川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

ソ連戦闘機函館侵入、そのとき自衛隊は…

2005-07-02 19:30:46 | Weblog


1976年に北海道にミグ戦闘機が着陸したときは、ほんとうに驚きました。まだソ連が強大な軍事力を誇っていた米ソ冷戦時代のことでした。核戦争の偶発を恐れていた時代でもあり、日本は今と同じようにアメリカの核の傘の下にいました。

そんな時代のこと、冷戦の敵方親玉であるソ連の戦闘機が、わが国防衛戦力に何ら阻まれることなく、無傷でわが国領土である函館に着陸しました。このうえなく頼りない自衛隊でありました。

事件を知ったとき私は、ソ連やアメリカなどとの政治的関係に注目するばかりでした。着陸後にこんなに緊迫した防衛問題があったことは知りませんでした。そして、これほどの緊急事態に対応する法制が必要だと思いました。自衛隊も緊急出動できる法制が無ければ、基地から不用意に出ることはできないのですから。

以下は手持ちの学研文庫「ミグ25事件の真相」(2001.8.13.初版発行)からまとめました。

1976年(昭和51年)9月6日
13:11 ・空自奥尻レーダーサイト、北海道西方180km地点を東進す
       る識別不明機を捕捉
13:13 ・北部防空管制司令所、第2航空団に緊急発進準備指令、千歳基
       地でパイロット乗機
13:14 ・識別不明機、自衛隊機の要撃限界線に接近
13:18 ・函館空港上空にソ連戦闘機ミグ25一機飛来・旋回
      ・空港から航空自衛隊第2航空団(千歳基地)へ電話第一報
      ・第2航空団から北部防空管制司令室(三沢基地)に速報
      ・空港から運輸省航空局札幌航空交通管制部へ電話第一報
      ・札幌航空交通管制部、北海道警察本部に第一報
13:20 ・要撃戦闘機ファントム2機、緊急発進
13:49 ・北部防空管制司令所、スクランブル中のファントム要撃戦闘機
       2機に函館確認指示
13:50 ・ソ連戦闘機ミグ25、函館空港に着陸
      ・函館空港から空自第2航空団に着陸を電話連絡
      ・空港職員がソ連機に向かうと、パイロットが空に向けてピスト
       ル1発発射
13:50 ・空自北部方面隊司令部(三沢基地)の瀬戸3等空佐が陸自第28
       連隊本部(函館駐屯地、空港東4km)に緊急電話を入れる
      ・函館空港職員から28連隊本部に出動要請電話
      ・28連隊本部から陸自11師団司令部(札幌)に報告
      ・辰巳3等陸佐、私服で函館空港に情報収集に向かう
13:58 ・ファントム要撃戦闘機、識別不明機を滑走路上で確認
14:00 ・このころ、110番通報を受けて、函館中央警察署板東署長以
       下が空港に急行
      ・パトカーがソ連戦闘機パイロットを保護
      ・道警函館方面本部機動隊など続々と警察官到着、ソ連機のまわ
       りに警備線を張る
14:30 ・このころNHK臨時ニュースで他の連隊幕僚将校もソ連戦闘機
       函館着陸を知る
      ・陸幕-北部方面総監部-師団-連隊の各級情報所開設
14:45 ・新幹線車中の坂田防衛庁長官に第一報届く
15:00 ・28連隊辰巳3等陸佐、函館空港で警察の警備線に追い返され
       る
17:24 ・第2航空団野中3等陸佐以下11人の空自調査団先遣隊、函館
       空港に到着

1976年(昭和51年)9月7日
00:00 ・機体管理権が法務省に移り、警察から検察に移る
05:20 ・空幕防衛部副部長松井泰夫空将補以下19人の技術調査団、函
       館駐屯地に入る

