の問題を
一等に哀れで悲しさうな日本のものから展いて
今日一番若々しい日本の人々に訴へたいのである

ということでした

厳しい時は続きます
心の栄養補給は怠らない様、ご自愛下さい

ではまた

日本橋