道徳教科化へ指導要領改訂案 いじめ対応など6項目追加
2018年度からの道徳教科化へ向けて議論が活発化している模様です。
8年前の記事でも取り上げていた通り、道徳教育の推進は第一次安倍政権からの悲願でもあるわけです。2006~2008年当時はゆとり教育が始まったばかりで学力低下が大きな問題となっており、それに関連して家庭の教育力の低下、教員免許更新制、いじめ自殺の社会問題化など様々な教育問題が上がり、教育再生会議などでこれからの教育の在り方が盛んに議論された時代でした。その結果が現行の学習指導要領にも生かされているわけで、道徳についても「愛国心」など、内容についての見直しはされましたけど、結局この時はこの「道徳の教科化」までは実りませんでした。今回の決定には安倍総理の執念が見えますね。
では、教科化されると何がどう変わるのでしょうか。現在の学習指導要領の位置づけでは、教科、道徳、外国語活動、総合、特別活動というように領域分けがされています。小学校は全部教えますが、中学・高校の場合、外国語が教科に入り、英語の免許を持つ教員が教えるように、教科というのは専門知識、つまり免許を持った教員しか教えないわけです。一方、専門でなくても「全員が教える必要があるもの」が、教科でない領域という扱いになっていることが分かります。ちなみに高校では道徳を扱いません。また、教科になっているものは1人1人それぞれの観点で数値化された評価を出しますが、領域は教科も含め「所見」の中で文章評価するのが一般的です。つまり、道徳が教科になるということは、①道徳教育を専門に教える教員免許を新たに作る②数値化された評価を出すの2点において大きく変わるわけです。もちろん、それに伴って③指導要領に準拠した教科書が必要になるのは言うまでもありません。②は評価基準さえできれば現場の教師の手間が増える程度ですし、③はまあこれから議論を重ねて作っていくのでしょうけど、①は大学の専攻に関わり、不可能ではないにしろ相当な時間がかかるわけです。例えば数学教師になりたいと思えば大学の教育学部の数学科を受験するのと同様、近い将来は道徳教師になるために道徳科を受験し、4年間学ぶようになるわけです。また小学校は「小学校教諭」という免許なので基本的に全教科教えますが、当然大学では全教科に関する単位を修得していますから、いずれにしてもまず大学内で道徳の単位を与える学科や教授を養成する必要があります。一朝一夕では何ともならないため、第一次安倍政権の時には手が出せなかったのかもしれません。今回、「特別な教科」として導入を決めたのは、①に対する何らかの起死回生策を編み出したのでしょう。中教審の答申ではまだ確定ではないようですけど、まあ一応まだ4年あるし、学科新設を念頭に当面は免許更新のように講習会に参加する等、余計な時間を割いて対応するのだろうと思われます。
以前にも言及した通り、自分はこの道徳の教科化については複雑な思いをもっています。無論、どこぞの新聞のように「特定の価値観を植えつけ云々」なんて的外れな議論をするつもりはありません(笑)むしろ教育とはすべからく現時点で正しいとされる特定の価値観(評価規準)を植えつけるべきものですからね。
例えば算数だって、筆算では数字を縦に並べて計算しますが、別に横に並べたって計算はできるわけです。しかし横に並べた筆算を書くと×になるのは、「教えたことができていない」と評価されるからです。漢字やひらがなでも、低学年のうちは線がつく・つかない・出る・出ない・長い・短いなど、大人になってしまえばどうでもいい事でも厳密に採点します。また「上」と言う漢字は、戦前には書き順が定まらず「横縦横」と書いていた教科書もあったそうですが、今は「縦横横」に定められているので、一画目で横を書いたら×になります。このように、教科の評価基準は「正しい」と教えたことが十分にできていれば◎、概ねできれば○、努力を有するのなら△というように3段階あるいは5段階で数値評価するわけですが、それがどうも道徳には向かないような気がしてならないのです。英語も実は教科化が進んでおり、多くの学校で数値評価するようになっていますが、実はうちの学校では△がつく仕様になっていません。まあ道徳もおそらくそうなるでしょうけど、2段階しかも◎と○の違いすら曖昧になってしまうと思うからです。
例えば道徳の時間、盛んに挙手して発表し、内容も感想文も的確だった子が、影でいじめをしていたということはよくあります。小学校のうちは教科によって余り得意・不得意と言うものはなく、賢い子はどの教科でも大体良い成績を取ります。討論を取り入れたところで状況は変わらないでしょう。いじめなどでは、この「問題を起こす賢い子」の存在がネックになることが多いですが、そういう子の場合、教科道徳の評価としては◎にせざるを得ません。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。
