ネタ無しだったんだけれど、カサブランカの完成画像が来たので総評も兼ねて、ようやくアップとなったのね。まずこの仕事が決まって、こう言う仕上がりにするには理由があったのね。まずおかみさんは生徒である事。そしてかぐやが弟子で
あって、俺は先生でも作家でもある事。つまり2人は生徒や弟子で片側の立ち位置のみだけれど、俺は2つを持っての制作になる。こんな事を踏まえて見て貰うと、俺のカサブランカがスペースが一番大きく、弟子のかぐやの鳥が一番小さい。
そんな中で、まずは先生として考えると、おかみさんの作品は先生としてアイデアや指導も入った作品であるので、このグレードになっている。しかしながら、かぐやの鳥は青くして、模様で・・とだけ伝えて1人で作ったオリジナル作品。
この時点で全く違うのね。相談は無いのだから。1人で作ったものなのね。ただセッションって言うのなら、青い鳥を模様で・・・と言ったら、かぐやの実力やアイデアやデザインは、こう来るだろうと思っていた通りに仕上がって来たのね。
つまり予定調和。更に言えば先生katsuと完成させたおかみさんは、予定調和オブ予定調和であり、おかみさんの趣味趣向が入った作品の横に並ぶとなると、このかぐやの作品は模様で繫がりを見せる事になっていたのね。
そしてお互いに無いものをカバーし合う事になるのね。それが可愛さ。おかみさんの看板は表現として色使いとしてもシンプルで、元から付いている看板のデザインや色合いなんで、オリジナル感としてはバックの模様のデザインとなる。
しかし色は白をベースで一見主張しなそうだけれど、壁が重々しい分、このスペースでも十分に威力はある。しかしながら看板としては成立するが、大人チックであり子供向けで無い分、可愛さは無い。ただおかみさんの趣味としても、看板
としても幼稚園では無いのでいらないとも言えるが、今回の趣旨の中にインパクトって言うワードがあり、看板の持つ営業色も必要だけれど、みんなに見て貰う・・・って言うものがあり、可愛さの担当をかぐやにしたのね。
では可愛いとは何?となった時、わー可愛い子供ぉぉ2mもあるんだぁ・・・なんて表現あるかな?となるとそんな事は無いのね。つまり可愛いの持つイメージは小さい事なのね。ただ小鳥と言っても、この壁の重みや俺の作品とおかみさんのを
踏まえた大きさも考えると、30cm程度になったのね。更に話を進めると、これをモザイクをやっている人と、かぐやの実力を知っている人と、単なる通行人としよう。三者三様なのね。まず俺じゃ無い先生に習っている場合、これらを見て
俺の作品を先生だと判ったとしても、果たして弟子のかぐやと生徒のおかみさんの違いを理解出来るだろうか?となると、恐らく無理だろうね。それは既に鳥の輪郭はフェイクのように可愛い形の俺のデザインで決まっていて、いくらかぐやが
模様としてお洒落にしても、可愛さが残るのね。しかしながら、おかみさんの作品は大人チック・・・場合に寄っては、同じ人の制作?なんて事にも思えてしまうだろうね。所がかぐやを知っている人は、これ以外のかぐや作品を知っているから、
それをも踏まえた評価になり、やっぱり凄いな・・・と思ったりする。じゃ何が凄いか?となると、先生katsuの風味が入ったおかみさんの作品と作家katsuに挟まれて、1人弟子として存在感を出す・・・これは中々の勇気や実力が問われる。
では通行人は?となると、そんなの関係ねぇ・・・と小島よしおさんな感じ。つまり見たままなのね。恐らく全部ひっくるめて凄いとかになったり、小鳥可愛いとか、看板だけの時より、カサブランカや鳥の判りやすいモチーフが目を引いたり
したりするだろうね。と言う訳でそんな2人の作品を踏まえて、俺は?となるのだけれど、じゃ先生katsuから視点で考えると、弟子のかぐやですら、場合に寄っては同等扱いになる可能性があるが、それを可愛いって寄りにする事で、お洒落で
被り戦わせないようにした配慮の元、模様繫がりで関連性をも考えたのなら、同じ模様繫がりのバックを・・・と考えても不思議じゃ無いのね。所がそうしない理由があったのね。その解説がこれ。
白いタイルやガラスタイルが多い中、目地幅を一定に取り、外壁でありながら白っぽい目地をしたのね。これによって得られる効果は、離れた画像で見ると、オレンジや青や黒の部分が見やすくなる。つまり全体が離れると白い部分が同化し
