今年初のお教室はキウイにお母さんにくじらの相席教室って事で、賑やかなスタートになったのね。そんな中、お母さんが時計を張り終わったのね。何しろあれだけの作品を作るお母さんが、こんなに切らなくて良くて、尚且つこんなに幅広く目地幅を取るこのスタイルにかなり戸惑っていたのね。
その理由はキチンとする基本通りが身に付いたからなのね。何でもそうだけれど、同じ事を繰り返して身に付けるって言うものが基本なのね。その時にそれが苦痛になって、そんなにこだわらなくても良いよねぇ・・・って進みたい人は、基本から外れる・・・つまりルーズなスタートの人になる。
このスタイルのままで続ければ、楽な気持ちで続けられるが、ではいつまでそのスタイルが続けられるか?になるのね。ただある期間を過ぎると、例えば第三者にいつからやっているんですか?・・・の問いに満足が出来なくなったり、勿論自分自身も左程進歩が無い事に気が付く瞬間があるのね。
それはひとえにキチンとが無かったからなのね。それが自由演技と規定演技の違いみたいな話で、例えば規定演技からスタートすると、古典落語からスタートした事になったりする訳で、基本から入る事になり、ピアノならバイエルみたいな事で、好きかどうか?では無くて、勉強の為のレッスン。
これで基本の動作や仕組みを勉強する事になり、それは知らぬ間に実践に活かされる。しかし弊害は自分で考える・・・って言う事からは離れてしまうのね。逆に自由演技の場合は好きにやればのスタイルだから、嫌いな事からやる人はいないだろうから、常に好きな事だけを選択する。
だから、常に自分の一番好きな順みたいな話で、では1作目、2作目・・・こうして作った時、軽く終わるものをどんなペースで作るのだろうか?となった時、アイデアなんてもんは湯水のように出て来るものじゃないから、天才なら言う事は無いが、必ず限界は来るもので。
それを色違いなんて事にして同じデザインを繰り返して大量に作るなら、それはそれで繰り返してそのパターンに慣れるなんて言う事もあるが、慣れるって事は飽きるって事でもあるのね。しかも安全であり、流れ作業のように能率効率で進む事になる。そしてそれが飽きたら次へ・・・。
所が、ちょっとでもこだわった事を考えると、腕が付いて来ないから、同じやり方しか持っていないのね。つまり簡単に言えば、クラッシュのみで作れば、何を作っても色だけ選べば良いってだけになるのね。それでは稚拙になるのね。それを上級って事になると、何を持って上級か?となると、
結局、モザイクって何だ?となると、下絵が一番大事と言うのなら、下絵を徹底的に練習すれば良いが、そこに時間を掛けて物凄い絵が描けるようになったとしても、その絵の通りに切れるか?となると、結局切れず本末転倒になる。しかし逆に切る事を徹底的にやったとすると、大抵の絵は切れる人になる。
つまりモザイクで切る事が下手って言うのは致命傷なのね。そして一番最低な事が色から入る事なのね。それは絵画と違って色は作れないから、業者が作った色の中での表現となるから、前者の2つから始めたとしても、結局自分の気に行った色が常にあるか?となると、ほぼ皆無に近いのね。
だから色から入ると、色の無さにすぐにつまづく事になるのね。こんな事を凄く感じるから、ここでは切るって事を一番大事な事として、教えているのね。そうすれば、最低限、何かに似ているものを作るって事になったら、下絵さえあれば出来る人になる。つまり楽譜、レシピがあれば出来る人・・・
ほら意外と普通に出来る人になったでしょ?って話。単純な話ね。モザイクをしに来たのに、絵に困っていたんじゃねぇ・・・でしょ?でも、これが、お母さんともなれば切る事はまず困らない。では何に困るか?となった時、ちゃんと、キチンとは基本に忠実に出来るから、ちゃんとしない事に戸惑う
それが目地幅を狭くする事なのね。そう思えば思う程、切る事に不自由の無いお母さんは、ピッタリ、きっちりに普通に入れたくなるのね。しかし、このタイルの特徴は不揃いな事で、ルーズな所が可愛いのに、きっちりではね・・・・。素材を生かせない。
