今日もお教室あり。画像無しで指導的な説明って細かいニュアンスは伝えずらいけど、簡単に言えば言葉通りなものなのね・・人の考えって言うのは。所が問題はそこに気が付かない自分がいると、本末転倒になる。そんな話なのね。
例えば縁取りだの輪郭は、モチーフの形としての生命線になる。例えば人の顔を作ったとする。その輪郭がずれて大きくなれば、太っちょになる。勿論、太っちょ好きならそれも良い。逆に反対ならやせ細る。
ただこの場合の2つはどちらの輪郭も左右対称的に両ほほが太っちょとやせ細りだからバランスは良いが、もし片方太っちょで片方はやせ細りとか、途中から太っちょとかだったりしたら?もはや見るに堪えない事になるでしょ?
こんな事を踏まえて、じゃどうすれば良いか?となった時、言葉にして見て。・・・多分きちんと・・・って言葉を使うと思うのね。じゃ腕前はともかく、その人の全力できちんと輪郭は出来たとする。
これで塗り絵の輪郭線が自分なりに出来た事になる。じゃ中身を切って色を付けて貰おうかな・・・好きな色で。もしこう言ったら、好きな色を選んで・・・どうする?恐らく初めての人になら、後はお好きに切って入れるだけ・・・。って。
そう言うだろうね、俺は。これで簡単になる。だけ・・・何とも都合の良い励まし方なのね。非常に楽になれる。もっと言えば、後は・・・なんて付けると、増々良い感じになる。所が世の中って、段階とか進級とか、甲乙丙丁とかあるのね。
松竹梅・・・差が好きなのね。あからさまのね。初級、中級、上級って。じゃその違いを言葉で説明して。チコちゃんじゃ無いけれど、えっ?ってなりそうになるのね。でも、説明すると当たり前の事なのね。
要するに初心者であっても、なるべく質を上げたいと考えたりもする。だから1つだけ輪郭線の時に、全ての時間を使う位の緊張感で、ずれたらヤバイ・・・とあおる。そしたら次は、後は好きな色を入れるだけ・・・この文章が全て。
好きな色を選ぶ事に不満のある人はいないのね。そして、だけ。さっきよりも優しい表現に聞こえる。楽になった気がする。これがお笑いの緊張と緩和みたいな仕組み。つまりリラックス的になるし、緊張していた輪郭線で向き合った分、
リラックスして好きな色を選んで、何でも良い・・・となると自由が得意な人には最高な気分になる。そんな人ならそれで指導は何もいらないのね。所が自由が不自由になってしまう人もいる。どんな色が良いですか?とか、どんな形に切れば
良いですか?とか、レシピや図面、楽譜は無いんですか?ってね。そう普通はサンプル通り教室が普通だから。その質問も悪くは無いのね。ただもしオリジナル作品だとしたら?・・・サンプルなんて最初からある訳が無いのね。
つまり質問する前に、俺の質問に答えないとならない事になるのね。これがもし旦那さんに、何食べる?って聞いたのに、何でも良いよ・・・と返され、じゃ・・・とスパゲッティを作ったら、うどんのが良かったな・・・と言われたら?
トドメ刺したろうかっ・・・にならない?つまり、どうしたいの・・・どう見せたいの?なのね。せめて中華、洋風、和風と決めてくれれば、その中でじゃ和風・・・って言ってくれたのなら、うどん、そば、きしめん・・・みたいな質問になり、
大外しはしなくて済むから、作り手に大きなダメージにならずに済む。でも旦那さんの気持ちも判らないまでも無いのね。パスタを見て、それなら・・・と言ったまでの事で、作らなければ浮かばないし、仮に言った事が面倒な料理なら
却下になるし、冷蔵庫に具材が無いかも知れない。しかもそのやり取りを何百回もやっていたら、任せるよ的になるし、ただ問題なのは、出て来たものに、いちゃもん的に聞こえる表現をした事なのね。でもやりがちなのね・・・。みんな。
さて話を戻して、つまり自分の作品なのだから、せめて、和風に・・・とか、可愛くとか、シックにとか、何らかの手掛かりになる言葉を言ってくれれば、協力しやすくなるのね。例えばシックにしたいんです・・・だとしよう。
ここにも隠されている意味があって、シックって良い言葉、それとも悪い言葉?そこで感じて貰う為の文章として、その服シックね・・・って言われたとする。そう聞いて殺したろうかっって思う?逆に褒められた感じがしないかな?
じゃそれを地味ね・・・に変えると、その服地味ね・・・完全に殺す・・・に変えられるでしょ?言葉の持つ意味があるのね。それを無意識に感じるモノなのね。つまり相手がどう感じているのか?想像がある程度出来るって話。
そんな事を踏まえたら、シックにしたい・・・そうか、派手になりたくないって事なのね・・・と教えたくなるのね。これが最高は判らないけれど、最低は防ぎたいって感覚。そもそも最高が判るのなら聞くまでも無く好きに選べば良い。
でもそこを聞きたいのだから、こちらとしても消去法を使って、最善を見つけたいのね。その時にその人の心理を読み解くに、この人のシックの許容範囲を知りたい。つまりここからはシックでは無く地味に見えるって境目。
そこを気付かせてあげる事が出来たのなら、思い込みの幅が狭かった事になり、広がった分、バリエーションが増えるって話になるのね。つまり指導って言うのは、単純に2通りあって、漫才の2人でも役割があるように、例えば同じ漫才師でも、
ネタを作る人と演じるだけの人って判れる。同じように歌うだけの人と、作詞作曲もする人って具合にね。つまり作る人側教室なら、想像力、洞察力、観察力的なものが大事になり、それを屈指して生み出さなければならないのね。
だから新曲、新車、創作料理、新作落語みたいな側教室は、タイルを切る張る技術だけで無く、感じる事を表現するってやり方をも教えないとならないのね。逆にモザイク教室って言うのは判りやすく簡単で技術のみを教えるのね。
つまり、眼に見える技術と、眼に見えない技術って差があるのね。だから、生徒さんが何を求めるか?で教え方は大きく変わるのね、だからもしこれを作りたい・・・って真似るようなものなら、似てるようになる教え方になる。
でももしオリジナルなら・・・そりゃモンタージュ作るような話になる。その時にご理解が無いと、モザイク教室に来ているのに、訳の判らない話ばっかり・・・なんて思われるするだろうし、ビンゴって感じなら、思った以上の出来栄えに
ご満足されたりもする。まっ他の先生はともかく、俺に対する評価って言うのは、こんな事が原因だからある程度、こちらとしても理解した上なのね。だから、先生と合わなかったとか、合ったとかの表現って言うのは、少なくとも俺の場合
は、どっち先生を選んだのか?なのね。今日はそんな訳で、オリジナル側の先生でやらせて貰ったのね。