まあこれも「特別な教科」ということで、評価についてはやはり文章記述しかありえないでしょう。特別支援の時は全ての教科・領域の評価が記述式で、通知票は1人につき2000文字を超える小論文を作成していましたが、それの道徳欄だけ書くような感じですかね。それだと結局通知票の手間が増えるだけで、別に領域のままでも良いような気がします。「特別な教科」と言うくらいですから、単なる手間を増やすだけでは済まして欲しくないのですが・・・
愛国心を初め、いじめ対応やネットリテラシーなど、時代に合わせた新たな価値観が生まれるのは当然だと思いますし、逆に変えてはいけない普遍的な価値もあるでしょう。道徳教育を充実させていくこと自体に対しては全く異論はありません。危惧するのは、こうして道徳教科化を進めたことで「対策はしたぞ」というパフォーマンスに終わり、根本解決されないまま末端の負担だけ増やしてしまうことです。当時の教育再生会議の特徴は、マスコミが教育問題について過剰に騒ぎすぎたために、こうした見栄えの良い政策に終始し過ぎてしまっている問題があります。この8年間、教員免許更新制の導入で不祥事は減りましたか?大臣の手紙を出していじめ自殺は減りましたか?特別支援教育で障がい児の対応は?体罰は?・・・まあ学力に関しては明らかに改善している手ごたえも数値も見られますが、コレは内容を増やすために時間も増やしたのだからある意味当然でしょう。もちろん、道徳の教科化によって劇的に道徳心が改善されるのであれば教師側の評価の手間など瑣末なことです。現時点でも道徳は結構大変で、徳目に合った資料を選んで準備したり、低学年では紙芝居やペープサートなどを工作したりしますし、数年に1度の道徳計画訪問とか人権教育とかで作る資料も膨大です。しかも折角作っても人の目に触れるような使い方はほとんどされないのが実情です。教科の指導もカツカツで、そのくせ大変な学校では“日々是道徳”という場合も少なくないでしょう。もしかしたら褒めようがない事態も出てくるかもしれません。人の道徳心と言うのは、そもそも学校だけではどうしようもない問題だと思いますし、道徳心がない親には、学校教育などそれこそ焼け石に水ですからね。
「さわやか3組」を見せて終わっていた子どもの頃が信じられないなあ・・・しかも忘れ物大王だった自分はその時間に書き取りとかさせられていたし(笑)
2018年度からの道徳教科化へ向けて議論が活発化している模様です。
8年前の記事でも取り上げていた通り、道徳教育の推進は第一次安倍政権からの悲願でもあるわけです。2006~2008年当時はゆとり教育が始まったばかりで学力低下が大きな問題となっており、それに関連して家庭の教育力の低下、教員免許更新制、いじめ自殺の社会問題化など様々な教育問題が上がり、教育再生会議などでこれからの教育の在り方が盛んに議論された時代でした。その結果が現行の学習指導要領にも生かされているわけで、道徳についても「愛国心」など、内容についての見直しはされましたけど、結局この時はこの「道徳の教科化」までは実りませんでした。今回の決定には安倍総理の執念が見えますね。
では、教科化されると何がどう変わるのでしょうか。現在の学習指導要領の位置づけでは、教科、道徳、外国語活動、総合、特別活動というように領域分けがされています。小学校は全部教えますが、中学・高校の場合、外国語が教科に入り、英語の免許を持つ教員が教えるように、教科というのは専門知識、つまり免許を持った教員しか教えないわけです。一方、専門でなくても「全員が教える必要があるもの」が、教科でない領域という扱いになっていることが分かります。ちなみに高校では道徳を扱いません。また、教科になっているものは1人1人それぞれの観点で数値化された評価を出しますが、領域は教科も含め「所見」の中で文章評価するのが一般的です。つまり、道徳が教科になるということは、①道徳教育を専門に教える教員免許を新たに作る②数値化された評価を出すの2点において大きく変わるわけです。もちろん、それに伴って③指導要領に準拠した教科書が必要になるのは言うまでもありません。②は評価基準さえできれば現場の教師の手間が増える程度ですし、③はまあこれから議論を重ねて作っていくのでしょうけど、①は大学の専攻に関わり、不可能ではないにしろ相当な時間がかかるわけです。例えば数学教師になりたいと思えば大学の教育学部の数学科を受験するのと同様、近い将来は道徳教師になるために道徳科を受験し、4年間学ぶようになるわけです。また小学校は「小学校教諭」という免許なので基本的に全教科教えますが、当然大学では全教科に関する単位を修得していますから、いずれにしてもまず大学内で道徳の単位を与える学科や教授を養成する必要があります。一朝一夕では何ともならないため、第一次安倍政権の時には手が出せなかったのかもしれません。今回、「特別な教科」として導入を決めたのは、①に対する何らかの起死回生策を編み出したのでしょう。中教審の答申ではまだ確定ではないようですけど、まあ一応まだ4年あるし、学科新設を念頭に当面は免許更新のように講習会に参加する等、
