かったかくんのホームページ

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「命」

2022年05月02日 | 大分県
『爽やかな初夏の風吹き目を閉じる
       心に沁みる若葉の匂い』


朝は、6~7度の気温。
日中は、20度を超えていきます。
すごい気温差。
初春・春・初夏の季節を感じます。
勤務から戻って、窓をあけていると、しばらくすると川風がスーッと入ってきます。
最初は、心地よさを感じますが、そのうちに体が冷えてきます。
体の調整をしていくのも難しい季節でもあります。


最近のニュースを見ると、「ウクライナへのロシア侵攻」「コロナ感染」「山梨県の児童行方不明事件の展開」「知床観光船沈没事故」など、世相の不安定さを感じさせます。

21世紀になっても、目的を達成するために、戦争という武力で多くの人を殺すという残忍さに驚愕の思いがします。

わたしの両親は、他界しています。
両親の死に接し、悲しみの中で、みんなで見送りました。
「命」は最大の尊厳あるものだと感じました。
 
殺し合いの先に、「幸せ」は生まれないと思います。
悲しみ、憎悪・・・が、今もその次の世代にもつながっていきます。
 
生きている中で、たくさんの幸せを感じる時間が、世界中の人々感じる世の中になって欲しいですね。
 
かつて、「一つの花」を書いた今西祐行さんの生前の講演会で「すみれ島」の朗読を聴いたことがあります。
いつかブログにも掲載したことがありますが、今だから、今西さんの思いを伝えます。

『『すみれ島』
今西 祐行文 
  
九州の南の端に近い海辺に
小さな学校があった。

昭和二十年、春のこと、
いつからかまいにちのように、
日の丸をつけた飛行機が、
学校のま上を飛ぶようになった。

生徒たちは そのたび、
バンザイをさけんで、手をふった。
すると、飛行機は、
まるでそんな声が
きこえたかのように、
ゆっくりつばさをふって、
海のむこうへ飛びさった。

先生たちは知っていた。
それが、
かた道だけの燃料しか持たないで、
ばくだんとともに てきの軍艦に突入する特攻機であることを。
そして、最後のさよなら をしていることを。


だが、子どもたちは、 飛行機が、なんども学校に飛んできているのだとばかり思ってよろこんでいた。


そして、手紙や絵をかいて、
航空隊におくってもらった。
「飛行機からぼくたちが見えますか。
こんどは、もっと大きく
つばさをふってください。」
手紙にはそんなことを
いっぱいかいた。
手紙をだしてから、
飛行機はほんとうに、つばさを
大きくふってくれるように思えた。


手紙や絵もかきあきたころ、
ひとりの女の子がいいだして
すみれの花たばを
おくることにした。


みんなでつんで、いくつものはなたばにして、
代表が先生といっしょに、とおくの航空隊までとどけにいった。

するといく日かして学校に手紙がきた。


「すみれの花を たくさんありがとう。
ゆうべは とてもたのしい夜でした。
ぼくは 小さいとき、よく
すみれの花で、すもうをしました。
みなさんは知っていますか。
すみれのことを、ぼくたちは、
<すもうとり草>とよんでいました。
すみれの花をからませて、
引っぱりっこをすると、
どちらかの花が、ちぎれます。
ちぎれたほうが、まけです。


きのう、たくさんのすみれをいただいたので、
みんなで それをやりました。
せっかくもらった花を、ちぎってしまって、
わるいなと思いながら、
花がなくなるまでやりました。


毛布の中を
花だらけにしたまま
ねてしまいました。
かすかに、
いいにおいがしました。


今、出撃の号令がかかりました。
みなさん、ありがとう。
ゆうべはほんとうにたのしい夜でした。
いつまでもお元気で。さようなら。」


先生は、声をつまらせて読み終えると、


「このお手紙をくれたかたは、
もう、南の島で、戦死しているのですよ。
もう、いらっしゃらないのよ・・・・・・」
そういって、生徒のまえで泣いた。
そして、先生は、はじめて
特攻機のことを、くわしく話した。


その日から、子どもたちは、
野原にすみれの花がなくなるまで、
花たばをつくって、
おくりつづけたのであった。

いく機の特攻機が
子どもたちのすみれを持って
南の海にちっていったことだろう。


そんな特攻機のいくつかは
とちゅうで、こしょうして、
だれも知られずに
海や島についらくしていた。


戦争がおわって、
いく年かがすぎた。
南の島の無人島の一つに、
いつからか、いちめんに
すみれの花が さくようになった。


子どもたちのおくった、
すみれの花たばに、
たねもまじっていたのだろうか。


海べの人たちは、
名まえのなかったその島のことを、
<すみれ島>
とよんでいる。