川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
★自分用メモは、新聞・Webなどのノート書きです。

占領政策の変化-非軍事化から再軍備へ

2005-07-05 22:39:14 | Weblog

1967年早春に書いた私21才の文章の一部を再録します。ここでは、被占領期間中の、非軍事化から再軍備への変化を概観しています。

◇占領軍の民主化措置-欧米型へ
占領軍の多くの民主化措置は、国民の権利の飛躍的拡大によって、戦争を遂行した日本支配階級を抑制しようとするものであったし、また国民の思想基盤を旧天皇制型から欧米型に変革しようとするものであった。

しかし、占領初期のアメリカのこうした施策は初めから早晩崩れ去る運命にあった。これらはアメリカの一時的な政策誤謬にすぎなかったのである。すなわち、第二次世界大戦の後期、すなわち連合国の枢軸国に対する勝利への見通しが明らかになったとき、既に米ソ冷戦の兆しが芽生えていたからである。

その意味でアメリカの日本占領政策は徹底した非軍事化を行うものではなくて、いわゆる「反共の砦」-日本を「アメリカの出城」とするべく実行されなければならなかった。ところがアメリカは、日本が再びアジアの暴れん坊になることを恐れたことと、ソ連を過小評価したこととから、占領政策を誤ったのである。

◇占領政策の変化-反共への舵取り
したがって、ソ連による東欧の席捲、国共内戦という新事態が起こるとともに、アメリカの占領政策はいとも簡単に変更され、占領初期の日本民主化は早くも逆コースの道を歩んでいったのである。彼らにとって、敵は右翼よりも左翼であった。

占領政策の変化は1947年に現れ始めた。1月31日のGHQによる「2.1スト中止命令」はその冒頭を飾る象徴的な事件であった。そして、月刊誌「世界」昭和39年8月号「単独占領への道程」マクマホン・ボールは次のように書いている。

アメリカは日本の経済復興の必要をいよいよ強調し、1946年にはあれほど重要に見えた社会的民主的改革の必要はさして強調しなくなった。政治問題、社会問題は今や国民生産の増加を助けるか妨げるかという経済効果野の点からもっぱら判断される傾向となった。かつての政策は一つ一つ弱められ、放棄され、逆転されていった。被追放者は追放を解除されねばならなかった。日本の財界指導者たちは、形こそ違ったが、かつてのように大金融産業機構を再建することを許されることになった。労働組合の諸権利、なかでもストライキの権利は制限されることになった。占領初期の民主主義の行き過ぎは是正されることになった。(※以上、マクマホン・ボール)

◇軍隊再建へ動く
こうして、朝鮮戦争を契機として警察予備隊が創設されたのである。しかし、それはあくまで契機にすぎないのであって、軍隊再建への動きは既に胎動を初めていたのである。それは1948年1月6日の「日本を反共の防壁に」というロイヤル米国陸軍長官声明や、日本の侵略に対する自衛権を肯定する1950年1月1日のマッカーサー元帥の年頭の辞に端的に表現された。

それゆえに、1950年6月25日朝鮮戦争の勃発から2週間後(7月8日)にマッカーサー元帥は警察予備隊設置を吉田首相に指令し、8月10に吉田首相が予備隊令を公布し、8月13日には全国市町村役場で隊員募集受付が開始されるという迅速な処置を取りえたのである。

◇自衛隊成立まえの略年譜
1951年  警察予備隊に約400人の旧軍人が入隊
1951.10.19  吉田・リッジウェイ占領軍最高司令官会談
       フリゲート艦18隻、上陸用舟艇50隻貸与が決まる
1952年  日米行政協定・安全保障条約発効
1952.02.01. 防衛隊新設を発表、ひきつづいて海上警備隊新設を決定
1952.10.15. 警察予備隊を保安隊、海上警備隊に改組
       兵力は地上軍11万、空軍120機、海軍68隻7500人
       合計12万人、警察予備隊7万5千人にくらべて飛躍的増大
1954.07.01. 保安隊、海上警備隊を陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊に
       改組



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憲法につきまとう復古(ナショナリズム)勢力

2005-07-05 18:53:02 | Weblog

◇旧天皇制度維持への執着-「大逆罪」維持を企む
国立国会図書館の日本国憲法の誕生読みますと、日本側が旧天皇制度の秩序維持に力を集中していることがよくわかります。それを象徴するかのように、新憲法公布の日として、明治天皇誕生日である11月3日に定めました。

