川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

きょうは「沖縄慰霊の日」です

2005-06-23 17:07:58 | Weblog


◇沖縄戦日誌 ※出典「鉄の暴風-沖縄戦記」(沖縄タイムス社刊)

3月23日 米軍機延べ355機来襲
  24日 米軍機延べ600機来襲
  25日 米軍機延べ515機来襲
  27日 米軍、渡嘉敷島上陸
  28日 渡嘉敷島、座間味島の住民約700人、集団自決
  29日 米軍、慶良間列島を完全占領
  30日 米軍機200機の攻撃で運天港魚雷艇基地壊滅
  31日 米軍砲兵隊、那覇西方10kmの神山島に無血上陸
4月 1日 米軍、渡具知海岸に上陸開始、午前中に中飛行場、北飛行場を
      占領。 同日の米軍上陸兵員5万
   5日 米軍、石川地峡制圧、沖縄本島を二分断する
   6日 日本特攻機延べ200機、10日まで米艦攻撃
      戦艦大和、徳山から出撃
   7日 米軍機、徳之島沖で日本艦隊攻撃
      戦艦大和はじめ5隻撃沈、2隻自沈、3隻損傷で艦隊壊滅
  12日 日本軍機482機(うち特攻112機)出撃
  16日 日本軍機447機(うち特攻51機)出撃
      米軍、本部半島制圧、伊江島上陸、激戦つづく
  21日 日本軍伊江島守備隊全滅、沖縄戦終結時伊江島住民戦死者数
      約1500人
  27日 島田知事、繁多川県庁壕に未占領地市町村長・警察署長を招集
5月 3日 4日にかけて日本軍機699機(うち特攻65機)出撃
  11日 日本軍機322機(うち特攻64機)出撃
  12日 米軍、全戦線で総攻撃開始
  14日 米軍、那覇市安里に侵攻
  21日 米軍、首里包囲
  24日 日本軍機290機(うち特攻98機)出撃
  25日 島田知事、南部へ下る 沖縄新報、発刊不能
  27日 日本軍特攻機60機出撃
  28日 32軍司令官牛島陸軍中将、首里放棄、南部へ下る
  30日 米軍、首里入城
6月 3日 日本軍特攻機20機出撃
   6日 沖縄方面根拠地司令官太田実海軍少将、海軍次官宛て電報
      発信(※別掲)
   9日 島田知事、警察警備隊の解散を命令
  10日 米軍司令官、日本軍司令官に降伏を勧告
  14日 日本海軍陸戦隊、小禄一帯で全滅
      太田海軍少将、幕僚と共に自決
  18日 米軍第10軍司令官バックナー中将、糸満戦線で戦死
      島田知事・荒井警察部長、消息不明
  19日 ひめゆり学徒隊員40人、米須の壕で自決
      米陸軍第96師団イアスレイ代将戦死
  23日 第32軍司令官牛島満中将、同参謀長長勇中将、割腹自決
      米軍、久米島上陸。 この後3日間で、米軍死傷783人、
      日本兵9千人戦死4千人捕虜。
8月 6日 広島原爆
   9日 長崎原爆
  15日 日本、連合国に対して無条件降伏
  22日 抵抗をつづけた伊東孝一大尉指揮の国吉駐屯大隊、
      日本の降伏を知って武装解除
  29日 歩兵第32連隊、武装解除

◇「太田海軍少将の海軍次官宛電文」転載 ※出典「鉄の暴風-沖縄戦記」(沖縄タイムス社刊)

沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信力なく、32軍司令部又通信の余力なしと認めらるるに付、本県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びず之に代って緊急御通知申上ぐ。

沖縄本島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛に専念し県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき。しかれども本職の知れる範囲に於いては県民は青壮年全部を防衛招集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ僅かに身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難尚砲爆下……風雨に曝されつつ乏しき生活に甘じありたり。而も若き婦人は率先軍に身を捧げ看護婦炊事婦はもとより砲弾運び挺身斬込隊すら申出るものあり。(中略)本戦闘の末期と沖縄島は実情形……一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支ふるのみなりと謂ふ。沖縄県民斯く戦へり。県民に対して後世特別の御高配を賜らんことを。