1976年(昭和51年)9月8日
早 朝   ・米政府筋より情報「戦闘機奪回または破壊のためソ連軍ゲリラ
       侵入の動きあり」
07:30 ・三好陸幕長、田中北部方面総監に命令
        一、函館空港に侵入する敵は、これを、直ちに撃滅せよ
      ・田中北部方面総監、近藤第11師団長に命令
        一、第11師団は道南地区の警戒を厳重にせよ
        二、侵入するソ連軍ゲリラは、これを撃滅せよ
      ・近藤11師団長、高橋第28連隊長に命令
        一、駐屯地全部隊は第三種非常勤務態勢につけ
        二、函館に侵入する敵を撃滅せよ
このころ  ・海自大湊地方総監、全艦艇に総動員態勢を指示、津軽海峡を24
       時間警戒
      ・空自北部航空方面隊、所属する要撃戦闘機全機臨戦態勢
08:00 ・陸幕永野幕僚副長、高橋28連隊長に電話
       「函館に直接侵略があったら、28連隊は対処行動を取ってよ
       ろしい。連隊長と函館空港長との間にホットラインを作れ」
10:00 ・三好陸幕長、高橋28連隊長に電話「俺が腹をくくるから、函
       館にくるソ連兵を生かして返すな」

1976年(昭和51年)9月9日
16:30 ・函館駐屯地作戦会議、4個中隊出撃態勢に入る
      ・4個出撃中隊、各中隊2時間上番(即応中隊)、全員鉄帽着用、
       小銃・拳銃携行の戦闘軍装
      ・61式戦車2両、高射機関砲L-901門、函館駐屯地に配備

1976年(昭和51年)9月10日
10:00 ・11師団幕僚会議、師団長以下鉄帽着用・拳銃携行
16:00 ・高橋連隊長、駐屯部隊全員を集合させ状況説明・訓辞
       「私は、いつも諸官の先頭に立って戦う。我々が戦わずして、
       誰が戦うのだ」

1976年(昭和51年)9月11日
15:06 ・ホークミサイル部隊レーダーが識別不明機多数の3目標を捕捉
      ・L-90高射小隊より電話、識別不明の3目標函館方向に移動中
      ・高橋連隊長、即座に命令「第28連隊、出撃」
15:09 ・L-90高射小隊戦闘配置、点検射曳光弾発射
15:12 ・出撃中隊、戦車を含む戦闘車列に完全武装で乗車完了・エンジ
       ン始動  営門手前で発進命令を待つ
このころ  ・L-90高射砲小隊、識別不明機3目標が空自C-1輸送機であ
       ることを双眼鏡視認
      ・連隊長、直ちに命令「連隊、出撃中止」



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「韓国国防白書1998」から抜き書き

2005-07-02 13:04:07 | Weblog

手元に「韓国国防白書1998」があります。その断片をアトランダムに抜き書きしました。独立国家の一側面を見ることができます。小見出しは川本がつけました。

◇北朝鮮軍の態勢
北朝鮮はこれまで開発された大量破壊兵器と特殊戦略部隊などを韓国軍部隊の密集した地域や大都市、国家主要施設などに初戦から投入することで、前方・後方に関係なく同時に混乱を作り上げ、韓国を奇襲侵略することを狙っている。

北朝鮮は、平壌・元山線以南の地域に10個軍団、60個正規師団/旅団を前進配置させ、いつでも部隊調整なしに奇襲南侵が可能な態勢にある。

軍団から旅団まで多様に編成された機械化歩兵および戦車部隊は、主要攻撃軸線上に縦に長く配置されている。これらの部隊は、攻撃時に一旦突破口が形成されれば、これを拡張し、韓国軍の後方地域まで深く侵入する縦深機動作戦部隊として集中投入されるものと判断される。

砲兵部隊は、硬い坑道陣地に隠れたまま、縦深的な支援射撃が可能であり、多連装ロケット砲による大量集中攻撃と自走化による機動性ある支援能力を備えている。

約10万名に達する特殊部隊は、有事には後方地域に同時多発的に侵入し、兵站線の遮断と飛行場などの主要施設を攻撃して、韓国の継戦能力を破壊し、韓国全域を同時に戦場化させることを企てている。

◇韓国軍の態勢
現在位置から部隊調整なしに奇襲が可能になるよう前進配置された北朝鮮の戦力と、前方航空基地に前進配置され、5分以内に首都圏への攻撃が可能な北朝鮮の航空機に対し、韓国軍は24時間監視態勢を維持している。

北朝鮮は米増援軍の展開される以前に短期決戦によって戦争を終結させようとするため、国際的非難を無視して、首都圏を含んだ後方の非軍事的地域まで生物・化学兵器で攻撃する可能性がある。これに備えて、韓国軍は政府の関係部署と協議し、飛行場・港湾など主要戦略施設の保護と首都ソウルの機能維持など、防護態勢を常に補強している。

