1967年早春に書いた私21才の文章の一部を再録します。ここでは、被占領期間中の、非軍事化から再軍備への変化を概観しています。
◇占領軍の民主化措置-欧米型へ
占領軍の多くの民主化措置は、国民の権利の飛躍的拡大によって、戦争を遂行した日本支配階級を抑制しようとするものであったし、また国民の思想基盤を旧天皇制型から欧米型に変革しようとするものであった。
しかし、占領初期のアメリカのこうした施策は初めから早晩崩れ去る運命にあった。これらはアメリカの一時的な政策誤謬にすぎなかったのである。すなわち、第二次世界大戦の後期、すなわち連合国の枢軸国に対する勝利への見通しが明らかになったとき、既に米ソ冷戦の兆しが芽生えていたからである。
その意味でアメリカの日本占領政策は徹底した非軍事化を行うものではなくて、いわゆる「反共の砦」-日本を「アメリカの出城」とするべく実行されなければならなかった。ところがアメリカは、日本が再びアジアの暴れん坊になることを恐れたことと、ソ連を過小評価したこととから、占領政策を誤ったのである。
◇占領政策の変化-反共への舵取り
したがって、ソ連による東欧の席捲、国共内戦という新事態が起こるとともに、アメリカの占領政策はいとも簡単に変更され、占領初期の日本民主化は早くも逆コースの道を歩んでいったのである。彼らにとって、敵は右翼よりも左翼であった。
占領政策の変化は1947年に現れ始めた。1月31日のGHQによる「2.1スト中止命令」はその冒頭を飾る象徴的な事件であった。そして、月刊誌「世界」昭和39年8月号「単独占領への道程」マクマホン・ボールは次のように書いている。
アメリカは日本の経済復興の必要をいよいよ強調し、1946年にはあれほど重要に見えた社会的民主的改革の必要はさして強調しなくなった。政治問題、社会問題は今や国民生産の増加を助けるか妨げるかという経済効果野の点からもっぱら判断される傾向となった。かつての政策は一つ一つ弱められ、放棄され、逆転されていった。被追放者は追放を解除されねばならなかった。日本の財界指導者たちは、形こそ違ったが、かつてのように大金融産業機構を再建することを許されることになった。労働組合の諸権利、なかでもストライキの権利は制限されることになった。占領初期の民主主義の行き過ぎは是正されることになった。(※以上、マクマホン・ボール)
◇軍隊再建へ動く
こうして、朝鮮戦争を契機として警察予備隊が創設されたのである。しかし、それはあくまで契機にすぎないのであって、軍隊再建への動きは既に胎動を初めていたのである。それは1948年1月6日の「日本を反共の防壁に」というロイヤル米国陸軍長官声明や、日本の侵略に対する自衛権を肯定する1950年1月1日のマッカーサー元帥の年頭の辞に端的に表現された。
それゆえに、1950年6月25日朝鮮戦争の勃発から2週間後(7月8日)にマッカーサー元帥は警察予備隊設置を吉田首相に指令し、8月10に吉田首相が予備隊令を公布し、8月13日には全国市町村役場で隊員募集受付が開始されるという迅速な処置を取りえたのである。
◇自衛隊成立まえの略年譜
1951年 警察予備隊に約400人の旧軍人が入隊
1951.10.19 吉田・リッジウェイ占領軍最高司令官会談
フリゲート艦18隻、上陸用舟艇50隻貸与が決まる
1952年 日米行政協定・安全保障条約発効
1952.02.01. 防衛隊新設を発表、ひきつづいて海上警備隊新設を決定
1952.10.15. 警察予備隊を保安隊、海上警備隊に改組
兵力は地上軍11万、空軍120機、海軍68隻7500人
合計12万人、警察予備隊7万5千人にくらべて飛躍的増大
1954.07.01. 保安隊、海上警備隊を陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊に
改組
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