、そうじゃ無い部分を引き立たせているのね。これが目地の威力なのね。ではかぐやの鳥。2匹いるから違いを好みでは無く、比べて見てね。その前に目地無し画像を・・・。
こんな感じね。それを水色の目地をすると・・・
まずは薄い方ね。今のアップでも水色の多い中、水色の目地で目地が見えずに、1枚物のようにも見えるのね。
今度は濃い方。こっちは目地が薄く見えて1粒1粒がはっきりして、馴染む事は無く、言い方は悪いが目地幅の不安定さが出てしまったり、目地の色が大きく影響している。方や馴染んで、方やはっきりさせている。良くも悪くもね。
つまりもし俺のバックをかぐやのように模様でやっていたら?濃い部分は目立ち、薄い部分は馴染む事になると、あくまでバックの話だから、カサブランカの邪魔をする場所と馴染んでカサブランカを見やすくする2通りになる事になるのね。
それは頂けないのと、大きいスペースで迫力も出てしまうと、生徒や弟子と同じ模様で比較した時には大人げない結果になると、立場としては面白く無いのね。あくまで生徒の指導した側の先生であり、師匠としての弟子なのだから、
ただ単純に下になられるのは、苛立ちにも繋がる。だからそんな事を踏まえると、同じ模様で比較されるのも嫌だし、各々の違いを楽しんで貰いたい気持ちになる。これが先生katsu側の気持ちなのね。所が一転、作家katsu側になると鬼畜なのね。
言葉も粗くなり、一緒にされたら困るんだよっ。こっちは腐ってもプロなんだよ。ぶっちぎらないでどうする。って具合で別人になる。つまり圧倒的にならないと。そうなると同じ事でやって、もしも大きさで凄いなんて事になると、完全さ
が出ない。だから・・・となるとついつい色々やりたくなるんだけれど、ガラスタイルは目地に影響されやすいので、当然目地幅を狭くしたくなる。しかも2人のような模様は繫がりはあるものの、2人がやっている事で、先生や師匠としての
実力が無くても、この位なら作れる・・・なんて事になったり、場合に寄っては、これもおかみさんが作ったの?って事になるのは冗談でも困る。ただ少なくともかぐやの作品は必ずそんな声を聞く事もあるはず。それは可愛い形だから。
これが比較されると・・・の説明。そんな事を踏まえると、先生katsuと作家katsuの立場の違いもあっての判断は、生徒や弟子と被らず、しかもぶっちぎり・・・となると、主張して、主張せず・・・とまるで鬼滅の炭治郎になる。
単に鬼殺しすれば良いのか?なら妹も殺せになる。その葛藤ありきだから主役なのね。ただ強いだけの柱の代わりなら次々出て来る。そこで一見シンプルに見えそうな、レロレロって流れで全部切ってあるパーツは単純に見え、張ってあるだけ
・・・って具合に通行人には見えるだろうね。つまりその技術が判る人だけに判るものであり、技術の判らない人には、模様の形に切った方が上手くも見えるとなれば、きちんと判る人には判るし、比較されてもお互い傷付かずに済む。
これが見たままの解説。では内容は?となると、普通カサブランカって言うのは下から順番に花が咲くのね。でもこれは上に咲きそうな白いつぼみがあって、下に緑のつぼみがあるのね。それは若い衆の成長を意味しているのね。
下から入って来て、花が咲くまで紆余曲折あり、モヤモヤした気持ちがバックなのね。そこまで残れば一番上のカサブランカには金が入っていて、ここに残るのなら金のカサブランカで、世話役としてこのコバケンの偉い人になる。
ただその枠から青い鳥として独立しても、重々しい壁にひよっこの鳥・・・守られていた場所を離れる・・・そんなストーリー。そんな中で浮かんだのが、水色のバックって事なんで、水中花・・・なんて浮かび、愛の水中花になる。
これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛・・・生徒と先生、弟子と師匠、若い衆と親方・・・そしておかみさん。どの関係性もひとそれぞれだけれど、嫌がらせじゃ無くて老婆心だったりすると、人それぞれの考え方は違って当然。
でも押し付けの愛情もあれば、受け入れる愛情もあったりする。老婆心の愛情もあれば・・・結局、何が正しいなんて無くて、受ける側の問題になる。どう感じるか?だったりすると、マニュアルが無い限り1つには中々ならない。
