秋の紅葉の季節。今日の夕方、白米城址に行ってみました。
どんな色づきなのかを見たかったのですが、温暖化の影響でしょうか、紅葉のシーズンになっても鮮やかに色づく・・・というほどまでいかないような気がします。
今日の白米城址の景色です。
子どもたちに、白米城の説明をしました。
半分聞いて、半分、ジュースの美味しさを感じていたようです。
秋の鮮やかさはなかったのですが、やっぱり、城跡から見える景色はとてもきれいでした。
夕方だったので、夕陽のオレンジ色が、風景をさらにグレードアップしています。
鎌倉時代に城が築かれ、戦国時代には、黒田官兵衛の家臣の栗山大善が生まれ育った城でもあります。
そういうことをイメージすると、栗山大善や黒田官兵衛たちがどういう気持ちで、木ノ子岳・立ち留まりの景、山国川などを見たのかなと思います。
史料などには、次のように書かれています。
『本耶馬渓多志田から大きく蛇行する山国川に沿って、国道212号線を「立留の岩」のあたりにさしかかると、川向こうに山国谷にはめずらしい広々とした田園風景が見えます。
平田の里です。
集落のうしろに、方形の盛り上がりを見せる小さい丘が目に入ります。
平田の古城址です。
800年ほど昔の建久9年(1198年)豊前の守護として入国した、源頼朝の御家人で、宇都宮信房の弟野仲重房が、この谷のおさえとして築いた城の一つで、平田掃部介が最初の城番をつとめたといいます。
この城の名前は、白米城(まつたけじょう)といいます。
これは、城の所在地での字名を、町丈(まつたけ)というところからきたものと思われます。
もう一説は、平田(町丈)が山国谷では米の多産地であることから、
白米と書いて「まつたけ」と呼んだともいわれます。
現在、城址は公園になっており、忠魂碑などが建ち、「城山」とも呼んで親しんでいます。
この城は、有名な黒田騒動の立役者、「栗山大膳」が生まれ育った城でもあるのです。
天正15年(1587年)天下統一をめざす秀吉の命をうけて、豊前中津に入国した黒田孝高(如水)は鎌倉時代からこの地に根をはった、名族宇都宮一門の討伐に手をやきます。
上毛(福岡県築上町)の山中に、鬼ガ城をかまえた本家直系宇都宮鎮房と、下毛(大分県中津市)山国谷の奥地、長岩城にこもる分家の野仲鎮兼が、もっとも手ごわい相手でした。
天正15年10月、宇都宮鎮房を攻めた黒田長政は、縦深24キロのウナギの寝床のような城井谷に誘い込まれて大敗。
攻撃目標を鎮兼に向けかえ、天正16年4月5日、長岩城を攻めたて、3日間の激戦のすえ、野仲氏をほろぼします。
このいくさで、抜群の手柄をたてた栗山利安に、黒田孝高は野仲氏の領地を与え、残党の蜂起にそなえて、この白米城を居城とさせたのです。
天正19年、のちの栗山大膳利則はこの城で生まれ、慶長5年(1600年)、黒田長政が筑前に転封するまでの10年間、つまり、10歳までの幼年時代を、山国川畔のこの城で育ちます。』
癒された夕方の白米城跡からの景色でした。