つまりこのタイルの素材を生かすには、ルーズ感なのね。それがルーズ=目地幅だったりするから、ピッタリきっちりでは特徴を殺してしまう。所が気持ちがピッタリが普通だから、一体何処まで開けても平気なの?って思ったりしてしまうのね。ピッタリなら、考えずに切れるのにね。
本来ならそのピッタリを得る為にその基本に耐えられずに嫌になったりするのに、そっちが楽ってね・・・つまりお母さんはキチンと基本を持っているのだから、何処までルーズにこれは平気でこれはダメか?の判断のさじ加減を身に付ける事になるのね。けれど、何しろキチンとしたくなるのね。
だから戸惑うのね。いつもと違うから。そもそも下絵はいらない、好きな色を選ぶだけ、切らずに済む、そして目地幅は広い・・・全てが今まで説明した事であって、いつもの指導の全面否定みたいな感じになるから、忠実にして来たお母さんには苦痛って感じに考え込んでしまうのね。
所がどうだろうか?こうして張り上がったモノを見て、何処か不備があるだろうか?要するに制作者は四苦八苦している気分だったろうが、あのお母さんがこれで?って感じには見えないだろうか?つまり簡単に思えたりするのね。では逆にくじらの場合なら・・・

くじらはご存知のように、作家KATSUとの会話で自分とどう向き合うか?みたいな事を学びたいと思ってくれる人だから、モザイクを習いたい人とはちょっと違うんだけれど、流石に1枚も張らないとモザイク教室にはならないから、張って帰ってね・・・の人なんで、無理強いはしないのね。
だからお母さんのようには切れない。そんなくじらには、最低限、全部クラッシュみたいな事はせず、ヒレや尻尾だけは流れを作って、後は色だけ選択してどんな形でも良いから入れて・・・だけでここまで来たんだけれど、逆にくじらがお母さんの時計をやったら、えっ切らなくて良いんですか?
って感じで、もしかするとすんなり1回で張り終わるかも知れないのね。それはどちらかと言うと、切る事が苦手意識がまだあるから。それによって、切る事の苦手感が軽減されるから。それによって気持ちが大きく楽になれる。気って言うのは、こう言う事を差すのね。
方や切る事が上手いのに封印、方や切る事が苦手だから切らずに済むならラッキー・・・始める前から気持ちがこんなに違うのね。人ってもんは意識があるなしに限らず繊細なものなのね。気ってものはそう言うものなのね。そして目に見える事は、どちらがやっても、同じタイル、下絵はいらない
・・・ほらやる前から条件は一緒になった。つまり大きく違う技術は切る事なのね。だから、そこまで切る事が上手くなったら、下絵のグレードアップだったり、自分で考えるって言うオリジナルって事だったり、また1から・・・の気持ちで取り組む姿勢が無いと、へこむ気持ちになるのね・・・
今までこんなにやって来たのに、切らないのに上手く行かない・・・簡単に進まないってね。実は全て気持ちの問題だけだったんだけれどね。ただ、前回はかなりそんな事で気分が下がってしまったけれど、今回は前回のを半分見ながらだから、サンプルがある・・・って事。
一度サンプルの目地幅を見てしまえば、上級者のお母さんなら、もうそれをペースに何も言わなくても進めるし困らない。それが基本が身についている人だからなのね。一度決まり事が出来ればその通りの繰り返しは得意。ある意味、職人チックでしょ?だから上手く見えるのね。
常に決まってしまえば安定するから。それが決まりが見えないと、これで良いのかな?・・・と不安になるから。それがキウイになると、切る事は増々困らない。しかもこの位の目地幅、ここはこれ位・・・ってその都度の見切りの目がある。深追いもしないし、楽も選ばない。だから上手いのね。

つまり目が良いのね。目利きみたいなね。だから1つのパーツを例にすると、このパーツは絶対にこの形って言う場所は絶対にその形にする。仮に失敗したとしても、何度でもね。逆にこれは無理ってパーツを深追いしないから、心にダメージを受けない。しかもここはこれ位って抜く事も知っている
から、メリハリも利く。だから上手いんであって、キウイ位になると、恐らく今度は下絵に時間を掛けよう・・・みたいにモザイク以外の時間が大事になるだろうね。ただ今はしっかり資料を見ながらやっているので、かなり満足感で進めているとは思うんだけれどね。