同じく育てても残る奴もいれば、辞める奴もいる。明日があるさ・・・なんて歌の歌詞も、会社に残る奴がいて、辞める奴もいるなんて言うように、辞めて転職する奴もいるし、独立して成功する奴もいる。昔からある話。
その心の中に教わった何か残っているのなら・・・これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛・・・なんだろうね。それとて、五木寛之さんの歌詞は、あれもこれも、たぶん・・・きっと・・・と変化して不安になって、でもきっとになる。
そんな事を踏まえたら、こんな仕上がりになったのね。また生徒さんの中に、下絵の時にこんなバックになるとは思わなかった・・・って人がいたんだけれど、それこそが個性だと思うのね。予想させなかったのだから。良くも悪くも。
予定調和なら、模様の形で水色だったろうが。たださっきの理由から回避したって言うのが本音であり、消去法って感じであって、こうしよう・・・って狙いでは無いのね。俺らしいと言えばらしいんだけれど・・・。
それと、もしレロレロと切らずに色は変えずにクラッシュだったとしても、雰囲気はあったと思うのね。ただクラッシュなら俺に習っている人なら、そんな事も考えるだろうし、弟子のかぐやのように技術をプロ並みに持っている奴を
満足させるには、そいつが上手くなればなるほど、俺のやる事すらも予測や予期出来るだろう。それは俺がかぐやの腕を知っているようにね。ただもしかぐやとの差って言う事があるのなら、それは情緒って言う、その作品制作の思いって部分だと常々思っているのね。
鬼滅の刃に出て来る柱のように、鬼を殺すのみだけを掲げるものは強さのみの追及。それでは主役にはなれない。主役は鬼になった妹を背負ってその悲しみをも一緒に切る・・・その違いが主役か主役じゃ無いか?に繋がると思うのね。
何しろ上手くなればなるほど、その人の意見の威力は大きい。かぐやにもそろそろそれが判ると良いと思っているのね。それとおかみさん位になると、教えたとは言え、ここまでの作品を作れる腕があるのね。
その腕の人の眼を満足させるって言うのは、それだけハードルが上がるのね。当然廻りの人達に認知されているのなら、奥さんが作ったって話になっているのね。そんな後に出来るもので、その先生が作ってくれるって事になれば、当然期待は広がるし、そこへ似たようなものを作れば、冗談でも奥さんも作れそう・・・なんて声を聞かせてはならない。
期待と言うのは、想像を超えるものを要求されるもので・・・想像の範囲内なんて言うのは単なる安定であり、つまり今回が安定バックだったら、クラッシュだったろうが、あえて攻めたのね。当然時間が掛かってしまうだろうし、難しさが
伝わりづらい事なんだけれど、判る人は見付ける事が出来るし・・・目ざといなんて言うのは通な人へのメッセージ。これはどう?ってね。ただそれに決まる過程が、職人になる為に紆余曲折ある・・・って荒波みたいなものの表現の為って、
意味があっての事。横に作らずに縦にしたのも、横で荒波では呑まれておしまい。あぶくもそんな意味で、そんな野望が泡と消えない様に・・・つまり独立を意味する。色々と葛藤があるものなのね。俺もタイル屋20年やったし独立もした。
上下に縁取りを回さないのも理由は、入り口も出口も自由だよ・・・そんな親方に思えたから。全てに理由はある。何をしても時間が掛かるし、手間が掛かる。意味も無くやってはいられない。勿論その意味がある事が芸術と言うのなら。
これが模様の繰り返しなら、下絵が終われば迷う事無く、とんかつのキャベツのようにひたすら切っていただろうね。それなら工芸になる。単純に工芸なら拝む事も無く、そこで泣く事も無いだろう。がしかし、もしそこに意味があり、それを知った時に、何か感じ取って頂いた時に、感情を揺さぶる事が出来たのなら、上手いとか凄いとかだけで無く、何か
他の感情が生まれるはずなのね・・・俺はそう信じているし、何度か俺の作品に手を合わせていた人を見た事がある。ただ拝まなくても良いが、近くで見たい・・・と寄ってくれさえすれば、話す機会が生まれるはずであり、それこそが口コミになる。いつかカサブランカの家って言えば世界で判るようになりたい・・・。