今日は棟梁とリピーターさんのお教室だったんだけれど、リピーターさんが来るなり、何か失敗しちゃって・・・って。どうやら自宅で進めたんだけれど上手く行かなかったらしいのね。それがはっきりここが変で上手く行かなかったって・・・。
これじゃダメですよね?って。もう既に自分で悪い場所も判っている。じゃ何で張ってしまって後悔するような事をしちゃったのか?なのね。要するに自宅で進めたい気持ちと時間があったんだろうね・・・すると、結果が上手く行かなかった。何故だろう?
それは簡単な話で見当外れみたいな言葉が適切なんだろうが、まずどうして数ある場所の中からそこを選んだか?って話。例えば予習復習って言葉があるじゃない?これって意味が全然違うのに横並びにして、まるで1つの言葉のように使うけれど全く意味が違うのね。
じゃニュアンスね・・予習と復習。上手い人ってどっちのイメージ?そして上手く無い人はどっちのイメージ?大抵は上手い人が予習で上手く無い人が復習な感じがしないかな?・・・多分ね。もしそうだとしたら、棟梁とリピーターさんなら、棟梁の方が上手い。
ならば、棟梁が予習でリピーターさんが復習って事になる。じゃリピーターさんは復習をしたのか?って事になると、これが教えてはいない場所をやったんだね・・・つまり予習になる。じゃどうして予習の方をやったんだろうか?って事になる。
それは進みたい気持ちと、もう1つの気持ち・・・それがここなら大丈夫と思ったから。じゃ何故そこは大丈夫と思ったのか?それは花では無く葉っぱだから・・・要するに花は作っていて難しい・・・けれど進みたい・・・葉っぱなら平気かぁ・・・って気持ちから。
つまりこんな気持ちから習った事では無い場所をやってしまったと思われるのね。しかし思ったようにならなかった・・・でも、先生からは剥がしちゃダメ・・・って言われている。だから後戻りが出来なくなった・・・でも気に入らない・・・。こんな感じ。
ここまで判っているのなら・・・と簡単に剥がして簡単に直したのね。数枚。以前は剥がす事を何とも思わなかったのね。しかし今日のリピーターさんは本当に剥がしちゃダメだから・・・と思っていた。きちんと気持ちとして守ろうとしていたのね。
その気持ちがあるのなら、きっとこの失敗はもうしないだろうから・・・それなら剥がす価値がある。だから直したのね。それを意味も考えずに直してしまっては、必ず同じ事を繰り返すからね。痛みと言うのは必ず是正に繋がるもので、痛みの無い事は繰り返す。
しかし、この痛みの度合いに寄っては、余り痛いと自宅でやると失敗するから、出来ない・・・に繋がってしまう。それが証拠に今日は花をやりたくない・・・って消極的になっていた事もあって、まずはリセット・・・だから落ち込んでいる気持ちの立て直し。
それが直しって事なのね。マイナスな気持ちが0まで戻れば、後はいつものようにチャレンジになる。そんな話で、そこから立て直してやりたくない・・・って言ってたものが、2つ花が出来たのね。これで元通りになった。さて、では棟梁は?となると・・・。
まるで同じ話かい?って位に、同じ話で、花の絵を描いて是正の4回目。すると、是正しましたぁ・・・どうですか?このセリフから、いかに資料を見て、今度は良いでしょ?先生・・・って感じが伝わって来て、見るのに期待が持てる感じ。
するとやはり描き込んであって、実に良く描けていたのね。しかも前回の是正のカラーはきりんとかネギと特徴が一緒って話で、首を長くして来たのね。ただ、ここを束ねて花束みたいな・・・ってしかも、束にしてきちんとでは無く、少しずらして、
かなりリアリティな設定の絵だったのね。確かに絵としては良く出来ていたのね。ただこの絵何処に入る?となった時、何処にも入らない絵になっていたのね。つまりただ絵を描くのでは無くて、そこにふさわしい絵を描くって事なのね。