以前にも言及した通り、自分はこの道徳の教科化については複雑な思いをもっています。無論、どこぞの新聞のように「特定の価値観を植えつけ云々」なんて的外れな議論をするつもりはありません(笑)むしろ教育とはすべからく現時点で正しいとされる特定の価値観(評価規準)を植えつけるべきものですからね。
例えば算数だって、筆算では数字を縦に並べて計算しますが、別に横に並べたって計算はできるわけです。しかし横に並べた筆算を書くと×になるのは、「教えたことができていない」と評価されるからです。漢字やひらがなでも、低学年のうちは線がつく・つかない・出る・出ない・長い・短いなど、大人になってしまえばどうでもいい事でも厳密に採点します。また「上」と言う漢字は、戦前には書き順が定まらず「横縦横」と書いていた教科書もあったそうですが、今は「縦横横」に定められているので、一画目で横を書いたら×になります。このように、教科の評価基準は「正しい」と教えたことが十分にできていれば◎、概ねできれば○、努力を有するのなら△というように3段階あるいは5段階で数値評価するわけですが、それがどうも道徳には向かないような気がしてならないのです。英語も実は教科化が進んでおり、多くの学校で数値評価するようになっていますが、実はうちの学校では△がつく仕様になっていません。まあ道徳もおそらくそうなるでしょうけど、2段階しかも◎と○の違いすら曖昧になってしまうと思うからです。
例えば道徳の時間、盛んに挙手して発表し、内容も感想文も的確だった子が、影でいじめをしていたということはよくあります。小学校のうちは教科によって余り得意・不得意と言うものはなく、賢い子はどの教科でも大体良い成績を取ります。討論を取り入れたところで状況は変わらないでしょう。いじめなどでは、この「問題を起こす賢い子」の存在がネックになることが多いですが、そういう子の場合、教科道徳の評価としては◎にせざるを得ません。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。
まあこれも「特別な教科」ということで、評価についてはやはり文章記述しかありえないでしょう。特別支援の時は全ての教科・領域の評価が記述式で、通知票は1人につき2000文字を超える小論文を作成していましたが、それの道徳欄だけ書くような感じですかね。それだと結局通知票の手間が増えるだけで、別に領域のままでも良いような気がします。「特別な教科」と言うくらいですから、単なる手間を増やすだけでは済まして欲しくないのですが・・・
愛国心を初め、いじめ対応やネットリテラシーなど、時代に合わせた新たな価値観が生まれるのは当然だと思いますし、逆に変えてはいけない普遍的な価値もあるでしょう。道徳教育を充実させていくこと自体に対しては全く異論はありません。危惧するのは、こうして道徳教科化を進めたことで「対策はしたぞ」というパフォーマンスに終わり、根本解決されないまま末端の負担だけ増やしてしまうことです。当時の教育再生会議の特徴は、マスコミが教育問題について過剰に騒ぎすぎたために、こうした見栄えの良い政策に終始し過ぎてしまっている問題があります。この8年間、教員免許更新制の導入で不祥事は減りましたか?大臣の手紙を出していじめ自殺は減りましたか?特別支援教育で障がい児の対応は?体罰は?・・・まあ学力に関しては明らかに改善している手ごたえも数値も見られますが、コレは内容を増やすために時間も増やしたのだからある意味当然でしょう。もちろん、道徳の教科化によって劇的に道徳心が改善されるのであれば教師側の評価の手間など瑣末なことです。現時点でも道徳は結構大変で、徳目に合った資料を選んで準備したり、低学年では紙芝居やペープサートなどを工作したりしますし、数年に1度の道徳計画訪問とか人権教育とかで作る資料も膨大です。しかも折角作っても人の目に触れるような使い方はほとんどされないのが実情です。教科の指導もカツカツで、そのくせ大変な学校では“日々是道徳”という場合も少なくないでしょう。もしかしたら褒めようがない事態も出てくるかもしれません。人の道徳心と言うのは、そもそも学校だけではどうしようもない問題だと思いますし、道徳心がない親には、学校教育などそれこそ焼け石に水ですからね。
「さわやか3組」を見せて終わっていた子どもの頃が信じられないなあ・・・しかも忘れ物大王だった自分はその時間に書き取りとかさせられていたし(笑)