まぁ三者三様だったけれど、新春1回目から、和気藹々だけれど、内容は濃かったとは思うけれど・・・。そんな後は看板作り。

明日は完全に張り終わる。
その理由はキチンとする基本通りが身に付いたからなのね。何でもそうだけれど、同じ事を繰り返して身に付けるって言うものが基本なのね。その時にそれが苦痛になって、そんなにこだわらなくても良いよねぇ・・・って進みたい人は、基本から外れる・・・つまりルーズなスタートの人になる。
このスタイルのままで続ければ、楽な気持ちで続けられるが、ではいつまでそのスタイルが続けられるか?になるのね。ただある期間を過ぎると、例えば第三者にいつからやっているんですか?・・・の問いに満足が出来なくなったり、勿論自分自身も左程進歩が無い事に気が付く瞬間があるのね。
それはひとえにキチンとが無かったからなのね。それが自由演技と規定演技の違いみたいな話で、例えば規定演技からスタートすると、古典落語からスタートした事になったりする訳で、基本から入る事になり、ピアノならバイエルみたいな事で、好きかどうか?では無くて、勉強の為のレッスン。
これで基本の動作や仕組みを勉強する事になり、それは知らぬ間に実践に活かされる。しかし弊害は自分で考える・・・って言う事からは離れてしまうのね。逆に自由演技の場合は好きにやればのスタイルだから、嫌いな事からやる人はいないだろうから、常に好きな事だけを選択する。
だから、常に自分の一番好きな順みたいな話で、では1作目、2作目・・・こうして作った時、軽く終わるものをどんなペースで作るのだろうか?となった時、アイデアなんてもんは湯水のように出て来るものじゃないから、天才なら言う事は無いが、必ず限界は来るもので。
それを色違いなんて事にして同じデザインを繰り返して大量に作るなら、それはそれで繰り返してそのパターンに慣れるなんて言う事もあるが、慣れるって事は飽きるって事でもあるのね。しかも安全であり、流れ作業のように能率効率で進む事になる。そしてそれが飽きたら次へ・・・。
所が、ちょっとでもこだわった事を考えると、腕が付いて来ないから、同じやり方しか持っていないのね。つまり簡単に言えば、クラッシュのみで作れば、何を作っても色だけ選べば良いってだけになるのね。それでは稚拙になるのね。それを上級って事になると、何を持って上級か?となると、
結局、モザイクって何だ?となると、下絵が一番大事と言うのなら、下絵を徹底的に練習すれば良いが、そこに時間を掛けて物凄い絵が描けるようになったとしても、その絵の通りに切れるか?となると、結局切れず本末転倒になる。しかし逆に切る事を徹底的にやったとすると、大抵の絵は切れる人になる。
つまりモザイクで切る事が下手って言うのは致命傷なのね。そして一番最低な事が色から入る事なのね。それは絵画と違って色は作れないから、業者が作った色の中での表現となるから、前者の2つから始めたとしても、結局自分の気に行った色が常にあるか?となると、ほぼ皆無に近いのね。
だから色から入ると、色の無さにすぐにつまづく事になるのね。こんな事を凄く感じるから、ここでは切るって事を一番大事な事として、教えているのね。そうすれば、最低限、何かに似ているものを作るって事になったら、下絵さえあれば出来る人になる。つまり楽譜、レシピがあれば出来る人・・・
ほら意外と普通に出来る人になったでしょ?って話。単純な話ね。モザイクをしに来たのに、絵に困っていたんじゃねぇ・・・でしょ?でも、これが、お母さんともなれば切る事はまず困らない。では何に困るか?となった時、ちゃんと、キチンとは基本に忠実に出来るから、ちゃんとしない事に戸惑う
それが目地幅を狭くする事なのね。そう思えば思う程、切る事に不自由の無いお母さんは、ピッタリ、きっちりに普通に入れたくなるのね。しかし、このタイルの特徴は不揃いな事で、ルーズな所が可愛いのに、きっちりではね・・・・。素材を生かせない。
つまりこのタイルの素材を生かすには、ルーズ感なのね。それがルーズ=目地幅だったりするから、ピッタリきっちりでは特徴を殺してしまう。所が気持ちがピッタリが普通だから、一体何処まで開けても平気なの?って思ったりしてしまうのね。ピッタリなら、考えずに切れるのにね。