吉田首相の感想はこうです。「新憲法は、種々難点があるが、現状では一応満足するほかない。また一応けりをつけておいたほうが内外の状勢上よい。」吉田首相はまた、大逆罪の廃止を要求したGHQに対して、存置するべしとして交渉をしました。

占領開始の1945年秋から1946年秋までの1年間、新憲法制定に至る過程は、明治憲法下の天皇支配体制を少しでも残したい日本側(ナショナリズム勢力)と、日本の侵略体質を徹底的に葬り去りたい連合国側(リベラリズム勢力)のせめぎ合いでした。

◇非軍事化体制作り・天皇制廃止・自由で民主的な社会の建設
連合国側(リベラリズム勢力)が日本の侵略体質を葬るために第一にしなければならないことは、非軍事化体制作りでした。第二にしなければならないことは、軍事国家日本を作り上げてきた社会体制を葬ることでした。それは天皇制を廃止し、自由で民主的な社会体制を作ることを意味していました。

◇二つのポイント-天皇制と軍備
ここに、戦後日本がずっとひきずってきた二つのポイントがあります。日本の支配層には、軍備を残そうとする動きがありました。これは日本が敗戦と同時に連合国の大軍に占領されていたので、あっさり否定されました。しかし、この地下水脈が今も生きていて、「憲法9条改変運動」につながっています。もう一つのポイントは、天皇制を守ることでした。

◇ポツダム宣言-国体護持のために受諾が遅れた
1945年7月26日のポツダム宣言は日本に降伏を迫る宣言でした。そこには「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ」とありました。

日本政府は「国体の護持」を降伏の条件としていました。「国体の護持」とは天皇制の維持であり、昭和天皇を戦争犯罪人にしないという意味でした。もう死に体であった日本は、その間にも、満州で南方で広島で長崎で、厖大な死傷者を出していました。

◇違憲判決と靖国神社・護国神社
地裁段階では靖国神社や護国神社を特別扱いすることに違憲判決が出ています。それでも靖国神社を特別な存在にしておこうとする勢力には非常に強いものがあります。

◇ワールドカップ応援は愛国心の発露ではない
また今、政府は教育基本法を改正しようとしていますが、その主眼の一つは「愛国心の育成」です。オリンピックやワールドカップなどで、我が日本人は熱狂的に日本チームを応援しています。それでも「愛国心が足りない」という人たちがたくさんいます。

その人たちにとって、ワールドカップに熱狂するたぐいの心は、愛国心ではないのです。彼らのいう愛国心とは、「従順で聞き分けがよく、日本の伝統や天皇にに盲目的な愛着を持ち、他国の物言いをすぐにケシカランと感じる」心ではないかと想像します。

◇今に続く旧体制日本の血-復古勢力
旧体制日本の血がどうしてこんなに濃いのか不思議に思います。その血が天皇制度の強化を願い、軍備の強化を願い、旧体制型愛国心の強化を願い、憲法9条改変を願っています。



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日本国憲法の誕生-資料集その2

2005-07-05 16:08:47 | Weblog

きのうに引き続いて、国立国会図書館の日本国憲法の誕生から資料ノートを作りました。

◇資料16 新憲法可決までの足取り
1946. 2.13. GHQ憲法草案、日本政府に提示
      2.22. 松井国務大臣、吉田外務大臣他1名、GHQを訪問
            GHQ草案のうち、日本側の変更が許されない部分
            を打診
      2.26. 日本政府、GHQ草案に沿った新しい憲法草案の作
            成を閣議決定
      3. 4. 政府3月2日案をGHQケーディスと協議、修正
      3. 6. 日本政府、憲法改正要綱草案を発表
      4.17. 日本政府、憲法改正草案を発表
      8.24. 衆議院本会議、帝国憲法改正案を可決
     10. 6. 貴族院本会議、帝国憲法改正案を修正可決
     10.29. 枢密院本会議、帝国憲法改正案を全会一致で可決
     11. 3. 新憲法公布(この日「明治天皇誕生日」)
1947. 5. 3. 新憲法施行
 
◇資料17 日本国憲法成立-芦田の感想
1946年11月4日憲法公布の翌日、衆議院帝国憲法改正案委員会委員長を務めた芦田均は、NHKラジオで午前6時45分から15分間、「新憲法」と題する講演を行った。

