今日は日曜日なんだけれど、珍しくキウイとお母さん相席教室。どうやら2人の予定が合わなかったようで・・今日になったみたいなのね。そんなこんなのお母さんはまず、時計の目地して完成。作っている最中は、思ったよりも張るだけなのに難しいぃぃ・・・と、かなり悩んでいて、当然悩みながらなんで
出来栄えに満足感は少なく、正直これで良いのかな?・・・って感じだったが、目地をして時計を入れるとあっ良いかも・・・の度合いはアップしたようで、何よりだったのね。まぁ目地をしたのと、しないのでは、かなり変わって来るし、その目地の色1つでイメージも大きく変化するのね。
理由は1つで目地幅が広いからであって、例えば1cmタイルに2mmの目地幅を開けたとして、方や4mmだとすると、単純に倍になる。この時にたった2mmしか違わないじゃん・・って人は、倍って言葉にも反応を示さない脳なのね。でもポイントが倍になります・・・なんて言う言葉に変えると反応する人もいたり
して、それでも変わらないって人もいたりする。いずれにせよ、常々言っている感じる・・・って事なのね。感じないと何も変化をもたらさないのね。そこで感じるからこそ、じゃこうかな?こうかな?と行動が変わるものなのね。ただ本人が意識無く、けれど脳は感じているから変化を求める事もあって・・
それが無意識なんて言う言葉になるのだけれど、実は本人が自分の脳に気が付いていないだけで、変化をさせようと言う気持ちがある脳だから変えようとしている訳で・・・もしそんな場合の無意識の結果に満足が出来る人なら、それは初心者みたいな人や、何をやっても器用な人だったりするもので・・・
こんな人の場合、別に受け入れる話じゃないけれど、何か不器用なのね・・・とか、言葉にした時に、何か変?なんて違和感を感じた時なんかに、必要な事だと思うのね。じゃ何で変?と感じたのか?・・・って必ず掘り下げる事。そこでお母さんの場合・・・何故か?になると、まずお母さんは今までの作品を
見た時に上手い人であると言う事。では何の何処が?上手いのか?となった時に、カットの精度やら、目地幅の均一性、慌てて仕上げない根気、色々とあるけれど、こうした言葉を並べた時に、共通するような事を浮かべると、大ざっぱや粗雑なんて言葉は一つも出て来ないのね。当たり前だけど。
でも、その当たり前に隠された罠があるのね。つまり精密であるとも言えないかな?ではそれを踏まえた時、このリップルってタイルの特徴は?色んな形があって、大きさもマチマチ、きちんとしていない側面・・・ほら何1つきちんとした所が無いのね。つまりいつものタイルのようにきちんとした寸法では
無いと言う事なのね。だからいつものルールでやろうとしている事から是正しないとならないのね。しかも単なるルール改正では無くて、今まで実績を積み重ねたお母さんを捨てて、切らない、時間を掛けない、形を揃えない・・・もはや苦痛でしか無い感じに追い込まれるだろうね。
ただ、こんな場合、何もかも捨ててはダメなのね。必ず1つは残さないと・・・折角積み重ねた事なのだから。その時に均等な目地幅・・・これを意識すれば、確実に意識無しの人よりも質が上がるのね。しかも、比べ無いと判らない程度にね・・・大ざっぱや粗雑とも思える形が均等な目地幅になる。
まっ、恐らく昨日の生け花的な発想だとは思うが、同じ流派の同じやり方って言うのは、伝統を重んじる。革新って言うのは、何も取り入れないと、粗雑にもなり勝ちで、着崩しのようなものは、全てを変えてはだらしなくなるだけなのね。何でも良い訳じゃ無いのね。
当然、こんな事はお母さんも判っているから、きちんと、ちゃんとしてしまうのね・・・だから目地幅もいつものように狭くしたくなる。あくまでそれは、1cmタイルやガラスタイルのような形のしっかりしたものを切り出した時の目地幅であって・・と言ったとすると、ぺきぺきだって・・・と、言い
