katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

リピーターさんと寅さん教室

2025-02-25 07:13:02 | モザイクタイル教室

今日はリピーターさんと寅さん教室の2本。まずはリピーターさんから。前回、張り終わっていたんで、事前に外枠のペンキを塗って仕上げていたんで、今日は

目地入れして完成したのね。これで35cm。そこそこ大きい作品だが、良くカットし続けたのね。以前ぺきぺきで犬を作った事があるが、今回の作品を経て、

新作の相談となったんだが、模様の繰り返しが気に入ったようなのね。例えば、模様と言うと幾何学模様とか、モスクとか、モロッコとかイメージする

ワードが出たりする。しかし、パッチワークなんて言うワードだって、模様の繰り返しってくくりなら仲間になる。良く新作の構想なんて事が苦手って言う人が

いて、この方も考えるのが好きじゃない・・・って。そうね、それなら数学みたいに考えるでは無く、算数くらいで考える事で済むようにアシストになる。

そもそも構想をする時に、そう言った苦手な人は何をどう考えようとするんだろうか?って言うと、完成した作品を思い描こうとするのね。いきなり・・・。

まず人に伝える時は、少し悪意が入る説明の方が身に沁みるのね。何故なら、人は都合の良い方を選ぼうとするし、自分に有利な解釈をしようとするし、

気が変わるし、方向転換をしようとする。これを防ぐには比喩としての例えを、フォーマルとカジュアルとでは全く違うし・・・と例えるのと、泥棒と警官

とでは全く違うしと例えても、巨人と阪神とでも、右翼と左翼とでも何でも良いのね。反対側にある・・・って例えだから。だからまず気紛れ、気が変わるに

しても、こんなに変わると趣旨が変わるから、それは禁止って言う覚悟が一歩目。これがいちばん大事な事なのね。ではここでどちらかに身を置く。

これが基本になる。その時に話を戻して、出て来たこの方のワードをまとめると、考えたくない、模様が好き、これだけ切れる、水色が好きそう・・・

って事になると、一度使ったデザインを繰り返せる模様は、この方に合っているし、簡単なのは、この作品を20cmの所から始めたり、コースター辺りの模様から始めたり、その丸の大きさを変えたものを何個も繰り返すのね。

大小さまざまな丸。それを壁に張り壁画にする。そうすれば溜まった時に張れば良いし、心変わりするなら辞めれば良いし、でもひたすら考えずに切り、

その日の気分の大きさを作れば良い。そうすれば何も考えずに進められる。では次は模様。わざと仲間にパッチワークを入れたが、そもそもここに違和感を

感じる人もいると思うのね。モスクやモロッコの中にパッチ・・・模様と言うくくりなら、何の問題も無いはずなのに・・・これが気付きの一歩目。

要するに違和感を感じた人は、数学に算数を混ぜたような気持ちになるのね。何かフォーマル側にカジュアルが入って来たような、格式が高い側くらいに、

高い位置側と考えると、パッチを低く感じるし、逆にパッチ側に立てば、気取ってて・・・って事になる。相交えない感じがするのね。こんな事を踏まえて

どっち側になるか?を決める時に、厄介なのは自分で決めるのに、反対を選んでしまった場合・・・まぁ大抵思い込みとかなんだけれどね。こっち・・・って。

何しろそもそもが考えるのが苦手。でも自分の事なのね。そこで確認をするのね。まぁファイナルアンサー?ってね。それは、一番最初にここに来た時に、

パンダ好きなんで、いつか上手くなってパンダが作りたい・・・って。そして犬もリアルに作った経緯。それは全く今は興味が無いですか?なのね。そこでもし

間髪入れずに、ハイって言うならパッチは捨てて。その時点で格式重視。余計な遊びは禁止。ひたすら繰り返す事、以上。後は好みの模様探しのみ。

所が丸より四角が好き・・・って言うのね。こうなるとパッチが外せなくなる。丸だからパッチを外したのに、四角だとまたパッチが削れない・・・

ん・・・じゃ、リアル気味のパンダを入れて、模様の繰り返しのパッチ風味。なんてやり取りが後半の話だったのね。ようやく方向性が決まったのね。

そんな後は寅さん教室。と言ってもカットTBの動物。

寅さんはカバね。これをやりつつ、さっきと同じような話になったのね。まぁ要するに構想って言うのは、自分自身を振り返り、何をどう考えて作るか?って

話だから、その考え方が身に付くと、それはこれから生きる・・・って話でも同じなのね。ここも伝える為の悪意で話せば、所詮趣味ごときの自分と向き合えないのに、これからの人生と向き合う・・・って。

