今日はウチの犬の杏さん教室から。そうね、もうただネモフィラを作るってだけなら、困る事は無い・・・って感じなのね。そうなると、大事になるのは、
これからのバックになるのね。この意味が一番判るのは棟梁なのね。例えば犬は写真があって、それを細部に渡って真似をしてここまで似せた。そして次は
ネモフィラとなり、最初は写真を同じように真似ていたが、段々と繰り返しで慣れると、もう見なくても作れるようになって来たのね。そんなこんなでこれから
バックになるんだけれど、何をどう真似る?・・・って同じ事を繰り返すのか?それとも・・・?ってなった時に、算数が数学になるような難しさと、いきなり
英語なんて日本語しか習って無かったのに・・・では、大きく戸惑うのね。そうした戸惑いの違いはあっても、似たようなもので難しくなるって言うのと、
全く知らなかった・・・って言うのでは意味が違うし、更に言えば、この違いに付いてどう思いますか?って質問は、自分なりの考え方であり、習った日本語
で答えられるのだから、誰にでも答えられるはずなのね。ただ、それがありきたりな誰もが使うような単語と文法では、ある意味全く意味をなさないのね。
例えば、肉だろうが、魚だろうが、ケーキだろうが何を食べても美味しいかまずい、そして普通・・・何かのアンケートか?って事になるし、ここでキチンと
答えられないと、そこに情緒なんて入って来ると、母の料理と奥さんの料理の違いだったり、子供が作ってくれた・・・なんて違いをどんな気持ち?って質問に
なったら、もはや算数は数学になるから、難しくて答えられなくなる。そもそも自己表現に大事なのは、そこそこの腕前って反復で身に付けたら、考える事
になるのね。ただ、ただ漠然と考えても答えは出ないのね。その時に、例えば上の方に空いたスペースがあるから・・・同じ色で・・・って感じに色で答えるって言うのは、誰でも答えられるのね。
それを段々薄くするなんて言うのは、醤油じゃ無くて減塩って言ってるようなもんで、誰でも考えられる事って言うのは、それじゃ比較対象があったら、腕の
良い人にはいくらやっても差は埋まらない。音楽もそうで、楽譜通り弾くって言うのも難しいけれど、出来ないのは未熟だからなのね。だから反復すれば、
ある程度、出来るようになるのね。ただ楽譜通り弾けるからって、曲が作れるとは限らないのね。漫才もそう。上手く台本通りに演じられるからと言っても
台本を書けるとは限らないのね。つまりその人その人の考え方1つで、大きく変わる部分で、それこそが個性になるんだけれど、上手くなったのは技術であり、
想像力、洞察力、観察力って言うクリエーターの力って言うのも、技術なのね。まぁ悪意を持って言えば、秋元康さんが素敵な可愛い歌詞を書けても、
全然本人が可愛い訳じゃ無いのね。じゃ歌っている可愛いアイドルが、可愛い歌詞を書けるか?って言う事になると、そうとは限らないのね。
話を戻して、つまりこの位の腕になったら、もう考える・・・って力が欲しくなるし、情緒なんて事になると、この動かないモザイクをどうやって動いている
ように見せられるか?みたいな感じ・・・この感じって言うのが考える事なのね。そもそももうこの犬はいない・・・だからこのまま終わると素敵な遺影。
それをもっと何か広げられるのか?となった時に・・・こうした考えるって言う事の初歩的な事が、例えば生きるって言う言葉に、楽しく生きるって楽しいを
付けて見たり、素敵に生きるとか、まっとうに生きるとか、全力で生きるとか、何かをプラスした時に大きく違う感じがしないか?って感じられるか?なのね。
たった数文字の違いでニュアンスは大きく変わるのね。例えば、生きるってたった3文字の場合、とてもシンプルで、この場合は、病気を抱えたような人が
最後に放った言葉・・・ってくらいに重みがあるとしたら、楽しく生きるって付けると、そんな人が言うと、残りの人生みたいな気持ちになるし、子供でも
育て終わったような人なら、自分達の余暇みたいな感じになるし、それが老夫婦が寄り添った写真なんて事になれば、何も無くても楽しく感じられるのなら
余分なものは要らなくなり、楽しく生きると言うよりも、楽しく生きたに感じる。そんなニュアンスを感じられれば、生きるは現在進行系だから、今楽しい
ってアイテムを入れ込む事で、過去を振り返った時に、あぁこんな事も合ったなぁ・・・って大体の歳すらも伺えたりもする。それを素敵に生きるって事になると、
例えば楽しい事だけを盛り込む事が素敵か?・・・辛い事は無かったか?みたいな事になると、砂糖を沢山入れると甘いだろうが、塩を入れる事で甘くするって
考え方もあるはず。それをまっとうに生きる・・・みたいになると、若干グレていた者が更生して行く姿だったり、カジュアルな服では無く、フォーマルな服の
ような感じがするだろうし、全力で生きるって言うと、若者っぽく感じるし、言葉の持つ意味合いと、第三者との感じ方の差が少ないと共有が出来るのね。
そうした時に、自分の思い描くものはどれか?って言うのが大事で、それを腕だけに頼ると、真似る事は上手くなっても、オリジナルには程遠いのね。
しかも打撃が良くなればなるほど、守備と比較した時に、同じ人物とは思えない程の差に見えるのね。何事もバランスがあるのね。このやり取りが棟梁は
かなり上達したと思うのね。それを俳句の先生のくじらなら、17文字で情緒を出せるのだから、その能力は凄いのね。しかしながら、モザイクで表現となると、
その力は見劣りする。まぁそう言う事ね。その基礎が良く言うシンプルなんて事になるんだけれど、冒頭の生きると、楽しく生きるでは、楽しくを付けた分
余分な事を入れた分だけ、じゃ何が楽しいの?って言う事を答えないとならなくなるのね。そもそも言葉で言えない事は、自分自身がまとまっていない証拠。
だからご飯を食べてからデザートって感じで、生きるを表現出来たら、楽しくを足す・・・みたいな足し算的考え方がシンプルで、棟梁のように足し算が得意
になったら、次は引き算。本当に必要なものは何か?・・・みたいに、考えるバリエーションって事になるのね。こんな事を普通の日常の会話でやる練習。
そうすると、細かいニュアンスを伝えやすくなるのね・・・お互いに。そんなこんなで杏さんも今年最後隣、明日の体験で今年もおしまいとなったのね。
そんな後は、実家の正月の準備をして・・・プチッと看板。