敵のミサイル基地と地下に建造された砲兵陣地、多連装ロケット砲の移動などに対しては極めて小さな活動まで追跡している。

予想される敵側機械化部隊の主要接近路周辺には停戦ラインのはるか後方(韓国内の奥深く)に至るまで、河川および隘路、肩部陣地(敵が来る方向に向かって鋭くつきだした崖などに設けられるもの)など自然的地形を最大限利用し、対戦車防御態勢を整えている。

北朝鮮はAn-2をはじめ、低空・低速航空機と高速上陸艇およびホバークラフトなどを利用し、空中と海上の両面から特殊戦部隊を密かに侵入させるものと判断される。



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戦争体験聞き書き

2005-07-02 04:24:11 | Weblog

◇汚物をツルハシで割る日本兵
私が中学生のとき、社会科の先生が満州での兵隊経験を話しました。それは便所当番の話で、凍っている汚物をツルハシで割るんだといっていました。割ったものを捨て場まで運び出します。

◇ソ連の強制労働から帰還した社長
大学を卒業して初めて就職した会社の社長は、満州でソ連の捕虜になり強制労働に従事しました。たしか日本に帰ったのは昭和23年ごろだったと聞きました。

◇中国戦線で命拾いをした速成将校
私が20才のときに亡くなった私の育ての父からは二つの話を聞きました。育ての父は旧制の京大生のときに徴兵されて速成の将校になりました。中国の万里の長城で敵の機関銃に撃たれて意識を失いました。夜が明けて戦場掃除にきた味方に助けられました。将校だったから念入りに生死を確かめてくれた。兵隊なら、死んでいると見て放っておかれたに違いないといっていました。

◇銃剣刺突用の捕虜を逃がす
もう一つ、育ての父の話。ある日、父の部隊(たぶん小隊)に中国人の捕虜1人が預けられました。その捕虜は、兵隊の銃剣刺突の練習台でした。その捕虜が父の弟によく似ていたそうです。どうしても殺すことができず、逃がしてやったといっていました。戦場で父は弱い将校だったようで、兵隊にいつも「無理をするなといっていた」といいます。「その点士官学校出は違う。あれらはすぐに突撃と言うから、いっしょにいると命がもたん」といっていました。直属する中隊長とか大隊長に士官学校出がいたのでしょう。父のような速成将校でなく、本流の士官学校出身将校は勇敢だったのでしょう。

◇負けた日本軍の方が立派な編制装備
知人に竹中さんという人がいましたが、その人は中支にいたといいます。それが中国のどこかまでは聞いていません。その人の所属部隊では、戦闘はずっと勝っていたといいます。敗戦で中国軍から武装解除を受けたときは、こちらの方が立派でいばっていたといいます。

◇全滅サイパンの生き残り
高校生のときに友人から聞いた話。友人の父は軍医だったそうです(私の高校生当時は印刷屋さんでした)。米軍に負けて、みんな洞窟に逃げ込んでいました。とにかく砲弾、爆弾がすさまじくて、とても洞窟の外に出られなかったといいます。洞窟から出るのは水をくみにいくときだけで、それは命がけで、かたっぱしから殺されたといいます。どのようにして無事に捕虜になったかは聞いていません。

最前線で無事に捕虜になるのは、難しいことだったようです。人の姿を見ると反射的に乱射します。そうしなければ、相手が武装した敵兵だったら、一瞬の遅れでこちらが殺されます。だから、こちらが降参するつもりで出ていっても、相手が反射的に撃つのです。

私が聞いた経験談では、総じて中国戦線はのんびりしていて、南方戦線は無惨な敗軍でした。

◇母の体験-爆撃で命拾い
私の母はいま満80才です。当時20才だった母の戦争体験は豊富です。母は大阪と尼崎の2回、空襲に会ったそうです。伏せているお尻のすぐ後ろで爆弾が爆発して、母より離れたところにいた人が死んで、母は無傷だった。あまりに近くで爆発したので、爆風が母の体の上をいったらしい。

◇爆撃 ちぎれた片腕、脳みそがたれる
近所の豆腐屋のおばさんが、爆撃でちぎれた自分の片腕を持って逃げていた。脳みそが後ろにたれているのに歩いているおじさんがいた。

◇戦闘機 機銃掃射にやられる
一度機銃掃射で追いかけられた。「あれはアメリカ兵の顔が見えるんや、しつこいでぇ、どこまでも追いかけるんや」と母がいいました。ダダダダと来て、それから旋回して戻ってくるそうです。そのときは小学生の女の子が殺されました。

