秋らしい気候になって来ました
油断ならないCOVID-19には、くれぐれもご用心下さい
近頃、何かと話題の「日本学術会議」
その前会長、京都大学前総長の山極寿一氏
「私がきちんと交渉すべき問題だった」と言っておられますが
ま、その話は脇へ
ここ1年ほど、山極寿一氏の本をよく読んでます
それも対談本
対談本は、入門書の様に物事を解かり易く語り
それを編集しているので理解しやすい訳です
山極
「縁側」というのに、ちょっと似た話が「西田哲学」 にもある
西田幾多郎は大乗仏教から学んで
西洋の論理とは違うものを考え出した
「それを引き継いだ西谷啓治(1905~1990)という
西田幾多郎のいちばん弟子がいるんだけど彼は
【「と」の論理】というものを言い出した
と、西谷の弟子の池田善昭さんが語っています
(福岡伸一・池田善昭著『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店)
ということで、その対談本も読んでみました
今回のお題、元ネタは「虫とゴリラ」
養老 孟司、山極 寿一(著)
毎日新聞出版(2020/6/2)
https://amzn.to/37gsK1O「福岡伸一、西田哲学を読む」
生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一
池田善昭、福岡伸一(著)
明石書店 (2017/7/7)
https://amzn.to/31k06ck
であります
今回は「本人というノイズ」
そして次回は
「包まれつつ包む」
~壊すことが唯一、時間を前に進める~
なんてコトを予定しております
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
対談本ですが発言者は省略しています(メモがあやふやだったので)
まず、データを見る
それを最初にやったのは「医学」です
もう三十年前には、東大医学部はそれになっていた
患者さんを把握するのは「検査の結果」 であって
「患者本人」ではない
血圧だってカルテの中
目の前にいる患者の血圧はもう変わっているはずが
そんなこと、誰も意識しない
「あ、これ、高いですね」
年寄りが文句を言い始めて
「先生に診てもらっても、 顔を見てくれないんです」と
私(養老先生)のところに文句を言いに来ていた
銀行で手続きしようと思ったら
「養老先生、本人確認の書類をお持ちですか」
「私、免許を持ってないので」
「保険証でもいいんですけど」
「ここ、病院じゃねえだろ、 保険証なんて、持ってこないよ」
と言うと、銀行員がなんて言ったか
「困りましたねえ、わかってるんですけど」と言った
本人だと「わかってる」けど、本人確認の書類が要る
本人がいても、本人確認の書類が要る?
本人とは何だろう?
それからしばらく悩んだ
すると、窓口の奥で、課長ぐらいのやつが
「新入社員がメールで報告してきやがる」
とか、話している
「あいつら、同じ部屋で働いているのに
同僚同士もメールでやってるらしい」
それで気がついた
つまり本人に会いたくない
情報に会いたいわけだ
本人に会うと、本人の「定義」ができない
本人をどう定義すればいいか
本人は「ノイズ」です
本人はシステムの中に入ってないから
患者の匂い、声の調子
そういうのはカルテには入ってない
現物を見ると、それを入れなくてはならない
するとそれが判断に影響する
それが嫌なんです
切り取りやすい情報で定義されたものが「本人」です
現物は違う
だから今やシステム化された情報世界の中に入っているのが本人
現物の本人は何か?
ノイズです
システムからは扱えないから
完全に人間が取り残される時代になった
自分の心臓、 肝臓なのに、他人のデータと照合されて
カルテに収まって治療台に上る
もはや自分の心臓じゃない
すべてを情報化してしまうと、全部、情報の断片になる
その情報の使われ方だけが経験値になって、そこから答えが出てく
すると人間という実体は?
「私がしたこと」によって評価されるのではなく
「他の人がしたこと」によって自分が評価されることになる
かつて日本では縁側だったり、里山だったり
常にあちらとこちらをフィルターしてくれるものがあった
両方の世界を支える「何か」がある
それこそが実は主体なのではないか
縁側というのに似た話が「西田哲学」 にもある
西田幾多郎は大乗仏教から学んで
西洋の論理とは違うものを考え出した
それを引き継いだ西谷啓治(1905~1990)という
西田幾多郎の一番弟子がいる
彼は「と」の論理、というものを言い出した
と西谷の弟子の池田善昭さんが語っています
(福岡伸一・池田善昭著『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店)
「と」の論理、とは何か?
A and Bこれを日本語では、「A と B 」と言う
すると、この「と」が
and という、違うものを並列する概念とは一変し
相互に関連を持つ
「A でもB でもある」
「A でもB でもない」という論理になる
西田の思想は「間の論理」と言われる
この「と」も間の論理です
西谷啓治先生があるとき
「池田君、考えなければならないのは『と』ということ
『と』ということを考えなさい」
と言われて、何のことだか?
存在「と」無
内部「と」外部
時間「と」空間
「君、時間も空間も問題じゃない。
問題は『と』にあるんですよ」
と言われて、さっばりわからない
「『時間と空間』というときの『と』というのは
時間でも空間でもない、時間と空間の『あいだ』、
『と』というものを考えてみなさい」
と西谷先生は言われる
時間と空間というのは、相反するもの
要するに
時間と空間というのは
「次々に起こる存在の秩序」というもの
と同時に
「存在する秩序」のこと
※橋長注:何が要するにやねん!
このことを説明するために
僕(池田)は
「包む・包まれる」
あるいは
「包まれつつ包む」
という表現をしばしば用いる
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ということでした
意味不明な世界に向かいながら今回は終えます
次回は「包まれつつ包む」
小さな世界で起こっている
「壊すことが唯一、時間を前に進める」
という現実についてであります
さて、油断ならない時は続きます
皆様におかれましても
心の栄養補給は怠らない様、ご自愛下さい
ではまた