この放送で芦田は、明治憲法下での軍閥・官憲による自由・人権の抑圧を振り返り、新しい憲法の必要性を説いた後、
  1.象徴天皇制
  2.戦争の放棄
  3.国民の権利の大幅な保障
  4.民主主義       ……の四点で説明した。

◇資料19 大逆罪、不敬罪の廃止
1946年12月20日、ホイットニー民政局長は、木村篤太郎司法大臣に対し、不敬罪、大逆罪に関する規定を定めた刑法第73条から第76条までの条項を削除するよう指示を与えた。

これを受けて、吉田茂首相は、12月27日付けのマッカーサー宛書簡で、1)天皇の身体への暴力は国家に対する破壊行為であること、2)皇位継承に関わる皇族も同様に考えられること、3)英国のような君主制の国においても同様の特別規定があること、を理由に大逆罪の存置を訴えた。

しかし民政局法務課長のアルフレッド・オプラーは、吉田の書簡の内容について調査を行い、アメリカ大統領及びイギリス国王には日本の大逆罪に該当するような特別規定は存在しない、と結論づけた。

この調査結果を踏まえ、翌年2月25日、マッカーサーは吉田宛書簡で、吉田のあげた存置理由について一つ一つ反論し、天皇や皇族への法的保護は、国民が受ける保護と同等であり、それ以上の保護を与えることは新憲法の理念に反する、と吉田の訴えを拒絶した。


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日本国憲法の誕生-資料集その1

2005-07-05 03:12:35 | Weblog

◇資料1 日本国憲法の誕生
国立国会図書館の日本国憲法の誕生から資料ノートを作りました。

◇資料2 大西洋憲章八
1941年8月14日、米英2国によって合意発表

八、両国ハ世界ノ一切ノ国民ハ実在論的理由ニ依ルト精神的理由ニ依ルトヲ問ハス強力ノ使用ヲ抛棄スルニ至ルコトヲ要スト信ス。陸、海又ハ空ノ軍備カ自国国境外ヘノ侵略ノ脅威ヲ与エ又ハ与ウルコトアルヘキ国ニ依リ引続キ使用セラルルトキハ将来ノ平和ハ維持セラルルコトヲ得サルカ故ニ、両国ハ一層広汎ニシテ永久的ナル一般的安全保障制度ノ確立ニ至ル迄ハ斯ル国ノ武装解除ハ不可欠ノモノナリト信ス。

◇資料3 ポツダム宣言
1945年7月26日、米英中3カ国によって合意発表

六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス

七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ

十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ

◇資料4 米国の初期対日方針SWNCC150/4
SWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)150/3では、天皇を含む既存の日本の統治機構を通じて占領政策を遂行するという間接統治の方針が明確化された。そして、主要連合国間で意見が相違する場合は、米国の政策がこれを決定するとした。

1945年9月22日、150/3に修正を加えた150/4が米国国務省によって発表された。日本での新聞発表は9月24日だった。

SWNCC150/4では、占領の究極目的として、平和的で責任ある政府の樹立と自由な国民の意思による政治形態の確立をうたっていた。

これを受けた日本外務省は、9月30日付け「降伏後ニ於ケル米国初期対日方針説明」において次のように分析した。

米国は天皇制を含む日本の統治形式の存続を保障している訳ではなく、「過去の経緯」及び「自国の利害打算」から、変革が外部から強要された形を取ることを避け、日本の政府、国民が「自発的」に現存の統治制度を改革することを期待している。

◇資料5 日本統治体制の改革(SWNCC極東小委員会PR-32)
1945年10月8日1945(昭和20)年10月8日付けで国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会がまとめた資料。原文資料名は「Reform of the Japanese Governmental System」となっています。国立国会図書館の和訳資料名は「日本統治体制の改革」になっています。占領軍の軍政は日本政府を支配する間接統治ですから、the Japanese Governmental System の訳は「日本政府の制度」または「日本統治の制度」の方がよいと思います。

日本に統治体制を変革する十分な機会を与えるべきだが、自主的に変革し得なかった場合には、最高司令官が日本側に憲法を改正するよう示唆すべきだとしている。

具体的には、日本国民が天皇制を維持すると決めた場合に、天皇は一切の重要事項につき内閣の助言に基づいてのみ行うことや、日本国民及び日本の管轄権のもとにあるすべての人に基本的市民権を保障すること等、9項目の原則を盛り込んだ憲法の制定が必要であるとしている。