◇糸洲第二外科壕脱出 17才 師範予科3年 第2外科勤務
薄暗い細道でしたが、途中で見た光景が、本当に凄かったですよね。まず驚いたのは、子供をおぶった女の人です。手を伸ばして死んでいましたが、背中には子供がこれも血まみれになって死んでいたんです。

道は死人でいっぱいなんですよ。兵隊もいるし…。でも住民がはるかに多い感じでした。近くに水飲み場があると聞いたので行ってみたら、そこも折り重なるようにたくさんの死体ですよ。ちょっとした水たまりはありましたが、血の水なんです。生血の臭いがするんです。飲むのはやめて、ここも危険だと逃げるように通りすぎました。

しばらく行くと、門のところで大きな男の人が万歳をするかっこうで亡くなっています。兵隊さんでした。またびっくりしてそこを過ぎたら、こんどは石垣の角にうずくまってね。艦砲を避けようと隠れていたのか坐ったまま死んでいました。そこでちょっと行くと、両足ともどこに吹っ飛んだのかわからない死体です。そのような目も当てられない状態でしたね。

◇ドラム缶のようにふくれた死体 17才 師範予科3年 第2外科勤務
衛生兵の合図で一人づつ間隔をおいて、糸洲壕を脱出しました。外に出ると3名で待ち合わせて、伝令で行ったことのある山城の本部壕をめざして夜道を走りました。昨日までの道とはまるっきり変わっていました。それに足を踏み入れる所もないくらいたくさんの死体がころがっていたんですよ。ドラム缶のように大きくふくれあがっているんです。腐ってすごい悪臭のする死体が、ずっとどこまでも続いていました。

とにかく必死に駆けてやっと山城に着きましたが、もうそこも同じように、死体だけがたくさんころがっていたんです。

◇山城本部壕が艦砲でやられた 19才 師範本科1年 本部勤務
山城本部壕に艦砲の直撃弾が落ちたのは、6月14日でした。壕入口に出ていた病院長を始め歩哨兵や衛生兵が瞬時に吹き飛ばされました。

隣の新垣さんの顔を見てまたびっくり。顔に肉片がベタッとくっついています。「貴方、顔をやられている!」といったら、彼女はあわててそれを払いのけたんです。肉片は炊事していた兵隊たちのものでした。

「病院長がやられた。兵隊も学生もやられた」という声で、西平先生の後を追い壕入口に出ました。安座間さんはもう板の上に寝かされていました。手の指も切れ、お腹もやられ、息するたびに、腸がブクッブクッと飛び出すんです。

◇フミさんの顔が無くなった 18才 師範本科1年 第1外科勤務
3人が山城の丘に着いた時には夜が明け、隠れる壕もありません。陸からは迫撃砲、海からは艦砲で、生きた心地もしません。そのときの攻撃で、比嘉さんは即死。宮城さんと私も負傷しました。

それからどのくらいたったでしょうか。耳をつんざく爆発音とともに、凄い爆風に叩きつけられました。ハッとしたとたん、私の膝を枕に眠っていたフミさんがスーッと立ち上がり、バタッと前のめりに倒れたのです。見たら、頭のてっぺんをえぐり取られ、表皮はたれさがり、顔が無くなっているのです。

私はあわてふためき「やられた、誰か来て」と大声で泣き叫びました。そしたら隣にいた衛生兵が「静かにしろ! 騒ぐと叩っ斬るぞ!」と怒鳴ったのです。

◇顔がシャモジになった 16才 一高女4年 第2外科勤務
「待っていてね。私が軍医殿を連れてくるから。」知念さんはそのまま戻ってきませんでした。私の右隣にいた看護婦は、一言もなくスッと立ち上がったわけです。そしてクルクルと回ってバタッと倒れました。見たら、破片で顔を、鼻も目も口も何もかも全部やられていました。しゃもじみたいに平たくなって…。

もう一人、太った看護婦でしたが、その人はバサッとお尻を全部裂かれて、はじめは真っ白くしていたわけです。脂がにじんでいる感じです。しばらくしてその白いところからビューッと血が噴き出し、バタッと倒れてそのまま死んでしまって…。

※体験談話は「公式ガイドブックひめゆり平和祈念資料館」からの抜き書きです。


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