練習も無しで、いきなり本番を迎えるの?それならそんなに結果を望まなくても良いじゃん。なるようにしかならないのだから・・・ケセラセラとでも。

でももし、所詮趣味では無くて、例え趣味でも・・・と取り組む姿勢を持つと、自分と向き合う練習をしているのだから、いつか自分の人生なんて言うのは、一番の構想しないとならない部分になるのね。しかも逃げ道無しでね。

寅さんは旦那さんを亡くし、1人の人生になった。でもそれを言ったら俺もずっと1人。確かに痛みのある内は骨折と同じで、支えが必要になる。だからかばう事になる。

じゃそれをいつまで続ければ良い?・・・そしていつまで気を使いかばわれ続けなければならない?そしてそうしてお互い楽しい?って話なのね。それを優しい人が

本当に優しくて、厳しい人は本当に厳しいのか?・・・常に自分の都合良くなるのは、相手が気遣ってくれるからであり、気遣ってくれるのは、相手もそう思ってくれているからの成立。でもそれがもし、可哀想だから、気の毒だから・・

と気遣っていたとしたら?・・・それって、自分が上の前提で、気遣ってくれているバランスであって、もし相手を上回る何か?を手にした時でも、同じ気持ちで続けられれば、本当にそう言う人だろうが、可哀想な人が可哀想でない人に

見えなくなったら不成立になったとしたら、可哀想だったらそうしてくれていた人だった事になる。つまりその人と仲良くし続けるのなら、一生可哀想な人

でいないと成立しない事になる。でも叱咤激励とは、激励もあるが叱咤もあるって事。今どきのコンプライアンス的に言うのなら、叱咤激励はご法度らしいが。

頑張っている人に頑張ってって言っては行けない、しっかりしろーって言っても駄目、じゃ安心安全プログラム通りに、定型文を心を入れて読めば良いのね。

本当に伝わるのかなー。ただ伝わるのならそれでも良いのね。それならロボット量産型スタイルだから、普通って言う人間製造なのね。ただもし自分らしい

生き方なんて、自分らしいオリジナルなんて考えているのなら、定型文、予定調和、コンプライアンス、どーでも良いのね。ただまず自分を知らないと。

例えば相方やツレが居なくなった。それが大きい存在と言うのなら、その人が100点なら今自分の人生はマイナス100になった。もしこのまま何の種も撒かずに過ごせば、歳を取るって事は老いる事だから、今出来ている事すら出来なく

なる可能性が高くなる。つまり亡くした、無くした、無くしたとマイナスを生きなければならないのね。しかも身の回りの人に家族があり、孫が出来、楽しく見えれば、見えるほど、その人と付き合わなければならなくなるのね。