そうだけれど、それも目地幅をピッタリ、きっちりする事で目地の色に影響されないスタイルだったのね。つまりそもそもがレロレロってラインのリップルの特徴を生かすのなら、そう言うラインが見える様な間隔が欲しくなるし、物理的に切らずに中心に向かえば丸い形に張るとなると、目地幅を開け
ないと張れないって話で、しかも最初は外側から張るから、目地幅はいつもの感覚でやろうとすると、この目地幅は耐えられない位広く感じる。そうなのね、全てが感じるって話なのね。どう感じているか?なのね・・・自分が。その意識が大切で、それをただこれが良いんだ・・・なんて思い込むと、
さていかがな結果になるだろうか?なのね。しかも相席がキウイ・・・かなりの腕前だと思うのね。ならこの幅どうかな?って聞いて見ると良い。けれどもしこれで良いんだ・・・って思い込んだりしていると、どんどんとズレが生じる。何故なら1歩目を受け入れないから。ではこれを見て。

あれだけ苦戦していたテディ・ベア・・・ほらこうしてラクに今日だけで張り終わった。目地幅見て。きちんとしているでしょ?これだけの質でたった2.3体目で、何も教えること無くこうして結果を出す。なのにどうして張るだけに苦戦した?そうなのね、常にその素材を生かすには?なのね。
そして思い込まない事、更に言えばこうして四苦八苦しながらも諦めずに、まっ良いかって投げ出さずにやると、こうして結果が付いて来るって事。そうやってこれだけ切っても出来るようになったのね。つまり余り切らないってスタイルは、お母さんにはまた1から・・って気分にって感じられたんだろうね。だもの、そりゃ気分も落ちるのね。ただ、こうして完成した時にどう感じたか?作っている時と一緒か?って話なのね。
そう言う点では、結構満足げだったし、キウイにも良い感じですね・・・って言われていたんだから、良かったのね。そんな中、実は新作の打ち合わせがあったんだけれど、暗礁に乗り上げ・・・って感じで、ひとまず延期。ではキウイ。

何かいよいよ・・・って感じになって来たのね。もうそろそろ時間が解決なんじゃないのかな?
出来栄えに満足感は少なく、正直これで良いのかな?・・・って感じだったが、目地をして時計を入れるとあっ良いかも・・・の度合いはアップしたようで、何よりだったのね。まぁ目地をしたのと、しないのでは、かなり変わって来るし、その目地の色1つでイメージも大きく変化するのね。
理由は1つで目地幅が広いからであって、例えば1cmタイルに2mmの目地幅を開けたとして、方や4mmだとすると、単純に倍になる。この時にたった2mmしか違わないじゃん・・って人は、倍って言葉にも反応を示さない脳なのね。でもポイントが倍になります・・・なんて言う言葉に変えると反応する人もいたり
して、それでも変わらないって人もいたりする。いずれにせよ、常々言っている感じる・・・って事なのね。感じないと何も変化をもたらさないのね。そこで感じるからこそ、じゃこうかな?こうかな?と行動が変わるものなのね。ただ本人が意識無く、けれど脳は感じているから変化を求める事もあって・・
それが無意識なんて言う言葉になるのだけれど、実は本人が自分の脳に気が付いていないだけで、変化をさせようと言う気持ちがある脳だから変えようとしている訳で・・・もしそんな場合の無意識の結果に満足が出来る人なら、それは初心者みたいな人や、何をやっても器用な人だったりするもので・・・
こんな人の場合、別に受け入れる話じゃないけれど、何か不器用なのね・・・とか、言葉にした時に、何か変?なんて違和感を感じた時なんかに、必要な事だと思うのね。じゃ何で変?と感じたのか?・・・って必ず掘り下げる事。そこでお母さんの場合・・・何故か?になると、まずお母さんは今までの作品を