◇資料6 宮沢俊義の外務省における憲法講演
1945年9月28日、宮沢俊義東大教授が外務省で憲法改正問題について講演した。明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうると論じ、明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だとの見解を示した。

◇資料7 矢部貞治「憲法改正法案(中間報告)
1945年10月3日付け憲法改正案。東久邇宮内閣の副書記官長で、元海軍少将の高木惣吉の依頼によって、矢部貞治東大教授が作成した。

矢部の案は、「この機会に自主的に憲法を改正」するとの立場から、天皇「統治」(君臨)のもとに民意を反映した政治体制を実現することで、明治憲法の統治制度を議院内閣制に近づけようとするものであった。

◇資料8 近衛国務相・マッカーサー元帥会談
1945年10月4日、東久邇宮内閣の無任所大臣であった近衛文麿がマッカーサーを訪問した。近衛は政府の組織等について、マッカーサーの意見を求めた。マッカーサーはこれに答えて「憲法ハ改正ヲ要スル」、改正して自由主義的要素を十分取り入れなければならないと述べた。

◇資料9 外務省内の憲法改正問題に関する検討
外務省内では、1945年10月上旬に憲法改正問題に関して検討した。

外務省政務局第一課では、ポツダム宣言や初期対日方針が、天皇制を含む日本の統治制度の改革を要求していることを踏まえ、予想される連合国側の改革要求を先取りすべく「自主的即決的」に統治制度の改革に着手しようとしたものであり、その中には、憲法改正が含まれていた。

同じ外務省の田付景一条約局第二課長兼第一課長は、「帝国憲法改正問題試案」を作成し、「自主的に改正すべき点」を論じた。

また、条約局で作成したと見られる「憲法改正大綱案」では、天皇の地位の堅持とともに「一君万民の政治」、「民本主義」をその根本方針として、天皇制を堅持しようとした。

◇資料10 幣原首相・マッカーサー会談
1945年10月11日、新任挨拶のために総司令部を訪れた幣原首相とマッカーサーの会談記録及び会談の中でマッカーサーが表明した意見。この意見は、いわゆる「五大改革指令」として知られている。マッカーサーは、日本側が自主的に憲法改正を進めることを待つという基本的な考えのもとに、「憲法の自由主義化」を示唆し、日本の社会組織の改革を求めた。

幣原首相は、続く13日の臨時閣議で、政府として憲法調査を実施することとし、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会の発足が決定した。この結果、憲法改正作業は、近衛を中心とする内大臣府と政府の機関である憲法問題調査委員会の両者で進められることになった

〇五大改革指令

(1) 参政権の賦与に依り婦人を解放すること-婦人も国家の一員として各家庭の福祉に役立つべき新しき政治の概念をもたらすべし

(2) 労働組合の組織奨励-以て労働に威厳を賦与し労働者階級が搾取と濫用より己れを擁護し生活程度を向上せしむる為大なる発言権を与えらるべし 之と共に現存する幼年労働の悪弊を是正する為必要なる措置を採ること

(3) 学校をより自由主義的なる教育の為開放すること-以て国民が事実に基礎付けられたる知識に依り自身の将来の発展を形成することを得政府が国民の主人にあらずして使用人たるの制度を理解することに依り解答するを得べし

(4) 国民の秘密の審問の濫用に依り絶えず恐怖を与うる組織を撤廃すること-故に専制的恣意的且不正なる手段より国民を守る正義の制度を以て之に代う

(5) 日本の経済制度を民主主義化し以て所得竝に生産及商業手段の所有権を広く分配することを保障する方法を発達せしむることに依り独占的産業支配を是正すること

該下の行政部面に就いては国民の住宅、食料、衣料の問題に関し政府が力強く且迅速なる行動に出て疾病、疫病、飢餓其他重大なる社会的破局を防止することを希望す、今冬は危機たるべく来るべき困難克服の道は総ての人々を有効なる仕事に就業せしむるの他なし

◇資料11 松本国務相「憲法改正四原則」
1945年12月8日、衆議院予算委員会の席上、無所属倶楽部の中谷武世の質疑に対する答弁として、松本が表明した憲法改正の原則。続く11日の衆議院予算委員会において、社会党の水谷長三郎は、統治権の総覧者としての天皇制を存続させると、憲法の民主主義化はできないと批判した。