本来ならそのピッタリを得る為にその基本に耐えられずに嫌になったりするのに、そっちが楽ってね・・・つまりお母さんはキチンと基本を持っているのだから、何処までルーズにこれは平気でこれはダメか?の判断のさじ加減を身に付ける事になるのね。けれど、何しろキチンとしたくなるのね。
だから戸惑うのね。いつもと違うから。そもそも下絵はいらない、好きな色を選ぶだけ、切らずに済む、そして目地幅は広い・・・全てが今まで説明した事であって、いつもの指導の全面否定みたいな感じになるから、忠実にして来たお母さんには苦痛って感じに考え込んでしまうのね。
所がどうだろうか?こうして張り上がったモノを見て、何処か不備があるだろうか?要するに制作者は四苦八苦している気分だったろうが、あのお母さんがこれで?って感じには見えないだろうか?つまり簡単に思えたりするのね。では逆にくじらの場合なら・・・

くじらはご存知のように、作家KATSUとの会話で自分とどう向き合うか?みたいな事を学びたいと思ってくれる人だから、モザイクを習いたい人とはちょっと違うんだけれど、流石に1枚も張らないとモザイク教室にはならないから、張って帰ってね・・・の人なんで、無理強いはしないのね。
だからお母さんのようには切れない。そんなくじらには、最低限、全部クラッシュみたいな事はせず、ヒレや尻尾だけは流れを作って、後は色だけ選択してどんな形でも良いから入れて・・・だけでここまで来たんだけれど、逆にくじらがお母さんの時計をやったら、えっ切らなくて良いんですか?
って感じで、もしかするとすんなり1回で張り終わるかも知れないのね。それはどちらかと言うと、切る事が苦手意識がまだあるから。それによって、切る事の苦手感が軽減されるから。それによって気持ちが大きく楽になれる。気って言うのは、こう言う事を差すのね。
方や切る事が上手いのに封印、方や切る事が苦手だから切らずに済むならラッキー・・・始める前から気持ちがこんなに違うのね。人ってもんは意識があるなしに限らず繊細なものなのね。気ってものはそう言うものなのね。そして目に見える事は、どちらがやっても、同じタイル、下絵はいらない
・・・ほらやる前から条件は一緒になった。つまり大きく違う技術は切る事なのね。だから、そこまで切る事が上手くなったら、下絵のグレードアップだったり、自分で考えるって言うオリジナルって事だったり、また1から・・・の気持ちで取り組む姿勢が無いと、へこむ気持ちになるのね・・・
今までこんなにやって来たのに、切らないのに上手く行かない・・・簡単に進まないってね。実は全て気持ちの問題だけだったんだけれどね。ただ、前回はかなりそんな事で気分が下がってしまったけれど、今回は前回のを半分見ながらだから、サンプルがある・・・って事。
一度サンプルの目地幅を見てしまえば、上級者のお母さんなら、もうそれをペースに何も言わなくても進めるし困らない。それが基本が身についている人だからなのね。一度決まり事が出来ればその通りの繰り返しは得意。ある意味、職人チックでしょ?だから上手く見えるのね。
常に決まってしまえば安定するから。それが決まりが見えないと、これで良いのかな?・・・と不安になるから。それがキウイになると、切る事は増々困らない。しかもこの位の目地幅、ここはこれ位・・・ってその都度の見切りの目がある。深追いもしないし、楽も選ばない。だから上手いのね。

つまり目が良いのね。目利きみたいなね。だから1つのパーツを例にすると、このパーツは絶対にこの形って言う場所は絶対にその形にする。仮に失敗したとしても、何度でもね。逆にこれは無理ってパーツを深追いしないから、心にダメージを受けない。しかもここはこれ位って抜く事も知っている
から、メリハリも利く。だから上手いんであって、キウイ位になると、恐らく今度は下絵に時間を掛けよう・・・みたいにモザイク以外の時間が大事になるだろうね。ただ今はしっかり資料を見ながらやっているので、かなり満足感で進めているとは思うんだけれどね。
まぁ三者三様だったけれど、新春1回目から、和気藹々だけれど、内容は濃かったとは思うけれど・・・。そんな後は看板作り。

明日は完全に張り終わる。