見た時に上手い人であると言う事。では何の何処が?上手いのか?となった時に、カットの精度やら、目地幅の均一性、慌てて仕上げない根気、色々とあるけれど、こうした言葉を並べた時に、共通するような事を浮かべると、大ざっぱや粗雑なんて言葉は一つも出て来ないのね。当たり前だけど。
でも、その当たり前に隠された罠があるのね。つまり精密であるとも言えないかな?ではそれを踏まえた時、このリップルってタイルの特徴は?色んな形があって、大きさもマチマチ、きちんとしていない側面・・・ほら何1つきちんとした所が無いのね。つまりいつものタイルのようにきちんとした寸法では
無いと言う事なのね。だからいつものルールでやろうとしている事から是正しないとならないのね。しかも単なるルール改正では無くて、今まで実績を積み重ねたお母さんを捨てて、切らない、時間を掛けない、形を揃えない・・・もはや苦痛でしか無い感じに追い込まれるだろうね。
ただ、こんな場合、何もかも捨ててはダメなのね。必ず1つは残さないと・・・折角積み重ねた事なのだから。その時に均等な目地幅・・・これを意識すれば、確実に意識無しの人よりも質が上がるのね。しかも、比べ無いと判らない程度にね・・・大ざっぱや粗雑とも思える形が均等な目地幅になる。
まっ、恐らく昨日の生け花的な発想だとは思うが、同じ流派の同じやり方って言うのは、伝統を重んじる。革新って言うのは、何も取り入れないと、粗雑にもなり勝ちで、着崩しのようなものは、全てを変えてはだらしなくなるだけなのね。何でも良い訳じゃ無いのね。
当然、こんな事はお母さんも判っているから、きちんと、ちゃんとしてしまうのね・・・だから目地幅もいつものように狭くしたくなる。あくまでそれは、1cmタイルやガラスタイルのような形のしっかりしたものを切り出した時の目地幅であって・・と言ったとすると、ぺきぺきだって・・・と、言い
そうだけれど、それも目地幅をピッタリ、きっちりする事で目地の色に影響されないスタイルだったのね。つまりそもそもがレロレロってラインのリップルの特徴を生かすのなら、そう言うラインが見える様な間隔が欲しくなるし、物理的に切らずに中心に向かえば丸い形に張るとなると、目地幅を開け
ないと張れないって話で、しかも最初は外側から張るから、目地幅はいつもの感覚でやろうとすると、この目地幅は耐えられない位広く感じる。そうなのね、全てが感じるって話なのね。どう感じているか?なのね・・・自分が。その意識が大切で、それをただこれが良いんだ・・・なんて思い込むと、
さていかがな結果になるだろうか?なのね。しかも相席がキウイ・・・かなりの腕前だと思うのね。ならこの幅どうかな?って聞いて見ると良い。けれどもしこれで良いんだ・・・って思い込んだりしていると、どんどんとズレが生じる。何故なら1歩目を受け入れないから。ではこれを見て。

あれだけ苦戦していたテディ・ベア・・・ほらこうしてラクに今日だけで張り終わった。目地幅見て。きちんとしているでしょ?これだけの質でたった2.3体目で、何も教えること無くこうして結果を出す。なのにどうして張るだけに苦戦した?そうなのね、常にその素材を生かすには?なのね。
そして思い込まない事、更に言えばこうして四苦八苦しながらも諦めずに、まっ良いかって投げ出さずにやると、こうして結果が付いて来るって事。そうやってこれだけ切っても出来るようになったのね。つまり余り切らないってスタイルは、お母さんにはまた1から・・って気分にって感じられたんだろうね。だもの、そりゃ気分も落ちるのね。ただ、こうして完成した時にどう感じたか?作っている時と一緒か?って話なのね。
そう言う点では、結構満足げだったし、キウイにも良い感じですね・・・って言われていたんだから、良かったのね。そんな中、実は新作の打ち合わせがあったんだけれど、暗礁に乗り上げ・・・って感じで、ひとまず延期。ではキウイ。

何かいよいよ・・・って感じになって来たのね。もうそろそろ時間が解決なんじゃないのかな?