◇母、原爆直後の広島に入る
昭和20年8月6日、私の生みの父は徴兵されて広島のどこかの兵営にいました。広島県出身でした。広島に新型爆弾が落ちてたくさん死んだという話が、その日のうちに和歌山に疎開していた母にも伝わったといいます。父のことが心配になって、すぐに母は広島に行ったそうです。母は翌日広島に入ったといいますが、あるいは8月8日のことかもしれません。母は7ヶ月の妊婦でした。胎児は私自身です。

◇広島原爆 ずる剥けの皮膚をひきずり歩く
広島駅に着くと、列車が横倒しになったままで、車内にはつり革を持ったままの姿で黒こげになっている死体がいっぱいあったといいます。太田川の水べりは死体でびっしり埋まっていた。みんな水を飲みにきてそのまま死んでいたといいます。やけどのために腕の付け根からずるっと皮膚が剥けて、それが手首で止まって、両腕の皮膚の指先を地面にひきずり、やけどで痛いから両脇とも腕を浮かせて、そんな姿で歩いている人がたくさんいた。「あんな人らはみんな死んだやろな」と母はいいます。

◇広島原爆 水をせがむこども
あるところを通りがかったとき、倒れていた小さなこどもに「おばちゃんお水ちょうだい、おばちゃんお水ちょうだい」とせがまれたけれども、何もしてやれなかった。原爆直後で何もない広島市内で、大阪から来た身重の20才の女性には何もできませんでした。その子は「死んだやろなあ」と母はいいます。

◇広島原爆 バサッバサッと髪が抜ける
さいわい生みの父は市内から離れた兵営にいて被爆を免れていました。母は広島県の父の実家に何日か逗留したようです。広島の電話局にいて、表面的には無傷だったいとこがやがて寝込み、くしを通すたびにバサッバサッと髪が抜けるようになりました。母に「お姉さん私も死ぬやろか」と広島弁でいっていたその人は、まもなく亡くなったそうです。その当時、髪が大量に抜けて1ヶ月2ヶ月のうちに亡くなった人が多くいたので、バサッバサッと髪が抜けると近いうちに死ぬとみんなが思っていました。

◇そのとき私は胎児でした
原爆の話はこどもの頃から、くり返しくり返し、くり返しくり返し、母から聞いております。そのとき私は胎児でありました。胎児でありましたが、母とともにそこにいたという意識がぬぐえません。


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道交法改正はメーカーのためにある?

2005-07-02 00:04:48 | Weblog

◇高速道路2人乗り解禁は不合理!
もう2,3年前でしたか、大型自動二輪の高速道路2人乗りが解禁されましたね。あれには驚きました。二輪はこけたら大変です。高速道路で走行中にこけたとしたら、命が無事とは思えません。それなのに高速道路2人乗りを解禁するとは!

◇シートベルトは焼死・溺死の危険あり
それより以前に、事故死を減らすためにといって、シートベルトが義務づけられました。私なんかは、事故を起こしたら車に閉じこめられるなと思って、シートベルトを締めるのがイヤなんです。

何かの事故に巻き込まれて車が横倒しになり発火したらどうなるでしょう? 事故で車がゆがんだりしていますから、シートベルトがはずれなくなるのではないでしょうか? 港の岸壁で運転を誤って転落したら、シートベルトのおかげで脱出遅延・脱出不能で溺死するのはまちがいありません。

◇道交法改正-メーカー寄りの人命軽視
そういうことがあっても、高速道路の衝突事故では、シートベルト着用者の生存率が高くなるのは警察の説明通りだと思います。シートベルトを強制してまで、交通安全に力を入れているではありませんか。それなのにどうして、高速道路の2人乗りを解禁するのでしょうか? オートバイメーカーの業績を助けるためなら、人命を危険にさらしてもいいのでしょうか?

◇道交法改正はメーカーのためにある?
ついでにいえば、シートベルトを義務づけるのは、自動車部品メーカーの業績にプラスになるからでしょうか。「メーカーの業績にプラスになる」ということが裏の(本当の)目的だとするなら、一つの道交法改正は人命尊重に役立ち、もう一つの道交法改正は人命軽視を促進するという、相反する方向性にも筋が通ります。


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