そんな気分では、もはや不幸自慢しか出来なくなる。それで楽しい?仲良く出来るかな?いつかみんな1人になるのね。ただそれが自分の思っていた理想よりも

早いお別れが来てしまったのね。でもそれでも生きないとならないのね。その気力が無い人は死しか無いのだから。でもそうで無い側を選ぶのなら、不幸の

まま生きられる?そりゃ無理だね。そんなに気は張り続けられないから。そんな人が楽しい人生にしたい・・・って。そりゃ思い違いしてんのね。良く考える事なのね。

そもそもその言葉自体、ナンセンスに矛盾なのだから。こんな矛盾を目指せば、すぐに落ち込んで当たり前なのね。何故なら生きると、楽しいは正反対に

ある言葉だから。楽しいって何?・・・笑うとか、趣味とか、娯楽、旅行、音楽、体験・・・気持ちがスッキリ楽になるような事だと思うのね。

しかしながら、生きるって何?そりゃラクなんて人、あんまり見た事が無いのね。勿論、貧乏作家の廻りではそんな裕福な人はいないよ・・・って言うかも

知れないが、お客さんは貧乏とは限らないのね。でも普通に大人ならラクな人は何処にもいないのね。それがお母さんなら、毎日の家族の支度・・・

自炊をするようになって、益々大変さが判るし、世話をする喜びもあるが、生意気な事を言われる事だってあるし、ご近所付き合いだってある。勿論働けば

有能か無能か?で給料も変わるし、出世って言うランクも地位も変わる。みんな生きるって大変で辛いものなのね。つまり楽しく生きるって文章は日本語として

合っているような気がするだけで、全く間違っていたとしたらどうする?って話。勿論、それで楽しくなるのなら、信じる者は救われるだろうから、毎日

そう唱えてくれれば良いじゃないのかな。でももしそうじゃ無いな・・・って思う人が何かのきっかけにしてくれれば良い話で、つまり何を一番に置くか?

なのね。例えば間違えて一番楽しく、二番が生きるってすると、楽しければ成立するが、楽しくないと生きられない。でももし生きるを一番にしたら、何としても生きないとならなくなる。だって生き続けないと、楽しいの2番に会えない

から。つまり権利が無くなるのね。だって生きられないんだから。でもきっとここを切り抜ければ・・・って思えたのなら、そこに光はあるかも知れない。

でも楽しいを一番に置けば、ご飯を食べても、テレビを見ても、花を見ても、楽しくない・・・って思ったら、ご飯を食べて生きられる権利があっても、生きる

気力が無い。ここも気。つまり心技体で言うなら、心が折れている状況では、技も体も崩れるのは目に見えている。今、寅さんに大事なのは、今こそ気。

無くしたものが大きければ、1円ずつ取り戻さないと、でもそんな大金無理となる。勿論すげ替えるのなら、男の穴は男って考え方も良いし、お金で娯楽って

言うのも持っているのなら、それも良い。がしかし、もし該当するものが無いのなら、継続しているものが力となるだけ・・・。降って湧く訳無いじゃん。

今の俺には楽しさを伝える技量は無いが、生きる気力を元に戻すだけなら、それは誰よりも自信がある。だってそんなの自分が経験した事だから・・・

楽しいってのは娯楽、気楽、ラク・・・日々の生活に追われ、厳しい日常であればあるほど、効き目が即効性がある。つまり疲れなら湿布。でもそれが生活

・・・湿布しても楽しくない。だからそんな人は映画とか、美味しい料理とか、つまり五感の刺激。欲を満たすって事になる。ただ強欲だと、足らないのねー。何しても・・。

でも無欲だと、無気力な感じで、瀬戸内寂聴さんかーぃみたいになる。ただ人って欲があるから、食べて生きるだけじゃ満足しないし、何かをして気が滅入った事が晴れたとしても、また生きていると辛い事ばかり・・・。だからまた、

何かで埋める。でもその刺激も慣れると効き目が薄くなるから、趣味のお引越しぃぃってな事になる。ただ普通は日常の忙しさにかまけていれば、特に何も

しなくて良いのね。だって日常は常にやって来るから。家族がハプニングや楽しみを連れて来るから。そして伝統の催し物もあるし・・・お宮参りから葬式まで。

でも独りになると、それもみんな他人事。そして思い出に変わるのね。どうする?・・・ってだけなのね。だから、老後の種を撒く。老後に花が咲くように。

ただそれだけ・・・種を撒かなきゃ花など咲くかいな。しかも撒いたらしっかり面倒見ないと、世話って言うのを欠かせないのね。それは人も同じ。

生徒さんが枯れないように・・・でも冬はきっといつか終わる。だから春が来るまで備え方の指導。凍えて死んでは元も子もない。今持っているアイテムで

冬を乗り切るアイデアを考えないとね。俺はドラえもんじゃ無いから、アイテムは出せないけれど、知恵だけは負けずにある。・・・かもね。

信じる者は救われるのか?触らぬ神に祟りなしなのか?は、その人が決める事だからね。

 

 


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