〇憲法改正4原則
(1) 天皇の統治権総覧の堅持
(2) 議会議決権の拡充
(3) 国務大臣の議会に対する責任の拡大
(4) 人民の自由・権利の保護強化

◇資料12 内閣情報局世論調査課「憲法改正に関する世論調査報告」
1945年12月19日、内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して各府県における社会各層の意見を集めたもので、報告は総数287件に及んだ。

憲法の改正については全体の75%(216件)が必要と答えている。その内容は天皇大権の制限、議会の権限増大が最も多く(70件)、ついで貴族院の廃止もしくは改革(57件)、民意の尊重(41件)、人民の権利の拡張・自由の保障(32件)が多かった。

改正手続きについては現行方式を可とするもの、不可とするものがおおよそ半々であった。労働者、小作農に主権在民の主張や民定憲法を求める傾向が高いことがうかがえる。

◇資料13 憲法問題改正調査委員会委員作成の改正私案
1945年12月~1946年1月、各委員が憲法改正私案を提出した。

◇資料14 各政党の憲法改正諸案

〇共産党の「新憲法の骨子」
1945年11月8日の全国協議会で決議された。なお、当日決議されたものは、掲出資料より1項目多く全7項目となっていた。翌年の6月29日に、条文化された「日本人民共和国憲法草案」が発表されたが、その特徴は、天皇制を廃止して共和制を採用していること、自由権・生活権等が社会主義の原則に基づいて保障されていることである。

〇自由党「憲法改正要綱」
自由党の憲法改正特別調査会の浅井清慶大教授と金森徳次郎が中心となって作成し、1946年1月21日の総会で決定した。

〇進歩党「憲法改正要綱」
1946年2月14日の総務会で「憲法改正要綱」を決定した。

自由、進歩両党の案は、天皇大権の廃止、制限や人権の拡張に関する条項があるものの、共和制を否定して、天皇の位置付けを統治権の「総攬者」もしくは統治権を「行ふ」ものとしており、総じて明治憲法の枠組みを堅持した保守的なものだった。

〇社会党「憲法改正要綱」
1946年2月23日発表(掲出資料の表記は2月24日)。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となり、党内左右両派の妥協の産物という色合いが強かった。

同要綱は、「主権は国家」にあるとし、統治権を分割、その大半を議会に、一部を天皇に帰属させることで、天皇制を存続するとともに、議会の権限を増大し、国民の生存権の保障や死刑制度の廃止等を打ち出した点に特色がある。

◇資料15 マッカーサー3原則(「マッカーサーノート」
2月1日付け毎日新聞に掲載された「松本委員会案」の内容が日本の民主化のために不十分であり、国内世論も代表していないと判断したマッカーサーは、民政局に対して憲法草案を作成するよう命じた。

その際、マッカーサーは、憲法草案に盛り込むべき必須の要件として3原則を提示した。その3原則のうちの一つが、第9条の淵源となった戦争放棄に関する原則であった。この資料に見られるように、マッカーサー3原則においては、「自己の安全を保持するための」手段としての戦争をも放棄することが明記されていた。

〇マッカーサー3原則
I
Emperor is at the head of the state.
His succession is dynastic.
His duties and powers will be exercised in accordance with the Constitution and responsive to the basic will of the people as provided therein.
天皇は元首である。
天皇は王朝を継承する。
天皇の義務と権限は、憲法に従い、憲法にこめられた基本的な民意に応じて、行使される。

II
War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.
No Japanese Army, Navy, or Air Force will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon any Japanese force.
国の主権的権利としての戦争は廃止される。
日本は、論争を解決し自国の安全を維持するためであってさえ、手段としての戦争を放棄する。
日本の陸海空軍が正当と認められることはないであろうし、いかなる日本の軍隊に対しても交戦権が授与されることはないであろう。

III
The feudal system of Japan will cease.
No rights of peerage except those of the Imperial family will extend beyond the lives of those now existent.
No patent of nobility will from this time forth embody within itself any National or Civic power of government.
Pattern budget after British system.
日本の封建制度は終わるであろう。
皇族を除いて、現に存在している生活(生命?)を超える貴族階級の権利を認めない。
高貴な身分の専売特許は、これより以後、政府のいかなる国家的公民的権力においても形体を与えられることはないだろう。



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