ブログ

 

氷ノ山、伊根の舟屋、天橋立

2020-09-21 | 旅行

三日間旅行して夜帰宅。

行先は鳥取、兵庫の県境の氷ノ山、京都府北部の伊根、天橋立など。

天橋立で昼食終えたのが13時半。そこから一般道と高速道で6時間かかって帰宅。

苛酷なロングドライブでした。いつまでこんなこと、できるのかと・・・・

鳥取から兵庫へ抜ける峠、氷の越まで急坂を一時間登ってきました。

目指す氷ノ山頂上が遠くに見えます。

山頂。標高1,510m。登山口から2時間半かかりました。

連休で人多し。

東方面。

北方面。ハチ高原スキー場など。

日本海側に多い芦生杉。下山中。

昔の街道の石畳。

山越えしてお伊勢参りしていたその街道筋とのこと。

山越えはとても大変だったことでしょう。

山では多分最高齢者グループ。登りも下りも若い人や子供たちに次々追い越されます。

悔しいので、下りるとき若い人の真似して走ったらすぐに膝が痛くなって中止。

年寄りは年寄りらしく。下山は2時間。

結局この日は4時間半、山を歩いていました。それから狭い林道を車で但馬方面に下りて、はるばる京都府北部の天橋立まで。さすがに疲れました。


いつか行ってみたかった伊根。家の一階に水を引き入れて船を仕舞っている独特の立て方。舟屋と言います。二か所公開していました。

水がとてもきれいでした。

仕掛けたびくの中には大きなアイナメが三尾、そのほかにも名前の知らない魚も。

伊根に先行った方がいいと宿で教えられて、遊覧船に間に合うように急ぎます。

まぶしい海。

「ニースからモナコへ行くみたい」と言って、それから「いやこちらの景色の方がいい」と言い直します。

「地中海には島はないけど、きょうは島まであるし、入道雲のおまけつき~」

宿から天橋立がよく見えます。

日本三景、あとは松島だけ。見られるかなあ~

ケーブルカーで丘に上がり、見下ろす。

大変な人出でした。連休のあと、感染者が増えてないといいけど。

山陽道は渋滞している恐れがあり、中国道で帰宅。

天橋立から播但道に乗るまでが遠くて大変でしたが、あとは流れもよくて時間通りに帰れました。

しかまあ、こんな苛酷な旅行、いつまで続けることやら。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖母の言葉・・・思いだすことなど

2020-09-21 | 断想

今年も収穫の季節


YASUOはのう、街のミョーケン(どんな字を書くかは不明)さんのお祭りで、回り灯篭買うてくれ言うたけど、買うてやれんかった。買うてくれ言うて泣いたのに。

修学旅行行って寒かった言うて、シャツ買うて来て帰った。シャツ、持たしたらよかった。小遣い、少ししか渡してなかったのに。

よその子が(戦争から)帰って来るのに、あの子はいつ帰るんかと毎日毎日待っとった。朝起きたらきょうは帰って来るんかと思うし、夕方になったら(市の中心部に通じる)西の道へ出て、北を向いて帰るのを待っとった。(それをいつ止めたかは聞いていない。多分復員した戦友に最後の様子を聞たあとで)

あの子は戦争で餓(かつ)え死んだんや。丈夫な子やったのに。


体の丈夫な叔父が農家を継ぐことになっていたらしい。私の父は病弱で、勤め人だったけど、叔父が戦死したので農家の跡取りに。しかし、私が中学生の時にはまた勤めを始めて、兼業農家になった。それは時代の流れでもありました。農地もいくつか潰して借家を建てたりと、都市化の波はひたひたと押し寄せてきたのであります。


母が気の強い人だったので、祖母は遠慮がちに暮らしていた。80過ぎて脳梗塞で寝たきりになり、10か月くらい家で介護受けていた。多分この時期がいちばん辛かったのでは。弟の結婚準備と式の間だけのつもりで、私設の施設に入居してもらい、それから家に帰ることはありませんでした。

介護保険の始まるはるか前、入居費は自費で賄うしかなかったのですが、戦死した叔父の遺族年金を充てたと聞きました。死んだYASUOさんがいちばん親孝行と叔父叔母たちは話していた。


個人的な記憶、人さまに読んでいただくほどの話でもないのですが、ごく身近な人が話す、戦争の記憶。深く心に残っています。軍国主義教育を受けていない分、祖母は天皇が大嫌いでした。息子を戦争に取って殺したと心底恨んでいました。

ソ連が、そして昨今は中国が脅威と言って日本の再軍備、憲法改正を主張する人たちは、戦後の講和条約締結後から延々言い続ける政治勢力がありながら、いまだにできていないのはなぜかと考えてもらいたい。その事実に学んでもらいたい。

それは二度と戦争は嫌。どんな犠牲を払っても戦争だけは嫌と言う庶民の肌感覚が、憲法改正を拒んだ一番大きな力と思います。

冷戦の時代は過ぎ、米中は小競り合いを繰り返しながらも、決して相手を滅ぼそうなんて思ってはいない。できるとも思っていない。どちらの国も国内向けのポーズを取りながら、共存する道を探るべきと本音の部分では冷静に考えていると私は思います。

さる政党が戦後延々、憲法改正を言い続けているのは支持者へのパフォーマンス。それでもできないのは国民の反戦への思い。現実には米軍が駐留し、自衛隊もあるけれど、それで極東で軍事的バランスを取りつつ、憲法だけは最後の砦、いじらないというのが国民大多数の意見と私は思います。憲法条文の日本語の意味と現実の乖離はもう説明不可能な段階にまで来ているけれど、それでも見て見ぬふり、とにかく憲法は守るべきと考えているのでは。

先日、久しぶりに外出したら右翼の街宣車に出くわした。大音量の軍歌。無内容なスローガンの連呼。気分悪くなり、軍歌を聞くうちに祖母の話と叔父のことをまた思い出して、涙が止まらなくなって困った。

若い時はこんなことなかったのに、どうしたもんでしょう。


祖母は、戦争と小さい時に病死した子供以外、全員成人して家庭を持ち、子供も生まれ、50代で産んだ末の叔母の子供四人の顔も見てから86歳で亡くなったので、まあ庶民としての人生を全うした人でしたね。

末の叔母の結婚が決まった相手が、戦死した叔父と同じ名前、不思議な巡り合わせでした。死んだ人は帰らないけれど、またその名前を呼べることが。

自分の産んだ子の孫は何人いたのでしょう。ちょっと計算してみます。えーと、19人ですね。この私、完全に負けています。。。。


コメントは許可制です。せっかく投稿していただいてもあなた様の貴重なご意見を反映しないことがありますので、前もってご了承ください。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書評

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

手織り

にほんブログ村 ハンドメイドブログ 手織り・機織りへ
にほんブログ村

日本ブログ村・ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村