すると、明らかにテンションが下がり、更に言えばやろうとした部分のパーツを切ったものを忘れた・・・ってマイナスな気分の上乗せになった・・・ただリピーターさんよりも上級者なのだから、当然上級者の立て直し方があると思うのね・・・。
しかも絵でつまづいたのだから、絵の話を納得理解を片付けていないと、また同じ失敗をする・・・ただ自分が今度こそって気分があったから、へこみ方は大きい・・・しかし、棟梁はめげずにこんな感じですか?って、ササッと付け加えたのね。
こらぁぁぁなのね。そもそも絵なんか無くても、この文章で本当に是正が出来るのか?となった時、ばかちぃぃぃんなのね。だって、是正4回の人はかなり資料とにらめっこして臨んで来たはずなのね。なのに、言われました・・・はい直しました。
こんなで是正出来るのなら、かなり絵心があり上手い人になる。けれど本人は上手く無いと言う以上、上手く無い人が資料も見ずにササッと描き直して素晴らしくなると思う?なるはずが無いのね。もっと言えば、見るに値しないはず。
そもそもがこの自分自身に見立てた天使やら、大事な犬や娘に見立てた生き物をこれだけ真摯に取り組んだモザイクのバックに使う花の絵・・・果たしてそんな姿勢で直した絵が似合っているのだろうか?まず絵なんかよりも取り組む姿勢。
恐らくだろうが、生け花やらお茶の世界なんてものも、取り組む人自身が生けたり、入れたりするもので、小手先の技術やテクニックやらよりも、生きる花を切ります・・・とか、貴方の為にお茶を立てます・・・って姿勢であって、ササッとはしないはず。
だからこそ、その取り組み方が作品は己自身って事になるのね。勿論、体験の人にそんなものはいらないから楽しければ良いのね。けれど、上手くなりたい・・・と思った時に、技術ばかりに眼が行くと、そう言う失敗を起こす。それを起こすのも自分。
大事なのは意識。意識やらそれを感じさえすれば、そこから行動は変わるもので・・・。要するに忘れちゃならないのは、そんな気持ちのモザイクに見合った花であって、カラーを上手く描けたら満足・・・って話では無いのね。
そもそもこの絵を描くのに、亡くなった犬の悲しみを背負い2年も掛かってしまったような絵なのね。そんな絵にふさわしいカラーの花になったか?と聞かれた時に、何とか・・・って位が丁度良いはずで、描けましたぁぁぁでは無いのね。
それとやりたい事とやれる事は違うもので、その違いの見極めの眼が必要なのね。それを描けたから進めるって気分なら、描けたんだから写して張りゃ良いじゃん。って話。何故、聞くのだろうか?となった時、共に納得する事で進むのであり、その進め方は、
お互いに納得した上で・・・であるから、きちんと説得出来る絵にすべきで、OKを出すのは簡単だけれど、こんな重いテーマの責任を半分背負うのだから、簡単にOKを出すよりも、それで良いんですか?・・・と再確認させて立ち止まらせる。
そんな事も必要である。こんな事の繰り返しだから、大作は誰にでも出来る事じゃないし、覚悟も必要だし、それを成し遂げた時、それが楽しいだけのモザイクじゃなくて、本気で取り組んだ結果が、人に凄いと言われると思うのね。
そんな中、自宅でバラのテーブルを進めたらしいのね。そこで楽しかったでしょ?と聞くと、楽しかったって。つまりそこには俺は必要無く、1人で進められていると言う事。と言う事は自由に進められるだろうし、左程考える事は無く、切って張るの繰り返し。
良い箸休めになる作品なんだけれど、そこが凄い話で、あの作品を気楽に出来るって・・・中々のつわものなのね。いずれにせよ、上手くなったのは事実で、上手くなったから若干厳しい事も言わなきゃなんなくなるのね・・・失敗はさせられないからね。
そんな後は、根付風味の小物・・・